第2話ツバメファミリーの恩返し

 一時的ではあるが、姉から休めと言われて動物病院から締め出された尚季は、姉と顔を合わせずらくなり、隣のログハウスに移り住むことにした。

 動物病院の二階にある自分の部屋から荷物を運び出しているときに、姉の部屋を通りかかった途端、厳しすぎる姉の措置に猛烈に腹が立ってきた。

 本当は、祖父母と父母の死にショックを受けて上の空になり、預かった動物に薬を与えるのを忘れそうになったり、診察後戻すケージを間違えて、大きな動物を小さなケージに押し込もうとした自分が悪いのだが、同じ痛手を負っても表面上びくともしない瑞希を冷たく感じて、遣り込めてやりたい気持ちが湧きあがる。


 そっと部屋を覗いてみると、枕元に投げ出されたままの本の表紙が目についた。

「動物の耳と尻尾のある人間?獣人ファンタジーか?へぇ、姉貴、こんなの読むんだ」

 現実的主義の姉にこんな意外な面があるのかとがぜん興味が湧き、いけないと思いながらも本を手に取ってパラパラとページをめくる。

「んっ?狼男と雄タヌキ獣人の恋???これってBLってやつか?」

 しめしめ。これをネタに迫れば、病院に復帰できるかも……。にやりと笑いながら捲ったページに、ワイルドな狼男がかわいらしいタヌキ少年に覆いかぶさるイラストを見つけ、ドキリとする。が、『食ってやる』というセリフを読んだ途端、尚季はガハガハと笑い出した。

「狼がタヌキを食う?そのまんまじゃん!ひゃは、はははは……」

 腹が捩れるほど笑った尚季は、コメディーじゃあ、ゆすることができないと諦めた。久しぶりに笑ってすっきりしたせいか、八つ当たりしたかった気持ちが跡形もなく消えている。爽快な気分のままログハウスへの引っ越し作業を進めた。


 祖父母の遺品はあらかた整理してあったので、空いている二階の一室に自分の荷物を運びこむだけの簡単な作業はすぐに終わり、一息入れるために、一階のウッドデッキにあるガーデンチェアーに腰かける。と、その時、ピキーッという甲高い鳴き声が聞こえ、黒い物体が矢のようなスピードで尚季に向かって飛んでくる。あわや衝突を覚悟して、片手で顔を覆った尚季の前をかすめるように過ぎていった。

「うわっ、びっくりした!何だ、ツバメか!脅かさないでくれよ」

 ひょっとしてどこかに巣があり、警戒しているのかもしれない。尚季がウッドデッキの上に張り出した屋根に視線を這わせると、扇状に広がった土の塊のような巣と、その下にある糞除けの板に気が付いた。。


「ああ、やっぱり巣がある」

じっと動かずに見ている尚季を気にしながら、親鳥が飛んできて巣に足をかける。すると、六つの小さな黒い塊がにょきっと巣から突き出てヒューヒュー鳴いた。

「ヒナがいる!へぇ~っ、ちっこくてかわいいな。あっ、でも大きさがかなり違うな」

 その理由は、観察しているうちにすぐに分かった。親が餌を持って現れると、一番真っ先に大口を開けて餌をねだるヒナに餌が行く確率が多い。主張するヒナは栄養がいきわたり身体も大きくなるので、余計に餌を欲する。小さなヒナは大きなヒナの身体の影に隠れてしまい、餌ももらえず成長不良になるのだ。

「自然界は厳しいな。兄弟の間でも生き延びるための競争があるんだ。ちびすけ頑張れよ!」

 応援したくなるのは、尚季自身が百七十cmあるかないかの痩身で、男らしさにコンプレックスを抱いているせいだ。顔も小さく目も大きめとくれば、女性は尚季を男友達としては歓迎するが、恋人となると少し物足りないらしい。同類と思っていた友人たちは、尚季と並ぶと男として昇格するらしく、いつの間にかガールフレンドができている。

