観葉少女
「私、花になりたいの」
妹は、ことあるごとにそう言う。
5つ年下の妹、ナナミ。
同じ両親から生まれたとは思えないくらい可愛いナナミを、僕はナナちゃんと呼んで可愛がっていた。
ベビーベッドに大人しく収まる小さなナナミの、色素の薄い透き通った茶色い瞳が、宙を舞う蝶の軌跡をなぞるようにふわふわと頼りなく上下する。
僕は、それを見るのが好きだった。
ナナミは小学生になった。
ぼんやりした性格のナナミは、しっかり掴まえていないとすぐにどこかへ行ってしまうから、僕はナナミのぷにぷにした手を引いて、毎朝1年生の教室まで送っていく。
それは決して面倒なことではなくて、ナナミのお兄ちゃんである僕にとって大切な仕事だった。
「おにいちゃん、どうしておひさまは、お空にいるの? ひとりぼっちでさみしそう」
「大丈夫だよナナちゃん。お空には、見えないけど、たくさんお星さまがいるんだ。お日さまは寂しくなんかないよ」
「ふうん」
変わったことを言う子だった。でも僕は、他人と違う特別な子だからこその発言に思えて、ナナミのそんなところも好きだった。
お昼休みになると、ナナミは鐘の音と同時に教室を抜け出し、中庭に出て、芝生に寝っ転がる。
僕は、ナナミが誰かに踏まれたり、寝過ごして授業に遅れたりしないように、横で体育座りをして、ナナミを見守ることも日課にしていた。周りの視線なんて、気にしたこともない。僕にとっては、ナナミか、ナナミ以外が世界だった。
中学生になったナナミは第二次性徴を迎え、いよいよ女の子らしくなる。
中学と高校で校舎が別になったせいで、ナナミのことを知るのが難しくなった。
僕が見ていないうちに、可愛さをやっかんだ子にいじめられていたらどうしよう。素行の良くない不良がかっこよく見える時期だから、ナナミの彼氏も、もしかしたら。
僕は不安でいっぱいになりながら、灰色の高校生活をどうにかやり過ごしていた。
「ナナちゃん、今日は学校で何があったの?」
「ナナちゃん、何か困ってることがあったらすぐお兄ちゃんに言うんだよ」
「ナナちゃんの友達の話、聞かせてくれる?」
僕はナナミを大切にしたいし、守ってあげたい。ナナミに、何物にも傷付けられることなく、いつでも幸せで笑っていて欲しい。
だって、可愛い可愛い、たった1人の妹だ。毎日一緒の登下校、家にいる間は、できる限りナナミと話をするようにして、ナナミを構成するものに危険がないか、目を光らせる。
花になりたいとナナミが初めて言ったのは、ナナミが高校1年生、僕が大学2年生のときだった。
「私ね、花になりたいの。そうしたら、そこにいるだけでいいでしょう? 食べ物も、お日さまの光を浴びているだけでいいんだから」
「ナナちゃん、何か悩んでることがあるの?」
「ううん、何もないのよ、お兄ちゃん。ただ、そう思っただけ」
大学生になった僕は、時間もお金も、ある程度自由になった。だから、僕の母校で、今はナナミの通っている高校を、通りすがりに覗いてみたこともある。
前日ナナミに聞いていた通り、その日最初の授業は体育で、ナナミは楽しそうに友達とグラウンドでサッカーボールを蹴っていた。
明るく笑うナナミの声が、フェンス越しにも聞こえてくる。何も、問題はないように見えた。
なのに、ある日突然、ナナミは普通の食べ物を食べなくなった。ナナミが口にするのは、水と、花だけだった。奨めてはみたが、野菜もダメらしい。口に入れようとすると青ざめて涙ぐむのに、更に無理強いすることはできなかった。
どこからか集めてきたお皿いっぱいの花びらを、ドレッシングもマヨネーズも何もつけないで、美味しそうに食べるナナミ。異様なその姿を、僕は受け入れた。
花しか食べないのは確かに問題だが、ナナミは健康体だったし、むしろ前より肌艶が増した気すらしたから、ナナミのしたいようにすればいいと見過ごしたのだ。
夕飯の時間になってもダイニングに来ないナナミを呼ぶため、部屋をノックするが、いつまでたっても反応が返ってこない。
もしかしたら栄養失調で倒れているのかもしれない、と悪い想像が頭をよぎって、勢いよくドアを開ける。
「ナナちゃん、何やってるの」
「......お兄ちゃん」
予想外に、ナナミは起きてそこにいた。椅子代わりにベッドへ座るナナミと目が合う。
毒の沼みたいな、粘性のある濃い緑色の液体で満たされた、玩具のように安っぽい注射器の針が、白く柔らかい二の腕の内側に射し込まれている。
僕は一瞬呆気にとられたが、危ない薬ではないかと思い、すぐさまナナミから注射器を取り上げた。
「これは、何?」
「葉緑体だよ」
「葉緑体」
「……光合成を行う植物の細胞内にある、細胞小器官のこと」
「そういうことじゃなくて」
ナナミの目には、確かに僕が写っているのに、ナナミの世界に僕はいない気がした。
僕は、ぽんやりした表情のナナミに、涙が出そうになるのを我慢して、優しく問いかける。
「どうして葉緑体を、ナナちゃんの体に入れてるのってことだよ」
「花になりたいから。私、花になりたいの」
「……ナナちゃんは、人間だよ。花にはなれないんだよ」
「そんなことないよ。私は、花になれる」
