第4話
「エル!! こっちに来て!! 変な色のお魚がいるわよ!!」
「待って、リリったら。本当にお転婆ね」
夏の日差しを浴びながら、私は薄手のワンピース姿で海辺を走る。少し先では、ストロベリーブロンドをなびかせて海の中を覗き込むリリアーナの姿があった。
夏の盛りが過ぎたころ、私はお義兄様とレインと共にミラー伯爵領を訪れていた。今年は巡礼のためではなく、たまたまお義兄様のお仕事で伯爵領の傍に立ち寄ったため、ミラー伯爵邸に招かれた形だった。
今日は天気が良いため、屋敷からほど近い海辺に遊びに来たのだ。メンバーはリリアーナとウィル、私、お義兄様、レインという、祝祭のときを思い起こさせる構成になっている。
ケイリーお兄様は婚約者と会う約束があるとかで、今日は私たちのパーティーに加わらなかったのだ。
「リリ、こっちにも魚がいますよ。綺麗な橙色です」
ウィルはリリを見守るように隣にしゃがみ込みながらも、彼女と同じように魚を覗き込んでいた。晴れて婚約者同士になった二人だが、何だかウィルがリリアーナの奔放さに染まり始めている気がする。一見すれば朗らかでとても微笑ましい二人だ。
……でも、ヤンデレ×ヤンデレカップルなのよね。
幸せの真っ只中にいるせいか、二人が病みを見せることはないが、その素質が消えたわけではないと知っている。何かあればお互いに病み病みして執着しあっているのだろう。尊い。
「ほら、エル、こっちこっち」
何とかリリアーナに追いついて、彼女の隣に並び立てば、白い腕に引かれ、しゃがみ込むように促された。
「まあ、可愛いお魚ね。橙色のお魚も綺麗だわ」
「食べられるわよ。夕食に出す?」
ごく自然な調子で訪ねて来るリリアーナに思わず笑みを引きつらせながら、首を横に振った。可愛いと美味しそうが共存できるのは、海辺で育ったリリアーナらしい感性だ。
「あら残念、この橙色のお魚なんてウィルみたいで可愛いのに」
「買いかぶりですよ、リリ」
心底嬉しそうに頬を緩ませるウィルは、リリアーナがこのお魚を食べようとしていたことを忘れているのだろうか。幸せそうに微笑み合う二人を前にして、私が言えることなど何もないのだけれども。
「それで、エル、ルーク様とはどうなの? 何かひどいことされてない?」
リリアーナはぴったりと体を寄せるようにして私に耳打ちした。ウィルも興味津々と言った様子でリリアーナの隣から身を乗り出してくる。
「ひどいことって……」
思い当たることがあるとすれば、去年の秋のあの緩やかな監禁生活のことだが、口にするのは躊躇われる。
「わたくしの直感から言わせてもらうとね、ああいう人はエルのこと閉じ込めようとすると思うの。鎖につながれたって不思議はないわよ?」
これには思わず変な声が出そうになった。リリアーナはヤンデレなだけあって、勘が良すぎる。私たちのことをずっと見守っていたのではないかと勘繰ってしまうほどだ。
「そ、そんな乱暴なことはしないわよ。私が楽しそうにしているのが好きって言ってくださるもの」
軽く咳払いしながら取り繕うも、リリアーナとウィルは二人して憐れむような目で私を見ていた。二人のヤンデレに境遇を憐れまれると言うのも何だか妙な心地だ。
「まあ、エルは翳りのある感情に理解もあるみたいだし、お似合いのお二人なのかしら……?」
うーん、とリリアーナはしゃがんだ膝に肘をついて海の向こうを眺めた。ウィルも彼女の視線を追うように遠くを見つめる。
「心配しないで。私は今、とても幸せなのよ」
二人を安心させるように微笑みかければ、リリアーナの薄紫の瞳が横目で私を捉えた。そのまま意味ありげな笑みを口元に浮かべる。
