いつか願いが叶うなら

マスカレード

第1話プロローグ

 世の中には信じられないことが起きるもんだ。

 兎耳山とみやま尚季は作ってきたチラシを、姉の経営する動物病院の受付カウンターの端に置いてから、もう一度文章に目をやった。


―ペットサロン【王様の耳】はお客様の大切なペットの声に耳を傾けて、心も身体も癒すサロンですー

 場所:兎耳山動物病院東隣りのログハウス

 ペットの躾、困った癖、ペットの訴えが分からない等々、どうぞお気軽にご相談ください。


 普通の人が見れば何てことのない宣伝文句だが、秘密をかかえる尚季にとってはバレないだろうかと冷や冷やものの文面だ。その秘密ゆえ、今の尚季には人間相手の仕事ができず、摩訶不思議な体験で授かったこの特殊能力を、温めていたアイディアのペットサロンで活かそうと考えた。

 訳あって、尚季の開業を心から喜んでくれた姉の瑞希みずきにさえ、真実を明かせていない。

何も知らない姉は、アイディアを聞いて応援すると言った通り、動物病院の受付にチラシを設置させてくれたうえ、術後のケアとして飼い主にペットサロンを勧めてくれるという。ごめんと思いつつも、今はありがたく好意を受けることにする。

 受付の人に、チラシに反応があった場合知らせてくれるように頼んだ時、背後から女性に声をかけられた。

「あら?ペットサロンって、私の外出中にこの子を預かって、お散歩させてくれるのかしら?」


 おお、さっそくのお客様候補か?とはやる気持ちを抑えて、尚季が営業スマイルを浮かべながら振り向けば、丸々した体型をブランド服で包んだいかにもマダムという感じの女性が、飼い主とペットは似るという通説通り、丸っこ過ぎるフレンチブルドッグを腕に抱えて尚季を見上げている。

 飼い主の散歩という言葉に嫌そうにワフッと呟いたフレンチブルの腹を見て、地面に擦るのを想像した尚季が、飼い主に提案した。

「ええ、もちろん散歩もお受けします。ただ、九月の日中は、まだ日差しが強くてアスファルトが熱いので、地面に身体が近い小型犬と中型犬には散歩は厳しいと思います。【王様の耳】にはジャグジーもありますので、散歩の代わりにスイミングはいかがでしょう?」

「まぁ、素敵!後で伺うわ。ところであなた、院内なのにどうして帽子をかぶってらっしゃるの?」

「あっ、えっと、その……」


 まずい!やっぱり室内で帽子は非常識だよな。尚季が焦って理由を考えようとしたとき、その狼狽ぶりを変に勘違いしたご婦人が、声のトーンを落として訊いた。

「ごめんなさいね、人前では言いにくいことを聞いてしまったのかしら?ひょっとして円形脱毛症か何かなの?」

 え、円形脱毛症?思いもよらなかった理由に、尚季はぱちくりと目を瞬かせたが、本当の理由が言えないために渋々と頷いた。

「やっぱり!あなた学生さんかしら?お若いわりに言葉遣いはしっかりなさってるから、部屋で帽子を脱がないのはおかしいと思ったのよね。【王様の耳】でバイトでもされているの?」


 よくしゃべるご婦人に苦笑いしそうになるのを堪え、残念ながらと答える。どちらかというと直情型でお上手を言えない自分には、秘密を抱えていなくても人間相手の商売は向いていないかもしれないと考えつつ、ポケットから名刺を取り出してご婦人に渡す。

「この春、獣医大学を卒業して、ペットサロンを開くことになりました兎耳山尚季と申します。兎耳山動物病院の医院長の弟です。どうぞよろしくお願い致します」

「まぁ、獣医免許を持った先生だったの?学生さんと間違えてごめんなさい。お詫びにペットを持つお友達に宣伝するわね」

 尚季は助かりますと答えながら、心の中で呟いた。こういう社交的なご婦人を味方につければ、経営をする上では心強いけれど、ご機嫌を損なえば、紹介してもらった客もすべて失うだろう。心してフレンチブルの面倒をみなければ。

 ご婦人と受付係、待合室にいる飼い主たちに会釈をして、尚季は動物病院を後にした。


 南の出口から出て左に進めば、すぐにログハウスが見える。この建物は、祖父母が動物病院を父母に引き継いでから建てた別荘だ。本宅の隣に建てたのだから普通の別宅だろうと思っていた尚季は、遊びに言った時に中を見て、良い意味で裏切られたことを知った。

 ジャグジーに鏡張りのダンスフロア、沢山置いてある運動器具が、いかに祖父母が人生をエンジョイしているかを物語っていたからだ。

 本当なら、今でもこの別荘で、祖母がウォーキングマシーンを使っている姿が見られるはずだった。だが、三か月前、両親と祖父母は仲良く旅行に出かけ、旅先で起きた事故に巻き込まれて四人共あっけなく命を落としてしまった。


 両親の手伝いをしていた瑞希は、葬儀と法事を済ませた後、病気を抱えたペットたちのためと、自分自身の辛さを紛らわせるために動物病院を再開させた。

 しかし、獣医系大学を卒業して二カ月経ったばかりの尚季は、父母から現場の手ほどきを受けながら、もっと最新技術を導入した病院にしたいと夢見ていた矢先の事故だったので、急に足元が崩れたように感じてミスを繰り返し、とうとう姉に休業を言い渡されてしまった。


 このままではいけない!何とか立ち直って使いものになることを姉に証明したい。気持ちばかり焦っていたある日、信じられないことが尚季に起こった。本当に今でも信じられないのだが、ガッツだけは他人よりある尚季は転んでもただでは起きなかった。

 悩んだ末にペットサロン開業に至ったわけだが、そんな前書きより、どんな秘密を抱えているか早く話せと読者は思っていることだろう。それはこれから話すつもりだ。どうか俺が元に戻れることを、みんなで祈ってくれ。



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