サルスベリと嫁
宇苅つい
サルスベリと嫁
■■1
「ほら、智、ちゃんとご飯食べなさい」
パートに勤め始めてから、素子の生活は急に慌ただしくなった。一人息子の智のお弁当をこしらえながら、自然と声は大きくなる。
「智! 幼稚園に遅れるわよ」
「……はぁい」
ちゃんと椅子に座り直した智の姿を確認してから、お弁当作りを再開する。ご飯にアンパンマンの型抜きをして、海苔で眉と目を付けていると、片方が上がり目になった。まあ、いいか。
「おーい、素子。俺の紺の靴下、何処だ?」
夫の伸行が暖簾越しに聞いてきた。藍染めにヒョットコとオタフクの描かれた暖簾だ。切れ目から覗いている伸行の顔も、ヒョットコに近い。丸っこい小さな目に、洋梨型の輪郭。父親似なのだと聞いていた。確かに、姑の節子はふっくらと目尻の下がった瓜実顔で、オタフクの方に近かったと思う。
「靴下なんてどれでもいいでしょ?」
「紺の奴が一番ゴムがピチッとしてて、好きなんだよ」
「いつもの場所にないの?」
「ないから聞いてるんだろー」
もう、と洗った手をエプロンで拭いながら納戸へ行く。箪笥の引き出しを開けると、いとも簡単に紺の靴下は見つかった。スリッパを鳴らして台所へ戻ると、
「あるじゃない」
目の前に靴下を突きつけてやる。伸行は口をちょっとだけ尖らせた。
「俺が見た時はなかったんだって」
そんなワケあるか、ヒョットコ亭主!
心の中で、その口の端を抓り上げるところを想像する。多少イライラが治まった。全く、この朝の忙しい時に、夫は要らぬ用事を増やす。
■
素子が浅井伸行と結婚してから、もう五年になる。
出来ちゃった結婚だったので、お互いになし崩し的に、と言うか、妊娠が分かって、あらそらと思う暇には入籍・挙式が終わっていた。それが悪かったと本心から思った事は、今のところ一度もないが、人生の最大の分岐点での選択を、世間の慣習だの、決まり事だので押し切られてしまったような気がして、時折ふと、天井を仰いでしまいたくなる時が素子にはあった。
何もねぇ、ヒョットコと結婚しなくても良かったわよねぇ。
そんな感じのやるせなさが湧いてくる時があるのだった。私の人生も所詮ここまで、的な諦め気分とでも言うのだろうか。
そうは思ったところで、他にめぼしい相手が居た訳でもなし、素子自身にキャリアウーマンとして一生を生きるだけの能力だの野心だのがあった訳でもなし。自分程度の女にはヒョットコ亭主で十分。いや、十二分なのかも知れなかった。何よりも一粒種の息子はやっぱり掛け替えのない宝物だったし。亭主が変われば、当然智だってこの世には存在しなかったことになる。それを思えば、伸行の存在意義も大いに上がると言うものだ。
それに、と思う。築二十年の平屋建てとは言え、まだ若い夫婦に持ち家があると言うのも、やはり嬉しい。後々の建て替えは必要になるだろうが、ゼロからのスタートと土地持ちでは、気分的な余裕が違う。この界隈でマンションを借りるには最低でも十数万は下らない。これから子どもにも大いにお金の掛かる時期だ。姉の頼子はいつも素子に「いいわねぇ、いいわねぇ」とばかり言う。ほんのちょっぴりでも、他人に優越感が感じられるというのは、素子にとっては幸せなことであった。例え、自分がその事に全く貢献している訳ではなくとも。
■
「パート、どうだ?」
靴下をはきはき、伸行が聞いてくる。食卓に着いて、もそもそパンを囓り始める。
「うん。まあまあよ。出水の奥さんが、いろいろ親切に教えて下さって」
智のお弁当を可愛いプリント柄のハンカチでくるんで、お終いである。伸行は営業職なので、お弁当は要らない。
「出水って、あの角のおばさん? 折角、進学校に入ったご自慢の息子が引きこもりの……」
「登校拒否よ。イジメにあったんですって。午前中は図書館で勉強してるんだそうよ。高校は辞めて、大検を受けるんですって」
「イジメか。嫌な世の中だよなぁ。智、お前は大丈夫か?」
「そんな、幼稚園から」
隣に座る小さな息子の顔を覗き込む伸行に、ちょっと気が早すぎるんじゃない、と素子は笑う。それに伸行が反論した。
「今の世の中、分かるもんか」
「そう言われれば、そうかしらねぇ」
確かに、何が起こるか分からない世の中ではある。毎日のように血生臭い犯罪が新聞紙面を賑わせない日はない昨今だ。幼児を対象にした犯罪も多い。智は幸い女の子ではないが、やはり近所の公園などで遊ばせる時には、素子も周囲の様子に気を付けている。ご近所とのマメなお付き合いも、多分に息子の為である。
「おいおい、子どものことはお前に任せてあるんだからな。しっかりしてくれよ」
「分かってるわよ」
「こういう時は、母さんに生きてて欲しかったと思うんだよなぁ」
「そうねぇ……」
仏間からは、しばらく前に素子が灯した線香の香りが流れてきている。
■■2
出勤する伸行を見送って、玄関まで出た。もう六月も後半で、鬱陶しい梅雨も間もなく終わり、そろそろ蒸し暑くなってくる季節だ。敷地面積ギリギリで建っている浅井家の門の横、申し訳程度のスペースに一本のサルスベリの木が植えられている。
葉は梅雨時期の水分を多く含んで瑞々しく光っていた。サルスベリは夏の花なので、そろそろ蕾がつくだろう。
門を出がけに、サルスベリの木を見上げながら、伸行が言った。
「そろそろ、母さんの一周忌だなぁ。早いもんだ」
「そうねぇ、早いものねぇ」
このサルスベリは、姑の節子が植えたものだ。ガンが発見された時にはもう末期で、闘病から一年を待たずに、昨年の夏亡くなった。入院の中休みで、しばらく自宅療養をしていた折りに、何を思ったのか、ある日ふと造園業者を自ら手配して、この木を植えてしまったのである。事前の相談も何もなかったので、素子も伸行も驚いたのだが、当の節子は、のほほんとしたもので、「ずぅっとね、玄関先が殺風景だと思っていたのよ、うふふ」と、悪戯好きの子どものような目をして笑っていた。本来の植え替え時期でない時に無理に植えられた所為か、去年は蕾を付けなかったので、植えた節子自身は花を見ることもなく死んでしまったことになる。