「世の中は弱肉強食って分かってるけどさ、そこのアホ親鳥、公平に餌やれよー」

 尚季の声が聞こえたのかどうかは分からないが、必死に鳴いているちびすけに無事餌が運ばれたのを見て、尚季は安心したのだった。


 最初は尚季を警戒していた親ツバメたちは、尚季がヒナを襲う様子がないことから、ウッドデッキに姿を見せても警戒音を発しなくなった。そして、十日ほど経った朝、親ツバメの慌ただしい鳴き声に起こされた尚季が、二階の寝室のカーテンを開けると、表の道に立つ電柱からログハウスまでを繋ぐ引き込み電線に、七羽のツバメが止まっている。

「あれっ?あいつらだよな?もう巣立ったのか。早いな」

 尚季はすぐに着替えて一階に降り、リビングの掃き出し窓からウッドデッキに出ると、巣の縁に捕まって下を覗き込んでいるちびすけがいる。親や兄弟たちが羽を広げて、ここまでおいでと騒ぐ中、ちびすけが羽ばたきの練習を繰り返すが、尚季はあることに気が付いた。

「片方の羽が少し縮れてるんじゃないか?」

 でも、ツバメにはそんな違いは分からない。親鳥が電線からちびすけの近くまで飛び、掠りそうなところで旋回すると、ちびすけが置いて行かないでと鳴き声を上げる。電線を見上げたちびすけが、意を決したように、よっこらしょと巣から飛び降りた。

 懸命に羽ばたくちびすけに、尚季が飛べ!飛んでくれ!と必死で声をかける。だがその願いは届かず、ちびすけはウッドデッキに着地した。地面は危険だと本能で分かっているちびすけは身を竦めて動かない。親鳥が元気づけるために、せっせと餌を運んで空へと誘うが、獣医の資格を持つ尚季は、このヒナが永久に空を飛ぶことがないことを知った。

「今頃食べさせてんじゃねぇよ!栄養不足で羽が育ってないじゃないか」

 獣医の免許があってもこの羽は治せない。無力さを感じ、親鳥が一生懸命餌をやる姿を正視できなくなった尚季は、逃げるようにリビングへと入っていった。


 しばらくすると、親鳥がピキーッピキーッと警戒音をあげ、窓の付近を何度も往復するのが見えた。まるで尚季に助けを求めるように、窓の中を覗きながら飛んでいる。

「ちびすけに何かあったのか?」

 窓に突進してサッシに手をつき、スピードを落とす。スライドさせた窓の向こうに、フリーズしたちびすけを囲って、今にも飛びかからんとする猫たちが見えた。

「やめろ!食うんじゃない!」

 大声で叫んでも、猫たちは素知らぬ顔で間合いを詰めていく。尚季は叫び声をあげながら片手をブンブン振り回し、猫たちの輪に突っ込んでいった。

 尚季の勢いに押されて逃げて行った猫たちの跡には、ぶるぶる震えるちびすけがいる。このまま放置すれば、近くで隠れて様子を見ている猫の餌食になるのは目に見えていた。

 尚季はウッドデッキの横に設えたシェルフから、ガーデン用の軍手を取り出して手にはめ、ちびすけの前にかがむと、そっと手を差し出した。

「ほら、おいで。ごわごわするけれど、人間の匂いがつくと、親鳥が餌をやらなくなるからな」

 優しい語り掛けに応えるように、ちびすけがつぶらな瞳を尚季に向ける。あまりにも無垢でかわいい仕草に、ズキューンと胸を撃ち抜かれ、尚季はぶるっと身震いをした。


 猫からヒナを救った尚季を信頼しているのか、親鳥はちびすけに向かって手を差し伸べる尚季に、警戒音を発することもなく電線から見守っている。ちびすけは猫に襲われたショック状態から抜け出せず、尚季が軍手をはめた手で足に触れても、逃げることもできなかった。

「ちびすけ、掴むけれど、怖がらないでくれよ。身体を温めてやるからな」

 そっとちびすけの背中に手を回し、小さな身体をもう片方の軍手の上に載せる。一瞬軍手の中に隠れて見えなくなったヒナを心配して、親鳥が傍に飛んでくる。尚季はちびすけが落ちないように気を配りながら、上空で両手を開いて見せると、親鳥は電線に戻っていった。

