第3話
日差しが、夏の盛りのうだるような暑さを帯びる頃。
私はレアード伯爵領の伯爵邸に、お義兄様と共に足を運んでいた。陽が落ちて、淡い紺色に空が染め上がるころ、広間の中心からわっと歓声が上がる。
その中心で凛々しい微笑みを見せる女騎士と、ばっちりと目が合った。
「……シャノン様」
その美しさに、ほう、と思わず感嘆の溜息をつく。祝福の声を浴びせられ、輝くシャンデリアの光の下佇む彼女は、一枚の絵のように壮麗だった。誰もが彼女に視線を奪われている。
そう、これは今年の剣術大会の優勝者を讃える祝賀会。栄えある勝利を掴んだのは、騎士服姿で涼し気な笑みを見せる子爵令嬢シャノン・オートレッドだった。
レディ・エドナの遺書をきっかけに婚約を結んだシャノンとハドリーだったが、シャノンは結局、ただの子爵令嬢の枠に収まることはなかった。
何と、自身が騎士として騎士団に務めていたことを明かし、女騎士を目指す女性を応援すると公に宣言したのだ。
貴族令嬢はおろか、平民でさえ数が少なかったため、女騎士に対する風当たりは強かったのだが、第五騎士団長夫人になるシャノンが声を上げたことで、少しずつではあるが女性の騎士の誕生を歓迎する風潮が広まりつつあるという。
そうしてその広告塔の意味を兼ねて、シャノンは懐かしい騎士姿で今年の剣術大会に出場し、見事優勝してみせたのだ。
もっとも彼女の最大のライバルであるハドリーは、数日前の訓練で負傷してしまい、出場が叶わなかったため、因縁の二人の対決に決着がつくことはなかったのだけれども。ハドリーと戦わなかったせいか、シャノンは優勝したというのに、どことなく物足りないとでも言いたげな表情をしていた。
祝賀会にはハドリーも参加しており、今もシャノンの隣にいるが、シャノンが騎士服姿のため恋人同士のようには見えない。騎士団長と部下だった去年の光景がそのまま戻って来たかのようだった。
シャノンが男装していた女騎士だと知られても尚、ご令嬢たちからの人気はすさまじいものだった。いや、何なら以前より白熱している気もする。
もちろん、騎士団長であるハドリーだって人気のある騎士なのだが、シャノンを相手に取ると少々霞んでしまうほどだ。
「シャノン様、ますますお美しくなられたわ。そう思いませんか?」
お義兄様の腕に手を添えながら、私は彼の顔を見上げた。今日も今日とて私は紺碧のドレスを身に纏っている。このところ仕立てる衣装はすべて彼の瞳を意識した色ばかりだった。
「どうだろうな。去年と変わらないように見える」
特別皮肉なわけでも何でもなく、お義兄様は本気でそう思っていそうだ。何とも彼らしい答えだと思いながら苦笑を零し、改めてシャノンの方へ視線を戻した。
剣術大会の優勝者は、会場にいる「誰にでも」ダンスを申し込むことが許されている。優勝者に跪かれた令嬢も断れない決まりになっていた。
これを利用して、数代前の騎士団長が王女様にダンスを申し込み、それをきっかけに結ばれたという逸話もあるくらい、伝統的な習わしだった。
シャノンは女性なわけであるが、今の服装は騎士の礼服姿だ。彼女はハドリーの婚約者であるのだし、順当にいけばハドリーと踊ることになるのだろうと思うが、会場数のご令嬢の視線が熱っぽくシャノンに注がれている。騎士服姿だから女性と踊る可能性も全くないとは言い切れないので、その期待も無理はなかった。
私としては、この祝福の声と期待の眼差しに包まれた中で、シャノンがハドリーにダンスを申し込む場面を見たいところである。ハドリーの怪我も、右手を少し捻ってしまっただけの様であるし、踊るくらいならば問題ないだろう。
「ふふ、シャノン様とハドリー様は、少しはお互いに素直になったかしら……」
指を組み、軽口をたたき合う二人の姿を思い起こしながら、軽く目を瞑ってほうと溜息をついた。そこそこ素直になり始めたケンカップルというのもまた尊い。