早くに夫を亡くし、一人息子の伸行を女手一つで育て上げ、そして、この家を中古で買った節子は、これから老後を謳歌しようという矢先に、己を見舞った不幸をどのように受け止めていたのだろう? 「ガン保険が下りたからね、折角だから」などと、その金をこの一本の木に当てた節子の心中は、まだ若い素子には測りきれない領域であった。多少のおセンチな感傷と共に、梢を見上げる。小さな蜘蛛の巣が張っていた。小判型の葉が一枚、糸に引っかかって揺れている。今日のお夕飯時には忘れずに米の研ぎ汁を根っこに掛けてやろう、と素子は思った。
「いってらっしゃい」
「いってきまーす」
智と二人で手を振って見送る。節子も梢の先から手を振っているような気がする。そう言えば、サルスベリの木の皮は他の木と違ってすべすべと艶やかで、白っぽい。猿も滑って落っこちそうな皮をしているので『サルスベリ』という。そんな謂われを教えてくれた義母の肌も、白くなよやかだった、と思い出す。
■
智を幼稚園に送り届けたその足で、素子はスーパーに向かう。そこのお総菜のコーナーで働き始めてから、一ヶ月になる。ようやく職場にも、パート勤めの生活リズムにも慣れ始めた所である。白いスモッグと帽子を被って調理をする。どれもこれも大鍋で大量に作るので、気分は給食のおばさんである。中華料理だとか、魚の南蛮漬けなども昨今のスーパーの総菜では既に定番メニューなので、調理法を覚えられるのも有り難かった。
素子は短大の家政学科を出ていたが、料理にはあまり自信がない。それでもこの職種を敢えて選んだのは、家政科卒という肩書きが幾らかでも有利に働くかも、と思ったのと、午後一時までの短時間の業務だと言うこと。それと、料理のレパートリーを少しでも増やせたら、という思惑があったからだ。姑の節子はこまめな人で、梅干しや魚の干物も自家製の物を作っていた。そういうイロハを学ぶ暇もなく亡くなったので、素子は自力で何とか良妻賢母の道を切り開く必要があったのである。
結婚後、すぐにつわりが始まり、産後の肥立ちも優れなかった素子は、同居していた節子におんぶに抱っこの状態だった。智が生まれてからも初めての子育てに精一杯で、丁度同じ頃に定年を迎えていた節子の存在は、本当に有り難いものだった。
結婚してすぐに姑と同居、というのは、素子にも多少抵抗はあったのだが、一人息子の元に嫁ぐ以上、どうせ先はいっしょに暮らす事になるのも分かり切っていたし、伸行の薄給から家賃と出産費用を捻出するのは、無理ではないにしろ、難しかった。先々のあれこれを知っていた訳では勿論ないが、たった四年の同居生活で節子が亡くなってしまった今となっては、せめてもの親孝行だっただろうか、と思わなくもない。息子夫婦と孫と姑。三世代が小さな平屋の家で、それなりに仲良く暮らしていたのだから。
「浅井さん、こっち混ぜて」
「はいー」
「調味料、そこのボールのね、入れて」
「はいー」
調理場の器具は何でも大きい。おたまも木じゃくしも鍋のフタも、どれも巨大だ。ヒジキの佃煮をかき混ぜながら、ガリバーになったみたいだ、と素子は思う。何時かもっとこの職場に馴染んだら、智をここに連れてきてやりたい。智の小さな身体がすっぽりと入りそうな大鍋に、きっと智は夫譲りの小さな丸っこい目を更に丸くして、見ることだろう。
■
帰りは出水の奥さんといっしょになった。彼女はもうこのスーパーではベテランで、素子にこのパートを紹介してくれたのも彼女である。
「奥さん、今帰り?」
「はい。夕食の材料をついでに買って帰ろうかと」
「今日は何食べるの?」
「そうですねぇ、何にしましょうかねぇ」
今日は葉物が安いですね、とか、まだ梅雨明け宣言は出ないんですかねぇ、とか、そんなとりとめもない会話を交わしながら、黄色いカゴを持って歩く。出水の奥さんは辛いと評判のスナック菓子を三袋もカゴの中に入れていた。「息子がね、もうコレばーっかり食べたがるのよ」と、ちょっと恥ずかしそうにする。登校拒否の息子は辛い物が好みらしい。
素子は生花売り場の前で、ちょっと迷って三百円の花束を一つカゴに入れた。「仏様に?」と聞かれて、「はい」と答える。歳が離れているのに出水の奥さんと親しいのは、元々間に節子が存在していたからである。ママさんコーラスのメンバーで、お通夜の時にも、率先して手伝いに来てくれた。こんなに明るい、人付き合いの良い奥さんの子どもが、何故イジメなんかに遭うんだろう、と素子は時折不思議に思う。当の息子本人とは顔を合わせれば会釈をする程度だが、イジメという言葉に似合う陰気な様子もなく、ただ大人しい感じの普通の高校生だったという印象しかない。
「節子さんもねぇ、まだまだこれからっていう時にねぇ」
「はい。もうすぐ一周忌なんですよ」
「もうそんなかしら? 早いわねぇ」
「本当ですねぇ」
一周忌には、親族だけを呼んで小さな法事を営む予定である。仕出しの料理とお坊さんの手配は、素子の母親の知恵を借りて、もう万事済んでいる。素子だけでなく、夫の伸行も若さ故か、そういう行事には疎かった。節子の葬儀の時にも、素子の両親の助けを随分借りたのだ。もう、子どももいる立派な社会人とは言え、まだ若い二人には知らない事が多くあった。香典袋の名前書きも節子は墨と筆で達者に書いていたもので、筆ペンしか使った事のない素子は、気恥ずかしく感じたものである。年長者は敬え、とは言い得て妙の言葉だと思う。
「あら、ちょっと。また来てるわよ、あのお爺ちゃん」
袖をくいくいっと引かれて、そっと示された方を見る。素子もここで働くようになってから噂を知った『田村のボケ喰い爺さん』が、今日も店内を徘徊していた。
■
このスーパー、というよりも、ご近所で有名人の『田村のボケ喰い爺さん』は、その名の通り、ボケたお爺ちゃんである。温かい時期は今日のようにステテコとシャツという下着姿で、この界隈をうろうろ、のろのろとうろついて回る。旨そうな匂いに導かれてしまうのか、このスーパーに侵入してくることが多い。しばらく鮮魚だの菓子売り場だの見ているが、やがて素子の務める惣菜売り場の一角に来て、勝手に手づかみで惣菜を食べ始めてしまうのだ。
素子も前々から話には聞いていたが、実際に見たのはこれがまだ二度目である。店員ももう対応に慣れたもので、田村さんを見つけると、さっと寄ってきて、言葉巧みに事務室の方へ導いている。試食用に置かれていた唐揚げの数個で巧く誘導しているようだ。