 尚季の両手に包まれたちびすけは、身体が温まると動きが活発になり、手の隙間からぴょっこり顔を出して辺りを窺った。充分に温まったちびすけを片手に載せ、縮れた羽を伸ばして診るが、どうやらカルシウムが足りず、骨自体に異常があるらしい。

「ごめんな。治してやれたらいいのに」

 ちびすけは、くちばしを大きく開けて喉を鳴らすと、まるで甘えるように軍手の指に身体をこすりつけてくる。

「お~い、親ツバメ。ちびすけを一旦巣に戻すからな。ちゃんと面倒みろよ」

 名残惜しい気持ちを振り払って、尚季はガーデンチェアに上がり、ちびすけを巣の中に入れてやった。

 朝になるとちびすけは巣から羽ばたき、待ち構えていた猫に囲まれ、親鳥の呼び声で尚季が追い払うというのが日課になった。


 そんなことが何日続いただろう。ある日を境に、二階の窓を覗いて尚季にちびすけの危険を知らせる親鳥たちの警戒音が聞こえなくなった。電線に止まって両親と一緒にちびすけを応援していた兄弟の姿も消えていた。

 飛べないはずと分かっていても、姿が見えなくなったのは、無事に巣立って兄弟たちと飛ぶ練習をしているのだと思うことにした。そう思いたかった。

 動物病院に戻りたいと催促しなくなった弟を心配して、瑞希が動物病院を閉めてからログハウスにやってきた。ちびすけのことがあってから、薬では治療できない動物たちのための施設ができないかと考えていた尚季は、ペットサロンの話を瑞希に相談してみる。と瑞希は、尚季が祖父母と父母のことから立ち直ったばかりでなく、前向きに新しいことにチャレンジしようとしていることに感動して、資金面でも何でも全力で応援すると言った。


 姉を見送りがてら外に出た尚季は、耳に届いた懐かしい声に顔を上げ、期待に胸を躍らせながら辺りに目を走らせた。目に入ったのは、引き込み電線の上にずらりと並ぶ燕尾服!

 喜びがこみ上げ、急いで数を確認するが、思っているのとは違っている。数え間違いだと気を取り直して、もう一度数え直す。何度数えても七羽だ。ヒナは六羽いた。親鳥の二羽を足せば八羽いなければいけない。

 項垂れた尚季の傍に七羽のツバメが飛んできて、四脚あるガーデンチェアーの背もたれに散らばって止まり、一回り大きな親ツバメが、口に咥えていた青黒い石をテーブルの上にそっと置いた。


「何これ?中が光っているみたいで不思議な石だな。俺にくれるの?」

 まるで尚季の言葉が分かったように、七羽が一斉に頷き、石の傍に飛び移った親ツバメが説明をするかのように囀り出す。

「俺にツバメ語が分かったらなぁ‥‥‥」

 途方に暮れる尚季に向かい、親ツバメが羽で石を撫でてから、身体の前で翼の先を合わせて頭を下げた。

「ありがとうって言ってるの?」

 頷くかと思いきや、ツバメが首を振る。否定されても会話が通じたことが嬉しくて、何とか分かりたいと思った途端、何とかというフレーズと翼を合わせたポーズからお願いという言葉が閃いた。ツバメに聞くと、ちょっと首を傾げてから頷くではないか。正解ではないけれど、近い意味に違いない。


 尚季はツバメが石に触れてから願うポーズをしたことを関連づけ、「願いが叶う石って感じ?」と尋ねると、今度は七羽のツバメが拍手をするようにパタパタと羽を振った。

 心の中ではそんな石があるわけないと思ったが、渡り鳥たちが、日本を発つ前にお別れを言いに来てくれたのだろうと考えて、笑いながらありがとうと礼を言った。


 その途端、一斉に七羽が舞い上がり、尚季の頭上で円を描くように飛んだ。そして急上昇した一羽を追って、全羽が青い空へと吸い込まれていく。

 尚季はツバメからもらった不思議な石を片手に握り、元気でなと手を振りながら、小さくなっていく夏の終わりの風物詩を見続ける。柄にもなく感傷的な気持ちになった尚季は、ツバメの姿がみえなくなっても、しばらくそこに立ち尽くしていた。

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