後程ゆっくりと二人の様子を観察させてもらわなければ、と密かに決心していると、不意に、私の周囲で人々が騒めき始めたのに気づいた。
一体何事か、と目を開ければ、いつの間にか私の目の前には、美麗としか言いようのない微笑みを口元に浮かべるシャノンの姿があった。
「こんばんは、エレノア様。あなたは今夜も楽しそうにしていらっしゃるのですね」
騎士の礼服に身を包み、去年より伸びた赤みがかった銀髪を後ろで一つにまとめたシャノンの姿は、間近で見ると眩しいくらいの美しさだった。ご令嬢たちが熱い視線を送るのも頷ける。
これからダンスを申し込む相手を決めようかという時に、わざわざ私の元まで来てくれるなんて。
嬉しかったが、状況が状況なだけに周囲の注目が集まっているのを感じて、何だか気恥ずかしくなってしまう。
「シャノン様、本日は本当におめでとうございます。後程ゆっくりとお話をさせていただきたいですわ。でも、今はレアード騎士団長の許に——」
と、そこまで言いかけて、私は口を噤んでしまった。突然に、シャノンが私の手を取って跪いたからだ。周囲から、ご令嬢たちの悲嘆と羨望の入り混じった声が上がる。
「去年、あなたに約束しました。次こそは、輝かしい勝利をあなたに捧げると。……覚えていらっしゃいますか?」
「え、ええ……もちろん、覚えておりますわ」
夏のうだるような暑さと共に蘇る。試合後の妙に色気のあるシャノンに跪かれ、誓いを立てられたあの光景を、忘れられるはずがなかった。
「最大のライバルであるハドリーとの試合は敵いませんでしたが……それでも優勝は優勝です。この勝利を、あなたに捧げます、エレノア様」
「シャノン様……」
律儀に一年前の誓いを果たしに来たシャノンに、何だかどぎまぎしてしまう。正に騎士に相応しい誠実さと高潔さを前に、ときめかない女の子などいないだろう。
「だからどうか、あなたと踊る名誉を私に下さいませんか? エレノア様」
「っ……」
シャノンは長い睫毛を伏せて、恭しく私の手の甲に口付けた。周囲からご令嬢たちの黄色い声が上がる。
やがてシャノンは視線だけでこちらの様子を窺うように私を見上げた。どことなく挑戦的にも見えるその鮮烈な眼差しに、私の方から視線を逸らしてしまった。完敗だ。
優勝者のダンスの申し込みは断れない。悩むまでもないはずなのに、視線を逸らした先でお義兄様と目が合って、思わず笑みを引きつらせてしまった。
お義兄様は、あからさまな嫉妬と敵意で翳った瞳で私を睨んでいた。その鋭い眼差しに射竦められてしまう。こんな表情のお義兄様は久しぶりに見た。
恐らく傍目には分からない程度だろうが、私からしてみれば身の危険を感じるほどの表情だ。
……これは、後が怖いわね。
どことなく引き攣った笑みのまま、お義兄様に一応の断りを入れる。
「……踊って参りますわね、ルーク様」
「……楽しんで来るといい」
言葉こそ寛容だが、冷え切った声音からして微塵も思っていないことは確かだった。
「……謹んでお受けいたしますわ、シャノン様」
ドレスを摘まんで膝を折れば、シャノンが立ち上がり、エスコートするようにそっと私の手を取る。
「ありがとうございます。……ルーク様、しばしエレノア様をお借りいたしますね」
シャノンは完璧な美しさを誇る笑みをお義兄様に向けると、私を連れて広間の中心へ歩き出した。その間も、背後にお義兄様の視線を感じて笑みが引き攣ってしまう。
広間の中心で互いにゆったりと礼をすれば、間もなくして音楽が流れ始める。私はシャノンの腕に手を添えながら、ぎこちなくステップを踏み出した。
ダンスはあまり得意ではないのだ。だが、シャノンがさりげなくフォローしてくれるのを感じて、少し緊張が和らいだ。
「……ルーク様のご婚約者を務めるのも楽ではなさそうですね。ここまで睨まれるとは」