遠目に見ても、ステテコは幾らか黄ばんで見えたし、以前見かけた時にはヨダレを垂らしながら、「うーうー」と指をしゃぶって、惣菜を凝視している姿が、とても薄気味悪かった。スーパー側としても困った老人なのだが、家族もほとほと対応に困り果てているらしく、いつもやつれて疲れた様子の若奥さんが引き取りに来る。田村老人の妻も現在病院で加療中だということで、奥さん一人の手では負いきれずにいるらしかった。
事務室に半ば押し込められるようにして入っていった田村老人の後ろ姿を見送りながら、
ああ、またあの奥さんに電話が掛けられるんだろうなぁ、と素子は思う。そして、奥さんは老人が食べてしまった惣菜やお菓子の弁償をするために、財布をひっ掴んで走るのだ。今日も炎天下の道を、このスーパーまで。
「田村のお爺ちゃんもねぇ、十年も前はパリッとした背広姿でいらしたんだけどねぇ。ほら、矢島運輸。あそこのね、かなり上の方の方だったのよ」
出水の奥さんがほうーっとため息混じりに話してくれる。矢島運輸といえば、この辺りではちょっとは名の知れた会社である。
「それがねぇ、あーんなになっちゃうんだものねぇ」
私も、あんまり長生きしちゃあいけないわね。息子と未来のお嫁さんに迷惑が掛かっちゃうもの。そんな事を冗談とも本気とも取れぬ口調で話す。
「大丈夫ですよ、出水さんは」
「ええ、ウチにはボケの血統はないんだけどね。血圧がちょっと心配で」
「あら、高いんですか?」
「そうなのよ。塩分とかね、今から注意してるのよ。脳梗塞とか怖いでしょう」
ああ、健康で五体満足で、頭が達者な内に息子に看取られて死にたいわ。ホントにね、ああなっちゃあ、お終いだもの。これまで築いてきた物の何もかもが。
閉じられた事務室の扉を見詰めたまま、奥さんが独り言のように呟いた。素子よりも十以上老いに近い出水夫人にとって、他人事の話ではなくなりつつある問題なのかも知れない。
「それを思えばね、節子さんも良かったのかもねぇ。老いに怯えるより前にお迎えが来て……」
そう、言った挙げ句、ハッとしたように、
「いえいえ、やっぱりね、若過ぎだったわよねぇ」と、慌てて付け足した。
■■3
日毎に暑さが増してきていた。照りつける日差しも堪えるが、またこの蒸し暑さが辛い。元気なのは、息子の智だけである。こっちは濃く短く自分から伸びた影の重さを意識しながら、引きずるように足を運んでいるというのに、智ときたら、ぴょんぴょん跳ねるように歩いてくれる。でも、頭は汗でぐっしょりだ。帰ったら、すぐにシャワーを浴びさせなくてはならない。
「おうちー、ぼくがいっちゃくー」
家がそこまで見えてくると、智はぱっと走り出した。最後に敷地内にぴょん、と飛び込んで、そんな宣言をする。
「ママは、にちゃーく」 と、指で差す。
門の横に植えられたサルスベリは、今年は美しい花を付けた。くしゃくしゃのレースのような花びらが可愛らしい。予想していたピンクの花弁ではなく白だったが、夏の玄関を彩るのだから、涼しげな印象の白が良いのかも知れない。
「ああ、ちょっと。浅井さん」
「はい?」
玄関の鍵を開けて、家に入ろうとしていたら、呼び止められた。お隣の菅野さんの奥さんとその先の横井さんの奥さんだ。何やら、二人で目配せを交わして寄ってくる。話が長引きそうな気配を感じたので、智を先に家に入れた。スーパーで安売りしていた乳酸飲料の容器にストローを刺してやって、これ飲んでなさい、と言う。はーい、と良い子のお返事をして、智は家の奥に消えた。一人でテレビを観るなりおもちゃで遊ぶなりするだろう。
■
「何でしょうか?」
お愛想笑いを浮かべながら門まで戻ると、二人の奥さんは少しばかり言いにくそうに、こう切り出した。
「あのねぇ、お宅のね」
「はい?」
「この花、サルスベリねぇ。ちょっと困ってるのよ」
「はぁ」
菅野さんの奥さんは頬に片手を当てたポーズで、横井さんの奥さんは歪んでもいない眼鏡の縁をしきりに触りながら言う。
「ほら、これねぇ」
促されて見ると、白い花びらや黄色のおしべが門の外、辺り一面に散っている。それが、側溝や、お隣の家の前どころか、かなり遠くまで風に飛ばされて、汚らしく隅にたぐまっている。
「……」
早くも夏バテ気味で、ちっとも意識していなかったが、自分の家の前だけならともかく、確かにこれはご近所迷惑な花びらである。気づかなかったのは不覚だった。
「すみません。すぐにお掃除しますから」
大慌てで謝る。素子の実家はマンションで、庭付きの家での暮らしなどした事がなかったので、庭木の出すゴミの掃除など、素子の念頭に浮かんだことがなかったのだ。
そうよね、ウチの庭から散ってるゴミなんだから、ウチが掃除して当然なんだ。
「本当に申し訳ありません。パート勤めも始めたばっかりで、忙しさにまぎれてつい気づけなくって」
「いえねぇ、お宅は小さいお子さんもおありだし、こちらも細かいことを言いたくはないんですけどねぇ」
「一度や二度なら、私どもの家の前くらい、こちらでお掃除しますけど……サルスベリはねぇ。ほら、花の期間が長いって言うか……」
「花びらも軽くって遠くまで飛ばされますし、ねぇ」
交互に話す。斜め目線が身につまされる感じで、暑いからと言う理由でなく、どっと汗の噴き出す思いだ。
「まあ、どうぞよろしくね」
「ほんのちょっと掃いて頂ければ、随分違いますから」
「はい。すみませんでした」
帰っていく奥さん達に、ぺこぺこ頭を下げながら、素子は泣きたい気分になっていた。
ああ、この炎天下の中、今から掃き掃除をするのかぁ。
■
「なんだよ、まだ夕飯出来てないのか」
帰ってくるなり、伸行が不満そうな声を出した。素子はキッチンの椅子にぐったりと座り込んだままである。
ここら中の風下の道と側溝の中の白い花びらを掃いては取り、掃いては取り、本当に大変だったのだ。熱射病か何かで倒れるかも知れないと本気で思った。終わってよろよろと家に戻って、とにかくシャワーを浴びようと服を脱ぐと、紺のTシャツの内側に、塩の結晶の首輪が出来ていた。自分の洋服にこんなものが付いているのを見たのなんて初めてだ。そんなにも汗をかいたのか、と思ったら、急激に喉が渇いた気がして、風呂場の蛇口から直接水をがぶがぶ飲んだ。
「家事もちゃんとやれるって言うから、パートも許可したんだろう、おい」
「……パートじゃないわよ。サルスベリよぉ」