「いつか逃げ出したくなったら、いつでもわたくしを頼ってね。ウィル共々歓迎するわよ。それに、ルーク様と戦うのは面白そうだわ」
ヤンデレ×ヤンデレカップルとヤンデレの戦いなんて、目も当てられない悲惨な事態を招きそうだ。
そもそも私がお義兄様から逃げ出すような素振りを見せたが最後、私とお義兄様に残るのは陰鬱なバッドエンドの道だけだ。どんな事態が起ころうとも、私が彼の元から逃げ出すことはないように思えた。
「二人の親切だけ受け取っておくわ。心配してくれてありがとう」
指先で海水を跳ねさせながら、柔らかく微笑めば、二人も何とか納得したようだった。
「そういうことならいいのだけれどね。じゃあ、エル、今日は思いっきり遊びましょう?」
「え、ちょっと、リリ——?」
気づけば私はリリアーナの手に引かれるようにして海の中に飛び込んでいた。ごく浅い場所なので、下半身が濡れただけだが、海に入るのは初めてなので何だか胸が高鳴る。
「ヒトデがたくさんいるところを見せてあげる! こっちよ」
リリアーナに手を引かれるようにして、私は浅い海の中を歩きだした。波の音の合間に、リリアーナがはしゃぐ声が響き渡る。輝かしい夏の思い出がまたひとつ、積み重なっていった。
その夜、湯浴みを終えた私は、レインに髪を整えてもらいながら小言を投げつけられていた。
「あんなにぐったりするまで遊ぶなんて言語道断です! お嬢様の身に何かあったらどうなさるおつもりですか?」
「ごめんなさい、レイン……思ったよりも楽しくて……」
結局あのあと、私はお昼寝が必要なほどに体力を消耗してしまい、夕食の時間までベッドに横になっていたことで、レインとお義兄様に心配をかけてしまった。二人してずっと私の傍に張り付いていたらしいと聞いて、少々心が痛んだ。ただでさえ過保護な二人に、無闇に心配をかけるものじゃない。
「楽しかったのなら何よりですが……明日以降は気を付けてくださいませ」
「はーい」
レインは、花の香りのする香油を私の藍色の髪に馴染ませて、さらさらと背中に流してくれた。腰のあたりまで伸びた髪が傷まないのは、全てレインの丁寧な世話のお陰だ。
「少し早いですが、今夜はもうお休みに——」
と、レインが私に横になるよう促したとき、客間のドアがノックされる音が響いた。レインがあからさまに溜息をついて、訪問者を迎えに行く。
ノックのリズムで、お義兄様だと分かったのだろう。やはり、日に日にレインのお義兄様へのあたりが強くなっているような気がしてならない。
「ルーク様、お嬢様は今日はお疲れなのですから、ほどほどにしてくださいませ」
「ただ話しに来ただけだ。お前はもう下がれ、エルは俺が寝かせておく」
「お嬢様に無理させないでくださいね」
「妙に含みのある言い方はやめてもらってもいいか……?」
随分仲良くなったものね、と遠目から二人をにこにこと見つめていると、私の笑みに気づいたのか二人してふい、と視線を逸らし合った。
「それではお嬢様、おやすみなさいませ。何かありましたら大声で呼んでくださればすぐに駆け付けます」
「そんな事態にはならないからお前もさっさと休め」
レインを追い払うようにお義兄様は扉を閉めると、途端に静寂が訪れた。
お義兄様が扉の前で小さく溜息をつく。私はネグリジェ姿でお義兄様の傍に近寄って、ふっと笑いかけてみせた。
「ふふ、二人はやっぱり仲良しですのね」
「少しも嬉しくない上に正しくもないが、もしかして嫉妬か?」
お義兄様がからかうように私の頬を撫でた。そのくすぐったい感触に軽く目を伏せながらも、ちょうど一年前に私を悩ませていた感情を思い起こす。