私に耳打ちするようにして、シャノン様は笑う。どうやら彼女もお義兄様のあの翳りを察しているらしい。
「それだけ私を愛してくださっている証と思えば、悪いことばかりではありませんわ」
「エレノア様らしい寛容さだ。私なら息が詰まりそうです」
「あら、レアード騎士団長だって似たようなものじゃないかしら?」
ふわりとドレスの裾をなびかせるようにして回れば、周囲からわっと声が上がる。シャノンが腰をしっかり支えてくれているおかげだ。
「ハドリーが? まさか」
シャノンはきょとんとしたような表情で私を見ていた。今夜は彼女の凛とした面持ちばかり見ていたが、こういう気の抜けた表情はとても可愛らしい。
ハドリーは作中でも隠れヤンデレだっただけあって、やはりシャノンに仄暗い感情を悟らせるような真似はしていないらしい。彼女に気づかれないところでこっそり牽制したり、彼女に仇成そうとしているものを排除しているのかもしれないと思うと、尊すぎてにやけそうだ。
「うふふ、シャノン様はどうぞそのままでいらしてね。お二人の今後が楽しみだわ」
「それは私も同じ言葉をお返ししますよ。お二人の式にはきっと呼んでください」
「もちろんよ! シャノン様にお祝いされたらとても嬉しいわ」
満面の笑みで告げれば、ちょうどよく音楽が終わる。広間の中心で再び礼をすれば、シャノンが意味ありげに微笑む。その笑みに見惚れている間に、彼女は私の手を取りもう一度口付けた。
「お互い幸せになりましょう。今後ともどうぞよろしくお願いいたしますね、私のお嬢様」
ちょっとした仕草がいちいち絵になる人だ。私も頬を緩めて彼女に同調するように頷くと、ふと、私たちの傍に近寄ってくる二つの影に気づく。
ハドリーとお義兄様だ。ハドリーはすぐさまシャノンの傍に歩み寄ったかと思うと、睨むような眼差しで告げる。
「シャノン、随分派手に立ち回ってくれたな。優勝者の務めは果たしたんだからもう戻れ」
「こんなときまで口うるさい奴だな……」
シャノンは辟易したようにハドリーを見上げながら、静かに立ち上がった。やはり、二人が並び立つとついつい目を奪われてしまう。
「エレノア嬢は滅多に人前で踊らないんだ。それを無理やり連れだして……」
「折角なら唯一お仕えしたお嬢様と踊りたいと思っただけだ。同じ騎士ならわかるだろ」
やはり、シャノンとハドリーの距離感は相変わらずだ。尊いケンカップルは健在らしい。
……この二人はきっと、結婚してもこんな関係を維持していくのでしょうね。
にまにまと二人を見守っていると、ふと、顔に影がかかった。見上げれば、お義兄様がやはり睨むように私を見下ろしておられる。
何も言ってこない辺りが却って不穏だ。ご機嫌を取るように彼の腕に手を添えてみるも、絶対零度の視線が和らぐことはない。
「……エルは二曲以上踊れるような体力はない。ここで失礼する」
お義兄様はシャノンとハドリーに手短に告げると、私の手を取ってさっさと歩き出してしまった。慌てて半身で振り返りながら小さく礼をするも、二人してどこか憐れむような目で私を見ている。
そのまま私はお義兄様に庭に連れ出されてしまった。陽が長いせいか、夜会の時間になってもまだ夕暮れの名残が窺える。淡い紺碧の中にはところどころ銀の光が輝き出していて、みずみずしい夏の夜空が広がっていた。
……そういえば、お義兄様と初めて口付けたのもこの伯爵邸の庭だったわ。
あれは確か、シャノンとハドリーの婚約を祝う夜会のときのことだった。あれからもう一年近くが経過しようとしているのかと思うと、何だか感慨深い。
お義兄様は人気のない庭の中でようやく足を止めると、揺らぐ紺碧の瞳で私を見下ろした。嫉妬とも寂しさともとれる感情が窺えて、思わず彼の手を握りながら笑いかけた。