パートと家事の両立は、確かに約束した事ではあるが、こんなに疲れている妻を前にして、最初に言う台詞がそれなのか、と情けなくなる。テーブルに突っ伏したままの素子には見えるはずもなかったが、伸行はきっと今、口を尖らせて、暖簾と同じヒョットコ面になっているんだろう。ああ、見たくもない、そんな顔。
「サルスベリぃ?」
その声に、のろのろと顔を上げた。
「近所の奥さんにねぇ、言われちゃったのよ。お宅のサルスベリの花びらがウチの方にまで散って困りますって」
「ああ、そういやぁ、道に随分溜まってたよな」
「何よ、気づいてたの? どうして教えてくれないのよ」
「家の管理はお前の仕事だろう」
ほら、とにかく早く飯にしてくれよ。そう言う夫の声に不承不承立ち上がった。今日は酢豚を作るつもりで材料を買ってきたのだが、もう、簡単にショウガ焼きにしてしまおう。野菜をいい加減に切って、後は……インスタントのみそ汁だ。
「サルスベリの花びらって、掃きにくいのよ。軽くてふわふわするし、溝の中では水でペッタリ貼り付いてるし……もう、本当に参っちゃった」
花びらが嫌だと言うより、本来は炎天下での作業こそが辛かったのだが、ついつい愚痴めいた文句が口をついて出てしまった。素子としては深い考えがあって言った言葉ではない。ただ、今日は私も大変だったのだと訴えたかっただけなのだが、聞いた伸行はどうやらそうは受け取らなかったらしかった。
「……母さんの植えた木だぞ、文句言うな」
ボソリ、と漏らして、素子の顔を一瞥すると、そのまま暖簾をくぐって、風呂場の方へ行ってしまった。
「……何よ、別にそんな風に言った訳じゃないわよ、ヒョットコ馬鹿」
疲れが更に溜まった気がした。口がへの字に曲がっているのが自分でも分かる。
「ママー、ぼくおなかすいた」
いつも観ているテレビアニメが終わったのか、台所に走ってきた智に「もうちょっと待ちなさい!」と、思わず声を荒げてしまう。智がビクッとした顔をする。
「ああ……」
智が悪い訳ではないのだ。つい八つ当たりをしてしまった。
「ごめんね、すぐ作るからね。もうちょっと待ってね」
抱きしめてやる。智を慰めていると言うよりも、素子は、自分こそが抱いて慰めて欲しかったのかもしれない。
■■4
翌朝。門の前に出た素子は、しばし呆然としてしまった。
昨日、あれだけ苦労して掃き清めた筈の道ばたに、また白い花びらが舞っていたのである。ぼうっと見ている間にも、また一枚の白い花びらがはらはらと素子の目の前を掠めて散っていった。ぬるい風が吹いてきて、その花びらと他の花びらを一緒くたに、さぁっと巻き込んで、菅野さん宅の方へと運び去る。
思わず知らず、目を閉じた。ふぅっと、か細いため息が出る。今すぐに道を掃かなくてはならなかった。朝の内が少しでも涼しいし、第一、昼過ぎまで放っていたら、ここに散っている花びらたちは、遠く広く風に乗ってばらまかれてしまう。そうなってからの処理が如何に大変かは、昨日の作業を推して知るべしである。
玄関口から見える時計に目をやると、時間は余り多くない。朝食の後片づけもまだなのだが、こちらが最優先事項だろう。
昨日の炎天下での作業に比べれば、大分マシだったが、それでも中腰姿勢の続く作業は、じわじわと汗が滲んで、最後にはポタリポタリと顎を伝って滴り落ちた。幾らか花びらがまだ残っていたが、もう時間がない。
第一、と思う。上を見上げれば、サルスベリは今を満開に咲き誇り、掃く傍から、はらりはらりと散るのである。やってられない。
シャワーを大急ぎで浴びて、智に幼稚園バッグを持たせると、小走りに走って幼稚園まで行った。智は幼稚園の門をくぐる時にも「ぼく、いっちゃーく」と言った。折角作ったお弁当箱を忘れてきた事に気づいたのは、幼稚園の先生に「おはようございます」の挨拶をしている時で、素子は青くなって、丁度来合わせたタクシーを呼び止め、飛び乗った。家の前で待って貰い、お弁当箱を幼稚園に届ける。そのままタクシーでパート先まで乗っていった。遠距離ではないが、重複した道が多いタクシーでの移動には、素子の想像以上の金額が掛かった。
今日の二時間分はただ働きかぁ、そう思うと憂鬱になる。それよりも、もっと素子を憂鬱な気分にさせているのは、先程タクシーで一度戻った我が家の玄関先の様子である。
ほんの僅かな時間の間に、白い花びらは、これも素子の予想を超えて散っており、お隣辺りで舞っていた。
■
「ああ、サルスベリねぇ、大変って聞くわよね。あれは花の咲く時期が長いでしょう」
唐揚げに衣をまぶしながら、パート仲間と話をする。
「今年初めて咲いたんですよね。……どの位の期間咲いてるんですか?」
「えーっとね、夏から秋の間に掛けて、咲いてるわねぇ」
「ええっ、そんなに長く?」
「ウチにはサルスベリがないから、はっきりは言えないけど……かなり長く花を楽しめる木よねぇ」
「……楽しむどころじゃないですよぉ」
マスクを常備するのが規則なので、少しくぐもった声同士でのおしゃべりになる。
「浅井さん、あれって秋も大変よ。落葉樹なんだから」
「へっ!?」
「花が終わったら、今度は葉っぱが散るのよぉ」
「えぇぇぇ~~~!」
思わず、手にしていた鶏肉を取り落としてしまった。幸い粉の容器の中に落ちたが、その所為でぶわっと小麦粉が舞い上がる。白い色が少し嫌いになりそうだ。
夏中花びらの掃除。夏中花びらの掃除。しかも秋には落葉樹。落葉樹。落葉樹……。
素子は頭の中でサルスベリの葉を思い浮かべる。そう、確か小判型の小さめの葉っぱが沢山あるんだ。あれもハラハラ舞っちゃうんだ。
流石に花の時期ほど長い期間ではないのだろうが、それでも一夜にして一気に散り終わる、という話ではあるまい。
「……」
途方に暮れる、とはこういう事を言うのではないか。これは何の罰なのだ? 私が一体何したって言うのよぉ……
それでも。とにかくサルスベリの木は浅井家の庭にしっかりと根付いているのである。野中の一軒家ならともかく、毎朝掃き続けるしか仕方がないのだ。
明日から、一時間早く起きよう、と素子は思った。そうすれば、掃き掃除をする時間も早くなり、それだけ気温も涼しくなるし、終わった後にシャワーを浴びて、少しはゆっくり朝の支度も出来るようになる。
「はぁぁ~」
ため息ばかりが何度も漏れる。早起きも料理の次に苦手なのだ。本当にいつもより一時間も早く起きれるのだろうか?