「そうですわね……去年の今頃は、正直に申し上げれば嫉妬していたのかもしれません。二人はとても、仲がよさそうに見えましたから」
正直に告げてみたのだが、思えばお義兄様にこの感情を明かしたのは初めてだ。
そっと彼の表情を見上げてみれば、お義兄様は酷く驚いたように紺碧の瞳を瞠って私を見ていた。この返しは予想外だったのかもしれない。
「そ、うか……エルも、嫉妬することなんてあるんだな」
「それはもちろんありますわよ。ルーク様がレインと、私には見せないようなお顔で楽し気にお話なさっていましたから、それはもう心が痛みましたのよ」
多少大袈裟な表現だが、嘘は言っていない。何気なくお義兄様から距離を取り、夜の海を臨める大きな窓の傍に近寄れば、すぐさま彼が私の後を追う気配があった。
言葉もなく、そのまま背後から抱きすくめられてしまう。すりすりと私の頭に顔を寄せることからして、かなりご機嫌なご様子だ。
「……私の心が痛むのが、そんなに嬉しいですか?」
窓に薄く映ったお義兄様の影に問いかければ、彼にしては信じられないほどの甘い微笑みを見せた。
「正直に言えば、とても嬉しい」
恍惚さえ滲ませるような声に、これには何も言えなくなってしまう。あのお義兄様がここまで素直になると言うことは、かなり喜んでいる証だ。
「……私が好きだと申し上げるときよりも嬉しそうですね?」
「そう意地悪を言わないでくれ、エル」
お義兄様は私の頭頂部に口付けると、私の肩に手を添えてくるりと向かい合わせた。いつになく柔らかい表情のお義兄様は、上着のポケットから小さな布袋を取り出すと、中から見慣れた飾り紐を取り出す。
「それは……」
間違いなく、祝祭の期間に売られているという祈りの飾り紐だ。だが、私やお義兄様が持っているものとは色合いが違う。紺碧の紐に銀糸が縫い留められ、薄紫の貝殻がぶら下がっている可愛らしいものだった。
まるで二人の飾り紐の合いの子のような色合いは、何とも可憐で特別な感じがする。
「街に寄ったときにたまたま見かけて買ったんだ。祝祭の期間でなくとも、僅かながら売っているらしい」
「そうなのですか……とても素敵な色合いですね」
思わず頬を緩ませながら飾り紐に触れれば、お義兄様がそっと私の手首に巻き付けてくれる。去年と同じように綺麗な蝶蝶結びをしてくれた。
ちょうど一年前もこうしてお義兄様と飾り紐を贈り合ったことを懐かしく思いながら、ふと、私はずっと気にかかっていたことを問いかけてみた。
「……ねえ、ルーク様。去年、あなたが言えなかったお願いごとって、一体何なのです?」
そっとお義兄様を見上げれば、彼はどことなく気まずそうに視線を逸らした。
「……引かないか?」
「ええ、もちろんです」
正直、監禁まがいのことをされた今となっては、どれだけ歪んだ願いごとだろうと笑い飛ばせる気がした。期待を込めてお義兄様を見上げていると、僅かに躊躇うような彼の紺碧の瞳が私を映し出す。
「……エルのすべてが欲しい」
「え……?」
それはまた随分と情熱的な言葉だが、想いを寄せる相手に抱く感情としては歪んでいるとは言い難く、何だか拍子抜けしてしまった。お義兄様はその独占欲を、許されないものだと悩み苦しんでいたのだろうか。
そう思うとやっぱり彼の妙な真面目さを意識させられて、ますます愛おしく思えるような気がした。思わず彼に寄りかかるようにして、そっと彼の背中に手を回す。
「ふふ、ルーク様。それではただの愛の告白ですわ。少しも醜くも歪んでもおりませんわよ」
「……ついでに言うと、お前を誰の目にも触れないような場所に閉じ込めて、死ぬまでずっと俺だけを見て生きてほしいと思っていた。あのときはな」