「ルーク様、そんなお顔をなさらないで。シャノンはただ——」
その言葉が、最後まで紡がれることはなかった。お義兄様が私を引き寄せたかと思うと、そのまま口付けたからだ。
屋敷ではすっかり恒例になった口付けだが、人目がないとはいえ、こうして外で口付けられるのは、それこそ一年前の夜会以来だ。それを意識すると普段以上に頬が熱くなってしまい、何とか逃れようと彼の肩に手を置く。
「……お前にはやはり、ああいう明るい人間が良く似合うな」
口付けの合間に、唇が触れるような距離でお義兄様は言う。ああいう明るい人間とは、シャノンのことを言っているのだろうか。
確かにお義兄様を見て、明るいと思う人は少ないだろう。陰鬱さすらも思わせるような壮絶な色気を漂わせるお義兄様は、陽の光よりも月影が良く似合う。
「……でも……私が好きなのはルーク様ですわ」
軽く息を切らして縋るように告げれば、吐息を奪うように再び口付けられる。苛立ちすらも伺わせるような熱のこもった口付けに、思わずぎゅっと目を瞑る。下唇に僅かな痛みが走り、軽く噛まれたのだと知った。
逃れようと彼の肩に置いた手には、いつしか力が入らなくなっていた。ようやく唇が離れ、ぐったりともたれかかるように彼の肩に頭を預ければ、指を絡めるように手を握られた。
ばくばくと早鐘を打つ心臓の忙しなさが直接伝わってしまう気がして、恥ずかしくてたまらない。何もここまでしなくていいのに、と軽く拗ねるようにお義兄様にもたれかかっていると、彼は私の頭に顔を寄せて、擦り寄るような仕草でぽつりと告げた。
「……あまり、嫉妬させないでくれ、エル」
縋るようなその声に、心の奥深くをきゅっと掴まれるような心地になる。この声に弱いのだ、私は。
思わずお義兄様の手を握る手に力を込めながら、微笑むように告げる。
「ふふ……私の唇も、薬指も、温もりも、何もかもルーク様のものですのに、どうして嫉妬なさる必要があるのです?」
「それでも、だ。他人が気安くお前に触れるのはどうにも気に食わない」
お義兄様は私の手の甲を撫でるようになぞった。シャノンに口付けられたのが言葉通りお気に召さなかったのだろう。
お義兄様の腕に囚われながら、私はそっと問いかけた。
「……今も、私のこと、閉じ込めておきたいですか?」
緩やかな監禁生活に向かっていたあの日々からはかなりの時間が経ったが、お義兄様の心境はどう変わったのだろう。思えばこうして面と向かって尋ねるのは初めてだった。
「……どうだろうな、今は——」
お義兄様の指が、私の頬を軽く摘まむ。
「――エルの笑顔を奪ってまで、叶えたい願望ではないな。どうやら俺は、エルが楽しそうにしているのが好きみたいだ」
お義兄様にしては素直な言葉と、翳りのない嬉しそうな微笑みに、心臓を射抜かれる。普段は冷たい印象のあるお義兄様だが、こうやって笑うとどうにも可愛いのだ。
「……不意打ちは反則ですわ、ルーク様」
「俺はいつもお前の不意打ちに悩まされている」
「不意打ちなんてしていますかしら? 私は普段から素直だと思いますけれど」
唇を尖らせて反論すれば、お義兄様は片手で私の両頬を掴んだ。お義兄様はこの仕草を好んでする。私の変顔がそんなにお好きなのだろうか。
案の定、小さく噴き出すようにお義兄様は笑って、そのまま私の額に口付けた。先ほどまでとは打って変わって、随分ご機嫌がよろしくなったようだ。
「……そろそろ戻るか。あまり席を外していると、お前の元護衛騎士殿が捜しに来るかもしれないからな」
「そうですわね、主役が抜け出してしまったら一大事ですもの」
差し出され手を取って、私はお義兄様と共に祝賀会の会場へ向かう。夕暮れの名残はいつの間にか、紺碧の空に飲み込まれていたのだった。
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