■
子どもの手を引いて帰りながら、素子は物思いに耽っている。もちろんサルスベリの事である。
『ずっと殺風景だと思っていたの』
そう言って、サルスベリを植えた義母。本当に単に殺風景だから、という理由だけであの木を植えたのだろうか? 敢えてあの木を選んだ意図が何かあったのではなかろうか。
義母の節子という人は、いつもオタフク顔でにこにことしていたが、何処か得体の知れない人だったと思う。始終にこにこしているからこそ、逆に本当は怒ってるんじゃないかな、とか、何か言いたいことがあるんじゃないの? と、こちらが勘ぐりたくなってしまうのだ。
妊娠してしまったことが分かって、伸行に相談した時「ウチは母子家庭なんだ。先ずは母さんに会ってくれ」と、そう言われた。一人息子をたぶらかしたふしだらな娘、とでも罵られたらどうしよう、と素子はビクビクもので浅井家に向かったのだが、初めて会う節子は、想像に反してにこにこと素子を出迎えてくれた。丁度冬の時期で、冷えるのはおなかによくないからと、居間の石油ストーブの一番傍に座らせてくれた。
素子自身、ちょっと短慮なところはあるが、その分多くを考えない、人懐っこい気質だったので、一緒に暮らした四年間、嫁・姑の間柄は円満であったと信じている。家事を節子に丸投げしていた時期も確かにあったが、「体調の悪い時は仕方がない」と伸行や素子の実父の説教から庇ってもくれたし、素子だって精一杯のお詫びの気持ちを込めて、智が早く寝付いた夜には、節子の肩や足を一生懸命揉んだのだ。NHKの大河ドラマや歌謡ショーを一緒に観ながら、一時間以上は揉んでいた。節子はいつもそれに「素子さんは伸行と違って、力任せにしないから、上手ねぇ」と喜んでくれていた。
節子のガンが知れて、もう長くないと聞いた時にも、そしてとうとう亡くなった時にも、素子は心の底から哀しいと思ったつもりである。ボロボロ涙が溢れて止まらなかった。男だからとつまらぬ矜持をはって、涙を堪えていた伸行よりはよっぽど泣いた。お棺に納められた節子の口唇に、そっと最期の紅を差してやったのも素子である。
それでも。どうだったのだろう。素子には、『やはり所詮は嫁と姑』という思いがいつも心の片隅にあった気がするし、節子の心にも同じような燻りが始終煙っていたのではないか。
思い出すのは、結婚式の後、妊娠中ということもあり、新婚旅行は取り止めていた若夫婦が、披露宴の行なわれたホテルに一泊だけして、浅井家に戻った時のことである。
その夜、喉が渇いて、素子は夜中に布団から抜け出した。こんな夜更けだというのに漂ってくる線香の匂いに導かれるように、そっと節子の使っている和室を覗くと、節子は仏壇の前で正座して、静かに手を合わせて拝んでいた。電気も付けていない、ただ仏壇のロウソクの仄かな光の灯る中、節子の小さな丸い背中がこんな事を呟いていた。
「とうとうねぇ、盗られちゃいましたよ。お父さん……」
早くに亡くなったという、伸行の父親の、若い遺影を手に、そう語りかけている。ロウソクの炎が揺らいで、その遺影の額のガラスに一瞬、節子の顔を映し出した。
「……!」
素子はその義母の顔を、多分生涯忘れないだろうと思う。『母』と呼ぶよりは『女』の執着がそこにあった。断ちがたい未練が窺えた。いっそ、ゴウと音を立てて燃え盛らない炎だからこそ、何時までも熾火のようにブスブスと陰鬱な音を立てて揺れている、一人の女の情念だった、とそう思う。
智という一人息子を授かった今の素子には、あの日の節子の想いが幾らか解るようになった気がする。夫と息子では、もう根本的にその想いの質が違うのである。自分の血肉を分け与え、十月十日後生大事にと育み、憤怒の痛みに耐えて産み落とした『異性』である息子。その執着を母以外の誰が知ろうか。
嫁と姑の間には、きっと女の本能のような、暗く濁った色をした深い溝があるのである。
■
「またまた、さとしくん、いっちゃくでーす」
家の門の中に入り際、智が言う。両手を上げてバンザイのポーズを決めている。
素子は咲き誇る白い花びらの群れを見る。ああ、何て生を誇って今を咲き乱れていることか。
自分の死期の近いことを悟り、そして、若夫婦に何の相談もなく、突然この木を植えた義母。この狭い土地に無理矢理、大きな木を植えて。この木に花が咲くのを自分が見る日がない事は、百も承知していた筈である。枝が張って、門が少しばかり通りにくくなる事も、当然承知していた筈である。
節子はどんな想いを込めて、この木をここに植えて逝ったのだろう。息子の伸行や孫の智。そして、この浅井の家自体への執着があったのではなかろうか。そして、それらを当然のように奪っていく、嫁の素子への執着も。
そう思って仰げば、サルスベリの木肌とは、ぬめりとしていて、まるで人肌のそれのようだ。白くなよやかな女の肌を思わせる。のっぺりとした捕まり所の無さは、まるで節子の笑い顔のようだ。
ぞわり、と。不意に全身の毛が逆立った。夏だというのに、セミがあんなに鳴いているというのに、肌寒さを確かに感じた。それはサルスベリの梢から吹き下ろして来るように、素子には思えた。
「ママ、おうちに入んないの?」
智に、スカートの裾を引かれて、我に返った。振り返ると、智の髪の毛に白い花びらが絡んでいる。自分でもびっくりするような勢いで、それを息子の頭から払い落とした。智は、素子の所有物だった。
■■5
節子の思惑がどうであったとしても。素子が毎朝、玄関先を掃かねばならない事に変わりはなかった。いっそ、切り倒してしまいたいとも思うが、木に罪がある訳でもなく、第一、伸行がそんな蛮行を許す筈もなかった。母子家庭で育ったにしてはマザコンの気など全くないと思っていた伸行だが、やはりこの家と、そしてこのサルスベリには、深い思い入れがあるらしい。
素子との暮らしは、たかだか五年。節子と伸行が暮らした日々は彼が生を受けてから、もうずっとの事なのである。生涯を掛けて追いつけるのか、疑問に思う。生涯を掛けてでも自分に追う気があるのかさえ、このところは疑問に感じる。
最近の伸行は、何処か素子によそよそしい。サルスベリの悪口を言ったからだろうか。確かにあの日は自分も疲れていて、口が過ぎたが、そんなにもこの木に愛着を持っているのなら、休みの日にでも一度くらい、自分が掃除をすればいいと素子は思う。
夫なんて、所詮は赤の他人なのだ。男にとって妻とは、おさんどんをするための家政婦で、子どもの世話をするベビーシッターで、夜を慰める慰安婦なのだ。
伸行がヒョットコ顔だから、天井を仰ぎたくなるのではなく、夫という名の赤の他人に過ぎないから、時折、無性に寂しくなるのだ。唯一の赤の他人でない男は世界中でただ一人、素子には息子の智だけなのだ。表を掃き清めながら、そんな事をつらつらと思う。
まだ早い時刻だと言うのに、もう素子の周囲ではセミの声が鳴いている。ジーワジーワと呻る音はセミの夏への執着だろうか。
小石を踏んだサンダル履きの足がぐらっとよろめいた。咄嗟に手をついて支えたが、捕まった先がサルスベリの幹で、そのぬめりとした感触に、カッと頭に血が上った。
「……な、何よ、何よ、何よ!」
口から勝手に言葉が飛び出る。ぼそぼそと幹に向かって文句を言う。
「ボケ老人の介護とか、世話とか、お義母さんがさっさと死んでくれたから、やらずに済んだ、ラッキーって思ってたのに。毎日毎日掃除させて、これじゃあ、私、お義母さんの下の世話してるのと同じじゃない! 死んでからまで嫁に世話させたかったの? 私がそんなに嫌いだったの? この鬼姑!」
義母の寿命どころではない、この木は何十年でもここに根を張り、生き続ける。素子は毎日毎日、それを見ながら年老いていくのだ。夏と秋にはこうやって、腰を屈めて、姑に奉仕をしながら、ずっと生きていくのだ。
ああ、そんな事、絶対に嫌だ。枯れてしまえ、こんな花!