「ナナちゃん、お願いだから、もうその注射を打つのはやめて。僕は、すごく悲しい」
「お兄ちゃん、悲しいの?」
「悲しいよ」
ナナミはベッドの下にしまっていた、残りの注射器も素直に渡した。僕は、注射器を握りしめて安心する。まだ、大丈夫。まだ、戻れるはずだ。
そう思っていたのに、ナナミの体は、日を追うごとに誰の目にも分かるほど緑色になっていって、とうとう花弁すら食べるのを止めたある日、ナナミは高校を退学した。
「ナナちゃん、入るよ」
「どうぞ」
早朝のコンビニバイトを終えてから、ナナミの部屋を訪ねると、ナナミはもう起きていて、サンルームに置かれたロッキングチェアに座っていた。
「調子はどう?」
「とってもいいのよ、お兄ちゃん」
僕もサンルームに入って、ガラス越しに見える庭の花壇を眺めた。そろそろ室内に入れなければいけない、寒さに弱い花もある。午後に作業してしまおうかと考えていたときだった。
小学校のとき遠足で行ったフラワーパークの、南国の植物を集めた温室に入ったときのように濃密な匂いが、むっと押し寄せて肺を満たす。
「ナナちゃん」
僕は振り返った。ナナミにも香りが届いたのか、訊くつもりだった。
ナナミは薄く笑顔を浮かべて、太陽に右手を翳した姿勢のまま彫刻のように静止し、一点をじっと見詰めていた。
淡いオレンジに包まれた、仄かに緑の透けたナナミの手のひら。不思議な予感と共に、僕の視線はそこに引きつけられる。
「ナナちゃん」
ぶつり。
肌を突き破って、双葉が人差し指の爪の隙間から頭を覗かせた。ふわふわと柔らかな繊毛を纏ったそれは、少しずつナナミの指先で成長する。
蛇がリノリウムの床を這うような滑らかさで、まず人差し指の全体を覆い、次に中指と親指の両側へ広がり、次第に手首へ向かっていく。若芽は弱々しい黄緑から、荒々しい深緑に色を変え、立ち尽くす僕を嘲笑うかのようにどんどん成長速度を上げる。
太陽が雲に隠れた。
ナナミが少し身動ぎして、満足そうに微笑む。唇を舐めた薄い舌は、痛々しいくらいに鮮やかな──。
「ナナちゃん!」
僕はナナミに駆け寄って、手に這う蔦を急いで払った。
肌が日に透けると、陶器のような肌の下に、薄く葉脈が走っているように見える。こぷり、こぷりと、生々しい生命が脈動しているナナミの血は、きっと緑色になってしまっていることだろう。
ひとまず蔦はすべて除けたが、これで終わり、とはならないことを、僕はよく分かっていた。
ナナミが、日にコップ3杯の水で命を繋ぐようになってから、もう半年はたつ。
最近のナナミは、気付くとサンルームにあるロッキングチェアに腰掛けて、目を閉じて揺られるようになっていた。
「ナナちゃん、入るよ」
返事の返ってこないドアを開け、僕はそっとナナミに近付いて、無造作に垂らされた華奢な手をとる。
血管だけではない。肌全体が、新緑のような淡い緑に染まってしまっている。
細く、すらりとした指の感触は昔と変わらないままなのに、仄かに青っぽい匂いが鼻を掠めた。
「......お兄ちゃん?」
「おはよう、ナナちゃん」
「私、目が覚めちゃったんだ」
「いいじゃない。何度でも目を覚まして、それで、僕におはようって言ってくれれば」
僕の言葉には答えないで、ナナミは、またうとうとと微睡み始めた。
さらに半年をかけて、ナナミの起きている時間はだんだん短くなっていき、今では一週間寝続けることも珍しくなくなった。
僕は朝の日課をこなすため、ナナミの部屋へ入る。
ベッドで眠るナナミの体を、お湯で湿らせたタオルでいつものように拭ってやっていると、へそから何か伸びていることに気が付いた。苺の収穫をするときのように茎に爪を立てると、それは案外簡単に切れた。
「これは......」
細い蔦のように見えるそれを暫し指先で弄んだが、すぐに飽きてしまって、部屋の隅の屑籠に放り込んで、ナナミを抱き上げる。サンルームのロッキングチェアに移動させるのだ。
日光浴をするナナミの口に、スポイトで少しずつ水を垂らす。ナナミのへそからは、また蔦が伸びてきていた。
どんどん成長するそれは、仕事に出た僕が家に帰ってくるころには、ナナミの太ももを覆い、脚を覆い、すっかり下半身を覆い尽くしていた。
「ナナちゃん、おはよう。ほら、起きて」
呼び掛けても、ナナミは何の反応も返さない。もう、蔦は肩まで完璧に隠してしまっていた。
社会人になった僕は、相変わらず、朝はサンルームのロッキングチェアへ、夜はベッドにナナミを運ぶ生活を続けていた。おかげでなかなか遊びにも行けないが、ナナミのためならしょうがない。
僕は、ロッキングチェアで揺れる、もはや植物と化したナナミを見ながら、コーヒー片手に本のページを捲る。
ナナミの頭には、とうとう薄桃色の蕾ができた。花の名前は知らないし、そもそもこんな花が他にあるのかも分からないが、大きさからして、咲いたらきっと、ナナミの顔は可憐な花びらに被われるだろう。
ナナミは、もうすぐ花になる。
観葉少女 星灯 @ningyonoyume
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます