第31話 異質
辺り一面が巨大な氷柱で覆われ、それから発せられる冷気が肌を突き刺す。だけど、痛みは冷気によるものだけじゃなかった。
「はぁっ……はぁっ……」
荒い呼吸とともに、左肩から血が流れてくる。その血は腕を伝い、俺の眼下にいる叶にの傍へと落ちていく。
「う…………ううん……」
叶は徐々に意識を取り戻したのか声を上げる。良かった、無事で。
「き、京介!? ……え!?」
叶は目を覚ました瞬間、その顔を戸惑いとともに強張らせた。だが、俺の様子と辺りの惨状を見て事態を思い出したようだ。
「まさか京介、私をかばって!?」
叶が泣きそうな目で見てくる。
「安心しろ。腕を掠っただけで見た目ほどひどくはない」
そう言うものの、腕はひどく痛む。だけど、むしろ腕だけで済んで幸いだっただろう。
フィアが放った多量の氷柱がは俺たちごとここら一帯をまとめて襲った。そんな中腕一本で済んだんだ。だけど、叶はそう感じてはいないようだ。
「安心できるわけないでしょ!? 少し待って、今止血するから!」
そう言うと、叶は自分の服の袖を破り、俺の肩に巻き付けた。おかげで多少は血が収まったが、依然として血は流れているため、すぐに巻いてくれた布も赤く染まっていく。
「だめ、止まらない……!?」
赤く染まる布を見て叶が焦る。ただでさえフィアという殺人鬼のような女に襲われて叶の心身はともに疲弊しているだろう。もともと、こういう場に居合わせることだって普通はないんだから。
でも、俺の場合は違う。
「これくらい本当に大丈夫だ、叶。それより、今はまだこの場のどこかにいるフィアを警戒しないといけない。乃愛たちのことも心配だ」
今の俺は焦りつつも、冷静に状況を分析できていた。その理由は、以前にもこういう事態に巻き込まれたから、というわけじゃない。俺の中のスイッチが切り替わったからだ。
だが、今回も前回と同様、完全に意識が切り替わったわけじゃなかった。
「京介……?」
俺の雰囲気がいつもと違うことに叶も気づいたようだ。
これまで、叶の前でこの俺に切り替わったところを見せたことはない。隠していたわけではないが、叶を不安にさせてしまった。だけど、今このことを説明している時間はない。
さっきも言ったように、フィアはまだいる。
俺と叶が今どのフロアにいるのかわからないため、俺たちからフィアがどこにいるのかがわからない。
それに、乃愛と雫、金剛が心配だ。雫の近くには乃愛がいたため無事だと信じたいが、乃愛もあの瞬間にフィアの放った氷柱を真正面から受けてしまった。
金剛もそれまでフィアの攻撃を躱していたが、これだけの大規模な攻撃となると、無事とは言い難いかもしれない。
とにかく、まずは乃愛たちと合流しなければならない。もし今の状況で、俺と叶の前にフィアが現れたら完全に詰みだ。
「乃愛たちを探そう。叶、動け――」
叶に声を掛けようとした時だった。俺たちから数メートル離れた氷が、「パキッ」という音ともに亀裂が走った。その亀裂はすぐに広がり、やがて氷は割れ、中から今最も会いたくなかった人物が現れた。
「あら? フフッ、あの攻撃を受けて生きていたのね。運がいいわね、坊やたち」
背筋を凍らせるような微笑を浮かべ、氷の中からフィアが現れた。瞬間、俺の中で警鐘が無遠慮に鳴り響いたと同時に、とてつもない焦燥感に襲われた。
くそっ! よりによって予想していた最悪の事態になるなんて!?
さっき俺が詰みだと言ったのは、俺と叶ではフィアに対抗する術を一切持たないからだ。叶は『エラー』を持たないし、俺の『エラー』もまだコントロールできていないし、なにより戦闘向きじゃない。
対してフィアは、その圧倒的な力を持って一瞬にして俺たちを散り散りにした。
「あ、あぁ…………」
叶が言葉にならない悲鳴を上げる。
無理もない。今目の前にいるのは、私利私欲のために金剛の故郷を滅ぼし、人を殺すことに快楽を見出しているやつだ。俺だって、恐怖で足が竦みそうになる。
どうする? どうすれば、この場から逃げ出せる?
勝つことなんて考えない。ただ、目の前のフィアから逃げる手立てだけを考えろ。
「フフッ、怯えているわね。でも、私はそういう姿をなによりそそるの。……だから、殺すわね!」
フィアが手に氷でできた刃物を作り出し、飛び出す。
俺は咄嗟に叶の前に進み出る。何とかしてでも、叶だけは逃がさなければ!
身の犠牲覚悟でフィアを足止めようとフィアに立ち向かう。だが、その瞬間、今度は俺の真横の氷が内側から勢いよく割れた。
割れた氷の先から、グラムを手にした乃愛が飛び出した。
「はぁぁっ!」
乃愛はグラムをフィアへと向けて振るう。フィアは咄嗟に足元から氷柱を突き出し、グラムを防いだ。そのまま距離をとるように後退する。
「無事であるか、兄者!?」
乃愛は向き直り、俺の無事と、後ろにいる叶の無事を確認した。だけど、俺は乃愛の姿を見て思わず絶句してしまう。
「の、乃愛……!?」
乃愛はいつものツインテールにしている二本の髪を下ろし、その額から血を流していた。血は左瞼を伝い、今もぽつぽつと床に落ちている。
「少しダメージを受けたが、これくらい何ともない」
明らかに俺の受けた傷よりもひどかったが、乃愛は毅然とした態度を崩すことなく、目の前のフィアを睨んでいる。
あの時の攻撃、乃愛でも完全に防ぐことはできなかったのか。乃愛の痛ましい姿を見て、自然と怒りが込み上げてくる。
だがその時、乃愛の奥、割れた氷の先にいる雫を見つけた。
良かった。雫もひとまずは無事だったのか。俺は思わず安堵するものの、雫も一度安堵の表情を見せるが、すぐにその顔を曇らせた。
その理由は、この場に金剛がいないからだろう。
俺と乃愛たちは無事合流できたが、金剛だけがまだ見つかっていない。
「全員まとめて串刺しにするつもりだったけれど、上手くはいかないわね」
フィアは俺たちを見回しながら、愉快気に口を開く。
そんなフィア相手に、今度は乃愛が口を開いた。
「貴様がこれまで犯した数々の罪、そして金剛を苦しめた罪、決して簡単に許されるものではない。ゆえに、その罪、貴様自身の長き時を持って贖ってもらうぞ!」
乃愛がまるでフィアを断罪するようにグラムを突きつける。そんな乃愛を、フィアは子供をあやすように見つめる。
「フフッ、可愛いわね、乃愛ちゃん。だけど、あなたには無理。あたしも最初は乃愛ちゃんを目的にこの地を訪れたけれど、まだまだ全然か弱い子で残念だったわ」
フィアが残念そうに言うが、やっぱり最初の狙いは乃愛だったのか。くしくも、金剛の予想は当たっていた。
「でも、おかげで全く予想していないサプライズに出会えたのは収穫だったわ。まさか、偶然にも舞花ちゃんを見つけてしまうなんて」
その時のことを思い出しているのか、フィアは感慨に耽っているような顔をする。
「貴様の悪趣味は理解できぬし、する気もない。貴様のその勝手な行ないによって金剛はずっと苦しみ続けてきたのだぞ!?」
「ええ、苦しみを与えたのはあたしよ。わざとあの子だけを残して、苦しみを味合わせたの。その結果、将来あの子がどんな憎しみを抱えてあたしを殺しに来るのかが楽しみで仕方なかったわ! そんな彼女の憎しみをもねじ伏せて、完膚なきまでに絶望に突き落としてから殺す!! ずっとその時の表情を待ち望んでいたのよ!」
フィアは嬉々として語る。散々と異常だと思ってきたが、もはや異常という言葉だけで言い表せないほどに、フィアの感情は理解不能なおぞましいものだった。
「貴様……!?」
「そう意味では、乃愛ちゃんには感謝しているわ。時期が早いとは思ったけれど、彼女は十分に殺しがいがあるほどに成長してくれていたわ」
こいつは金剛をまるで自分のおもちゃのように扱っている。自分が楽しむためだけに、金剛に辛い思いを与え続けてきた。そんなの、許せないし、今すぐにも殺してやりたいほどに怒りが込み上げてくるのが自分でもわかる。
だけど、おそらくこの場で一番怒りを感じている人は他にいる。
「いい加減にして!! 金剛さんはあなたのおもちゃじゃない!!」
雫が感情を爆発させるかのように叫んだ。その顔にはフィアに対する激しい怒りの感情が浮かんでいた。
「何で、何でそこまで人をおもちゃのようにぞんざいに扱えるの!? 金剛さんの命を、人の命を何だと思っているのよ!?」
雫は俺たちの誰よりも金剛のことを気にかけていて、金剛の過去を知ってからは友達になろうと諦めないでいた。そんな金剛が、人の命を弄ぶようなフィアによって苦しめられていた。その事実を目の当たりにし、雫の感情は限界だったんだ。
だが、殺人鬼にはその言葉は通じなかった。
「相手のことなんて知ったことではないわ。あたしは好きなように人を苦しめるし、好きなように人を殺すわ。だって、それがとても楽しいんだもの」
フィアにとって人を苦しめ、殺すことは普通のこととして認識しているんだ。
わかってはいたが、話が通じる相手じゃない。
「……雫よ。その許せないという気持ちは我が引き継ぐ」
乃愛が雫を止めるように前に出る。代わりに、自分が戦うと意思を示すように。
「貴様は、我がここで止める!」
乃愛はグラムを手に、フィアへと立ち向かっていった。雫の気持ちを引き継いで。
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