根元を蹴りつけてやった。サンダルが道の方へ飛んでいったが、知ったことか。
涙が滲んできた。セミがジーワジーワと鳴き狂っている。素子も気が変になりそうだ、とそう思った。
そう思う傍から白い花びらは舞い落ちる。手をかざすと、その花びらは素子の手の平の上にふわりと軽やかにとどまった。
「……お義母さん」
私たちは、どうしようもなく女なんだね、そう花びらに語りかけた。
■
「あー、また来てるわよぉ。田村のお爺ちゃん」
そんなパート仲間の声に、顔を上げた。ガラスで仕切られた店内に、田村老人の痩せたヒゲ面が映っている。
「もう、ホントに困るわよねぇ。いっそどっかに括り付けておくとか、ねぇ」
クスクスと陰湿に笑い合う声がする。
「ほら、誰か早く止めに行ってぇ」
「あ、私が行きますから」
丁度、一段落して手が空いたところだった。素子は手を洗って、急いで店内に通じるドアを開ける。既に老人は鷲づかみにした鶏のもも肉に囓り付いているところだった。右手には油だらけの鶏肉、左手では鮭のおにぎりを握り潰している。どちらももう商品にはならない。引き取りに来た家族に、後で弁償して貰うしかない。
「田村さーん、お爺ちゃーん。はーい、あっちに行きましょうねぇ」
「うーうー」
周囲で遠巻きにしたように見ている他の客達に、何故とはなく媚びた笑いを浮かべながら、素子は老人の腕を取る。そのまま少し強引めに、事務室のドアまで引きずるように歩いていく。
油の付いた手で、素子の白い作業着を触られてしまった。思わず飛び退いてしまい、また、周囲を意識して、お愛想笑いを八方に振りまく。もう一度、そっとしわがれた腕を取って、事務室のドアをくぐった。
「あらー、まーた田村さん来ちゃったんだー」
店長がウンザリした様子で言う。顎で示されたパイプ椅子に老人を腰掛けさせていると、手慣れた様子で、アドレス帳を捲って、店長が電話番号をプッシュした。しばらく間があったが、繋がったらしい。
「あー、こちら丘福スーパーですけども。……はあ、またお爺ちゃんこっちにいらしてるんですわー。はい、すぐに引き取りに来て貰える? はいはい。お待ちしておりますんで。いや、大変ですねぇ、奥さん、どぅもぉー」
ほどなくして、田村の若奥さんが息を切らして、やって来た。
「どうも、本当にご迷惑をお掛けして……」
「お爺ちゃんの病院、まだ決まらないんですかねぇ?」
「はぁ、何しろ、この放浪癖がありますもので、何処の病院でも渋られてしまって」
「奥さんも大変だよねぇ、本当にぃ」
素子は壁際で、店長と田村夫人の話を聞いていた。とても奇麗な顔立ちだと思うのに、化粧気も何もない。髪も何時美容院に行ったのか、パーマが毛先にだけ僅かばかりに残っている。素子よりそう年上でもない筈なのに、髪の生え際には白髪が目立った。
「えーっとねぇ、そのもも肉とおにぎりの代金ね、税込みで315円だから」
「はい」
エプロンのポケットから財布を取り出して支払う。ひどく、疲れているように見えた。確か田村さんには小学生の子どもが二人居たはずだ。まだ手の掛かる年頃の子ども二人に、徘徊癖のある舅。更に加えて、頭はしっかりしているらしいが、入退院を繰り返す姑まで抱えて、その苦労は並大抵の事ではあるまい。
やつれを取って、少しだけ太らせて、化粧をし、髪を整え、明るい色のワンピースでも着せたら、この奥さんはどれだけ奇麗に見える事だろう。彼女のご亭主や姑は、この状況をあんまりだとは思わないのだろうか。それとも、これも嫁だから、当然の事だと言うのだろうか。
田村の奥さんが天井を仰がない日はないだろう、と素子は思う。きっと、天井の染みの数まではっきりと瞼の裏に焼き付いている事だろう。
■
「折角だからね、それお爺ちゃんが食べてしまうまで、ここに居てくれていいですから。あ、これどうぞ。サービスしとくからねぇ」
店長が、備え付けの小さな冷蔵庫から、お茶の缶を二缶出して、奥さんに渡した。
「まあ、こんなこと。いつもご迷惑をおかけてしてるのはこちらですのに……」
「いいから、いいから。奥さんもねぇ、本当にこの暑い中、走って来てくれてねぇ。ホント。ほら、そこの椅子にちょっと座ってさ、お茶飲んで涼んでいって下さいよ」
「すみません。有り難うございます」
店長も、流石に同情しているのだろう。
「じゃあ、ぼくは仕事がありますんで。浅井君、きみ、しばらくここに居てね」
「はい」
あんたも飲みたかったら、冷蔵庫から出して飲んで。たまにはね、サービス。
そう言って、店長が出て行った。ここのところ、私も塞ぎがちだと惣菜部のみんなが影で噂しているらしいから。もしかしたら、同情されてるのかなぁ、私。
そう思いながら、折角なので、冷蔵庫から缶を取り出す。ウーロン茶にしてみた。自分も二人とは少し離れたパイプ椅子に腰を下ろす。
「うー、あー、加世子さん、加世子さーん」
田村の奥さんは、加世子という名前なのか。この老人の口から出ると、誰の名もこんなに切なく響くのだろうか? ウーロン茶を飲みながら、何となく見て見ぬ振りをする。奥さんが立ち上がって、老人の傍に歩み寄った。
「何ですか、お義父さん?」
「わしにも茶ー、茶をくれー」
骨付き肉をぼとりと床に落として、老人が言う。
それをちり紙にくるんで取り上げてから、加世子さんは困った顔をする。
「だって、お義父さん、缶ジュースはこぼしちゃうじゃないですか。ストローがないと……」
「あ、ストロー。私すぐに持ってきます」
「ああ、いえ、いいんですよ。すぐに帰りますので」
「いえ、ホントにすぐですから」
素子は大急ぎでストローを取りに走った。レジに行けば、幾らでもある。
ストローを貰って戻って来ると、出る時にきちんと扉を閉めなかったらしく、ほんの少しだけドアが開いていた。その中から、夫人と老人の声が漏れてくる。
「……もう、ねぇ。お義父さん、私ねぇ」
「加世子さーん、茶ー、茶ー」
「本当にもう、ねぇ……」
「痛ーい、痛いよぉ、加世子さーん」
「私の方がねぇ、ずぅっとねぇ……」
「加世子さーん」
素子は、思わず手で口を覆った。加世子夫人の指が老人のシワだらけの手の甲を抓り上げていたのである。自分の背中で扉から隠すようにはしていたが、生憎、素子には見えてしまった。ギューギューっと何度も何度も、ねじ切るような憎しみを込めて。それでも、口調だけは穏やかに、まるで老人をあやすかのように。……きっとその顔には微笑みを浮かべているのだろう。
「痛ーい、痛いよぉ、加世子さーん」