「それは確かにちょっと歪んでおりましたわね」
思わず笑みを引きつらせれば、お義兄様が少しだけ拗ねたように私を見下ろした。これも傍から見れば無表情に見えるのかもしれないが、何とも可愛らしい反応だ。
「ふふ、それにしても、あの頃からルーク様は私のことをそんなにも深く想ってくださっていたのですね。……ルーク様は一体いつから、私のことを気にしてくださっていたのです?」
お義兄様の胸に頭を預けるように寄りかかれば、何気なく彼の指が私の髪を梳いた。慈しむようなその仕草にそっと瞼を閉じる。
「……恐らくは、去年の建国祭の夜だろうな。エルが婚約者を強請る言葉を聞いて……このままいけばいつか俺は、お前をどこぞの貴族令息にくれてやることになるのか、と……それは少し面白くないな、と初めて気づかされた」
「そうでしたの……」
あれが、運命の夜だったのか。確かにあれを境に、お義兄様は私と顔を合わせる機会がぐんと増えた気がする。
「ふふ、私を手放しがたく思ってくださってありがとうございます」
「あれだけのことをされて、そんな風に礼を述べるお前の寛容さには頭が上がらないな」
「それくらい、ルーク様のことを愛している証ですわ」
彼の胸に頭を預けたままちらりと彼の表情を窺えば、ふい、と視線を逸らされてしまった。これもいつもの反応だ。
私はお義兄様の腕の中で、左手に結ばれた飾り紐を眺めながら、どこに飾ろうかとぼんやりと思いを馳せた。去年お義兄様にいただいた飾り紐は栞として使っているから、これは観賞用にしよう。
お義兄様の髪を思わせる銀と、私の瞳の薄紫。銀と紺碧の組み合わせはお義兄様を思わせるから愛おしいけれど、この組み合わせも悪くないかもしれない。
「ふふ、銀と薄紫なんて、まるで私たちの子どもが持ちそうな色合いですわね」
何気なく言った言葉だが、お義兄様があからさまに狼狽えるのが分かった。
「どうしてお前はそういうことを何の躊躇いもなく言ってのけるんだ……」
「貴族の妻の務めは跡継ぎを産むことでしょう?」
「それは……そうだが……」
「ルーク様の子どもなんて、絶対可愛いに決まっておりますわ! 賑やかな家族になるといいですわね!」
お義兄様の寂しさを埋めるために子供を望んでいるつもりはないが、去年この場所で、ミラー伯爵家に憧憬を抱いていたお義兄様の寂し気な横顔が忘れられないのだ。叶うなら、温かで賑やかな家庭を二人で築いていきたかった。
だが、お義兄様はまるで私のその思考を見透かしたかのように、ふっと満ち足りた笑みを見せる。
「……心配せずとも、俺はもう寂しくない。エルが傍にいてくれるからな」
その声はいつになく幸せそうで、彼の言葉が心からのものであることは明らかだった。
やはり、お義兄様は不意打ちがお得意な方であると思う。そんな風に満ち足りた笑みを見せられては、彼に恋い焦がれている私が戸惑わないはずがないのに。
「やっぱり、ルーク様はずるいですわ……」
「今更気づいたのか?」
お義兄様がさりげなく私をガラスの窓に追いやる。優しい仕草だったが、これから起こることを予感させるには充分で、まともにお義兄様の顔を見られなかった。
そっとお義兄様の手が私の頬に添えられる。視線が絡んだかと思えば、次の瞬間には口付けられていた。どこまでも優しく甘やかすような口付けに、目を瞑って酔いしれる。
唇が触れるような距離で見つめ合って、どちらからともなく笑い合った。それは、紛れもなく幸せで甘ったるい恋人たちの時間だった。
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