「お義父さん、何処が痛いんですか? 私、さすってあげますからねぇ……」
肉もちぎれんばかりに、舅の甲をつねり続ける加世子夫人の左手の薬指には、結婚指輪が光っている。
■■6
夏風邪をひいたらしく、素子は他のパートさんに都合を付けて貰って、昨日と一昨日の二日を休んだ。来週はその分、多く出勤しなくてはならない。今日は日曜日だったが、伸行は仕事が込んでいるからと、朝早くから出掛けて行った。
「今日、お前の実家で唯ちゃんの誕生パーティって言ってなかったか?」
「うん、私が風邪だって言ったら、お父さんがね、智だけ連れに来てくれるって。智も従姉妹のみんなに会えるの楽しみにしてたから」
今日は、素子の兄夫婦の娘の誕生祝いを前々から約束していたのである。素子が体調が悪くて行く気になれない、と実家に断わりの電話を入れていたら、それを横で聞いていた智が激しく泣き出した。素子達兄弟には厳しかった父が、孫にはメロメロだと言う所を見せつけてくれた訳だ。
「そうか、じゃあ、今日はゆっくり寝てろ。オレは夕飯も食って来るから」
「いってらっしゃい、あなた」
「ああ」
「バイバイ、パパ」
爺ちゃんが迎えに来ると約束してくれたので、機嫌の良い智が、伸行に向かって手を振った。
智を迎えに来てくれた父は、母の手製の弁当を持参してくれていた。
「まあ、お前も、たまにはな。骨休みしてろ」
パートの仕事は順調なのか、伸行君とは仲良くやっているのか? そんな事をぽつりぽつりと訊ねて、父は智を連れて行ってしまった。
お弁当の包みを開くと、懐かしい母の味が詰まっている。持つべき物は親の愛か、と有り難く思う。父親を早くに亡くし、そして母とも死に別れた伸行には、素子の思いつけない、心細さや侘びしさを持っているのかもしれなかった。まだ私達は、たった三十年とちょっとしか生きていないのだ。親にはなったが、まだ子どもでもある。たった一人で生きていけと言われれば、青二才の自分達には何と荷の重い事だろう。
サルスベリの木からは、花びらの散りが少なくなってきていた。今年の花ももう咲き納めだ。慣れないパート勤めと家事や育児の両立。そして、降って湧いたようなサルスベリ騒動。三つどもえになってやって来たので、疲れが溜まってイライラしたが、思えば私の方が悪かったのだ。節子のサルスベリを悪く言ったりして。あの木を薄気味悪く感じる気持ちは変わらないけれど、少なくとも、節子は素子に優しく接してくれていた。それは事実だ。私は、生前の節子の手の甲を抓ってやりたいと思った事など一度もない。
今夜、伸行にもちゃんと謝ろう。だって、私たちは夫婦だもの。
■
一日寝ているつもりだったが、何だか折角の休日が勿体なくなってきた。智が居なければ、洋服だってゆっくり試着して選ぶことが出来る。パートで貰ったお小遣いだってあるんだし。
お弁当を食べて、街へ出てみる事にした。いつもよりほんの少しだけお洒落をしてみる。横切るとバス停までの距離が稼げる公園で、高校生くらいの男子生徒が数人、たむろしているのに出くわした。最近は怪しげな事件が多い所為か、休日だというのに、幼い子ども達の姿はない。素子と男子学生だけの公園だ。
「あら、出水さんのとこの……」
学生の中に一人だけ見知った横顔が居た。思わず出た声に、こちらを向いた少年は、何故だか、素子を少しだけ睨んだ。他の少年達は「まずい」と言う顔をして、そそくさと去って行ってしまう。
立ち去った少年達が居たその場所に、砂にまみれた鞄がある。運動靴の型が付いていた。踏みつけられたものらしい。それを出水少年が拾い上げた。パンパンと砂をはたく。
「あのー、母さんには黙っていて貰えませんか」
少年が言ってきた。
「あの人、心配性だからさー」
今日も図書館で勉強していたのだろう。鞄の中にも砂が入っていたらしく、鞄を開いて、中を点検している。ノートや参考書やペンケースが見えた。
どうやら、イジメの現場に出くわしてしまったらしかった。素子は何と言って良いものか、しばし考えてしまったが、ようやく大人らしい発言を頭の中に浮かべて、恐る恐るこう切り出してみた。
「あのぅ、私、一緒に警察に行こうか?」
途端に、出水少年が笑い出した。大人らしくない発言だっただろうか。ああ、私ってば、もう本当にこんな時の機転が利かない。
「いっしょいっしょ。あっちも馬鹿じゃないから。殴ったり怪我させたりとかはね、絶対にしないんですよ。鞄もね、きっと僕が落としたのを咄嗟に避けきれずに踏んだとか、みんなで口裏合わせるに決まってるんだ。そういうところは悪知恵が働くんだからさ、あいつら」
ほら、何せ、これでも有名進学校の生徒ですから、僕らって、などと軽口を叩く。
「でも、イジメでしょ? 良くないわよ」
「良いとか悪いとかじゃないんだよね。みんなストレス溜まってて、はけ口欲しくて仕方ないんだよ」
「だからって、きみがそんな目に遭うことないでしょう。お母さんだっていつも心配してらっしゃるわ。どういう理由で虐められてるの?」
「……さあ?」
何だか、自分の事ではないように、軽く首を竦めて気軽に話す。
「よく分からないけど、とにかく気に入らないって言うんです。存在自体が気に喰わないって。……きっと、理由なんてないんじゃないかな」
「だってそんな。理由がないなんて、理不尽じゃない」
「理由もなしにやって来る奴らと、対決したって、もうね、しょうがないんです。……だから、僕はあいつらと違う道を歩きます」
ホントに母さんには内緒ですよ、そう念を押して、少年は帰っていった。虐められているとか、引きこもっているだとか聞いていたから、暗い目をしているのかと思っていたが、彼を取り囲んでいたどの少年達よりも、さばさばと明るい表情だったと思う。達観しているというか、開き直ってしまった強さだろうか。
理由なんてないものと彼も闘っているんだ、と素子は思った。人と人との間には、そこここに深い溝があるのだろう。多分、誰にも確とした説明など付けられないような、とても深くて暗い溝が。例えば、嫁と姑のように。例えば、少年達のように。
■■7
ぶらぶらと街でウィンドウショッピングを楽しんで、バーゲン品のレースの白いカーディガンを一つ買った。これからの時期も、もうしばらくは着られる。クーラーなんかで肌寒いと感じる時に、一つは持っていたいと前々から思っていたものだ。久しぶりの子どもの居ないショッピングは開放感があって、とても楽しい。智は九時頃に帰すと父が言っていた。まだ六時前。もう少しだけこの開放感を満喫したい。
智とは何時でもファーストフード店にしか入らないが、今日はちょっとお洒落な喫茶店に入ってみる。静かな音楽と美味しい水出しコーヒーが楽しめる喫茶店だ。恋人時代に伸行が教えてくれた店。五年の歳月を感じさせず、この店は時を止めていたかのように、静かで落ち着いた雰囲気を今も保っている。
ウェイトレスが運んできたコーヒーを、ちょっと気取って小指を立ててかき混ぜてみる。とても良い香りがする。一口啜ってほぅーっと小さく吐息を吐く。
ふと、奥の席に目をやると、そこに夫の横顔があった。何という偶然だろう。仕事が思ったよりも早く終わって。でも、私に夕飯を済ませてくると言った手前、早く帰り辛くて、時間を潰している所と見た。声を掛けようと立ち上がりかけて、ハッとする。
伸行の向かいの席。ここからだと観葉植物の葉陰になっていて、はっきりとは見えないが、誰か女性が座っている。
素子は慌てて、自分の顔が夫にそれと悟られないように、頬杖を付くようにして顔を隠す。着ている服からも見分けられないように、買ったばかりのカーディガンを引っ張り出して肩にはおった。胸の辺りに付いているタグを取り外そうとする。その指が震えていて巧く動かせない。
伸行はいかにも親しげな様子で女に笑いかけていた。会話が聞こえる距離ではないが、五年も暮らした仲なのだ。どのくらい親密なのかは雰囲気から分かってしまう。
『ウワキ』、というカタカナ三文字が脳裏で激しく点滅した。すぐに変換されて、二文字の漢字に確定される。女が笑った気配がした。伸行の手がテーブル奥に伸びて、女の白い手を握る。爪に奇麗な紅い色が塗られているのが素子には分かった。
「……」
私だって、結婚前は爪を奇麗に染めていたのだ。智が生まれて、その柔らかい肌を引っ掻いたりしないようにと、長かった爪を全部短く切り揃えたのだ。大体、水仕事をやると、簡単にマニキュアは汚らしく剥がれてしまう。
まだ、流行の服だって沢山着たかったし、ヒールの高いパンプスだって、カツカツ音を響かせて、街を歩き回りたかった。それらの全てを私から奪って、あんなちっぽけな木造平屋の古びた家に、姑と共に押し込めた男が、何故、別の女と親しげに談笑を交わしているのか?
■
ほんの一啜りしかしていないコーヒーは、もう湯気も立てなくなっている。素子は静かに立ち上がった。荷物を持ち、レシートも取って、奥の席、伸行の座るブースへまっすぐに歩いていく。理由のない溝の中へと潜っていくような気分がした。店内を流れる音楽が、何故だか遠く、夢の世界の音のように間延びして聞こえる。
「あなた」
「……素子!」
伸行が小さな目を限界まで大きく見開いた。ヒョットコ面がこれ程間抜けに見えた事は、出会ってから一度もない。
な、何でお前がここに、とか、いや、彼女は……とか、ごちゃごちゃと下らないことを騒いでいる気配がしたが、もう素子はそんなものには構わなかった。立ったまま、座っている女を見下ろす。大して美人ではないと思う。どうせなら、もっと奇麗な女なら良かった。
「初めまして。浅井の家内でございます。今日は急いでおりますので、これで失礼致しますが、後日場を改めてお会いできますでしょうか?」
女が紅い口紅の塗られた口唇をキュッと強く噛みしめた。
「何よ、あんた、独身だって言ってたじゃない! 奥さん居たの!?」
ガタンと大きな音を立てて立ち上がる。
「子どもも一人おります」
静かにそう言い足すと、女は伸行の顔に水をぶっかけて立ち去って行った。何時か映画で観たワンシーンのようだ。茶番劇だ、と馬鹿馬鹿しく思う。せめても笑ってしまわなくて良かった。
「お、おい、素子……」
夫の声も聞かず、そのままレジで支払いを済ませて、悠然と立ち去ってやった。これまで、大人になったものだと自分で自分に思ったのは、ただ一度、智を産み落とした瞬間だったが、今日の私は、あの時よりも大人だったのではないかと思う。
■
家に帰り着くと、大急ぎで荷物を纏めた。実家に帰るつもりだった。あんなヒョットコと連れ添う理由などもう微塵もない。バタバタと箪笥だのをひっくり返していたら、仏壇の中の節子の写真立てがカタンと音を立てて倒れた。それを慌てて元に戻す。
「お義母さん、ごめんね。盗っちゃったけど、返すからね」
節子は写真立ての中で笑っている。
この仏間で節子の肩を揉んだのだ。節子からおしめの当て方を学んだり、いっしょにせんべいを囓りながらテレビを観たりしていたのだ。ほんの一年と少し前までは、こんな未来を想像した事も無かったのだ。
天井を仰ぐ。真上に小さな染みが見える。不思議と伸行との暮らしの断片はほとんど浮かんで来なかった。姑の節子のオタフクめいた笑い顔ばかりが脳裏を過ぎる。チーンと一度仏壇の鐘を鳴らして、それから鞄を抱いて家を出た。智が実家に居るのは幸いだ。他の兄弟やその家族まで居るのはちょっと憂鬱ではあったが。
もう暗くなっている玄関口に、白いサルスベリの花びらが数枚、淡く浮かんで見える。
もうこれを掃くこともないんだ。花の時期は終焉が近い。秋の落葉を見ることもなかろう。花びらを踏んで通るには忍びなくて、避けて歩く。そうして、門を出ようとする素子の背中を、誰かがツンッと引き留めた。
振り返ると、サルスベリの滑らかな木肌の一枝が、レースのカーディガンに引っかかっている。思い出の中にある節子の手と同じように白い枝。
『仲良くやって行きましょうよねぇ、素子さん』
初めてこの家を訪れた時、節子から掛けられた言葉が聞こえた気がした。そう、まだ数輪の花が残る、あの梢の先の方から。姑の笑い顔が見えた気がした。
「……もう。何よぉ、お義母さんってば」
そうやって、息子の事を庇うのね。孫とも離れたくないんでしょう。
ゆっくりと、カーディガンから枝を外した。そのまま、家の中に戻って行く。さっきは鐘を鳴らしただけだったけど、今からちゃんとロウソクを灯そう。お線香を焚いてあげよう。
やがて、ヒョットコ亭主が帰ってきたら。仏壇の前で、きっと叱りとばしてやるのだ。写真の中の節子は、オロオロと見ているに違いない。……ああ、それがせめてもの『嫁の報復』というものだ。
素子はパンプスを脱いで家に上がると、
「ただいまぁー」 と、大きな声で言ってみた。
サルスベリと嫁 宇苅つい @tsui_ukari
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