第11話
「ん……」
深く、眠っていたような気がする。ベッドに縫い留められたかのように重たい体を僅かに動かせば、左手からしゃらしゃらと金属音がした。
「っ……」
冷たい感触に飛び起きるようにして無理やり体を起こせば、左手首に見慣れぬ黒い鎖が巻き付けられていることに気づく。もう一端はベッドの端に繋がれており、鎖自体はベッドの周辺を歩けるかどうか、という程度の長さしかない。
……流石はお義兄様。「狂愛のスノードロップ」トップクラスのヤンデレなだけあるわね。
俄かには信じられない光景に、最早感動を覚えていると、ベッドに近付いてくる人影に気が付いた。
「……お目覚めになられましたか?」
優しい可憐な声の主はレインだ。仄暗い部屋の中、きっちりと黒いメイド服を着こなしたレインは、どこか弱々しい笑みで私を見ていた。
「レイン……これは、どういうこと?」
「……お薬でお部屋に留まって頂くことが難しいようでしたので、少々心苦しいですが、このような形に」
その言葉自体に嘘はないようで、レインは罪悪感で一杯の儚げな微笑みを見せていた。
「薬、って一体……」
「何でも、魔術研究院で開発された特別なお薬らしいです。少しずつ気力と体力を奪って、反抗の意思も、逃げ出す意欲すらも抱かせない、という代物だと聞いていたのですが……ちょっとお薬が切れただけでお部屋から飛び出してしまうなんて、お嬢様は流石ですね」
翳った目で笑うレインから思わず顔を背けてしまった。気力と体力が奪われた先に待ち受ける運命を想像して、ぞわりと背筋が粟立つ。
「……薬はスープにも入っていたの?」
「私も存じ上げなかったのですが、ルーク様が念には念を、と」
「そう……流石はお義兄様ね」
本当に抜け目がない。お陰で逃げることは叶わなかった。
いざどうにもならない状況に陥ってしまうと、却って思考は落ち着いていた。真新しいネグリジェの裾をぎゅっと握りしめながら、私はそっとレインを見据える。
「……レインは、どうして私にこんなことを?」
なるべく笑いかけるように問いかけたつもりだったが、レインの表情が晴れることはなかった。彼女は灰色の瞳を伏せて、淡々と独白を始める。
「お嬢様、私の人生の最大の幸福は、お嬢様に出会えたことです。あの雨の日にお嬢様と出会ってから、本当に毎日が楽しくて幸せで仕方がなかった」
それは、レインがいつも口にしていたことだ。大袈裟だと私は笑っていたが、彼女にとっては全て真剣な言葉だったのかもしれない。
「でも……お嬢様は公爵令嬢であらせられますから……いずれ然るべき家門の殿方の許へ嫁がれるのでしょう。その際にきっと、身分も出自も不確かな私は置いていかれてしまう……。いつからかそれが、私の一番の恐怖になっていました」
確かに、嫁ぐ相手によっては、何一つ確かなものがないレインを連れていくことは難しかったかもしれない。だが、彼女がそんなことを心配していたなんて、微塵も考えたことが無かった。これには私も思いやりがかけていた、と内心反省する。
「でも、お相手がルーク様なら……私はこの先もずっと、お嬢様が終わりを迎えるその日まで、お嬢様のお世話をすることが出来る。……正直、義兄の立場を利用してお嬢様に纏わりつくあの方に、お嬢様を奪われるのは辛くもありましたけれど……でも、お嬢様のお傍から引き離される恐怖とは比べ物になりませんでした」
お義兄様に対して随分な言いようだ。お義兄様本人にも、似たような態度を取っていたのだろうか。
だとすれば、お義兄様が時折レインを睨むように見つめていたことにも頷ける。
「だから私は、ルーク様のお味方をすることにしたのです。お嬢様が逃げてしまわないよう、お嬢様に薬まで盛って……」
レインはベッドサイドに跪くと、静かに頭を垂れた。
「あんなに苦しい思いをさせてしまって、申し訳ありません。でも……これが私の選んだ道です。お嬢様がどうなっても、私は最後までお嬢様のお世話をさせていただきます」
どうなっても、とは随分不吉な響きだ。だが、左手に繋がれたこの鎖のことを思えば、その言葉選びも無理はないだろうか。
「私を許さないでください。恨むことでお嬢様がお心を保てるというのなら、思う存分恨んで、憎んで、私のことなど嫌いになってください」
「……そこまでして、あなたは私の傍にいたかったの?」
「はい」
レインは今にも泣き出しそうな、それでいて晴れやかな顔で短く答えた。
……そんな風に言われると、弱いのよね、私。
到底許すべき行いではないと言うのに、歪み切ってまでも遂げたい想いがあったと言われると、心が揺らいでしまうのがヤンデレ至上主義のまずいところだ。あれだけ薬で苦しめられたというのに、目覚めた直後に抱いていた怒りのような感情が、半減したような気がする。
こんな状況では死活問題であるが、要は私は、ヤンデレに甘いのだろう。それが自分に向けられる病みであってもだ。
……この状況から、どう説得すれば鎖が外れるかしらね。
数多のヤンデレを見守ってきた私だが、レインはともかくとして、お義兄様は桁外れのヤンデレな気がしてならない。穏便に鎖を外してもらえる方法が、まだ私に残されているだろうか。
「お嬢様がどれだけ傷ついても、壊れてしまっても、私たちはお嬢様をここに留め置きたいんです。だから……お嬢様、諦めて、ルーク様のものになってください。抵抗するだけきっと、苦しい思いをするだけですから。必要なら、またお薬を使って差し上げます。逃げたいと思いながら囚われるのはきっと苦しいでしょうから……」
どうも、私がお義兄様の許から逃げ出したい前提で話が進んでいるところが厄介だ。これは、お義兄様ともきちんと話をしてみる必要がありそうだ。
……もっとも、まだお話が通じる段階にいらっしゃればの話だけれど。
数多のヤンデレを見守ってきた経験上、病みが進行したヤンデレとは会話が成立しないこともあるから厄介だ。私はお義兄様の許から逃げるもの、という観念が彼の中で揺らぎようのない事実になってしまっていたら、説得の余地がないかもしれない。
ヤンデレを前にして逃げようとしたのは我ながら失策だったわ、と鎖に繋がれる前の行動を反省していると、薄暗い寝室の扉が開かれた。
入室してきたのは言うまでもなくお義兄様だ。美しかった紺碧の瞳が、かつてないほどに翳っておられる。
「……それでは私は失礼いたしますね。大丈夫、抵抗さえしなければ、ルーク様はきっとお優しくしてくださいます」
妙に含みのある言い方をするレインに不安しかない。彼女は深い一礼をして、お義兄様と入れ替わるように寝室から去ってしまった。
薄暗い寝室の中、鎖に繋がれた状態でお義兄様と向かい合う気まずい時間が流れる。薄手のネグリジェ姿であるのが心許なくて、何気なく毛布を胸のあたりまで引き寄せた。
お義兄様は、何も言わずにベッドの端に腰を下ろし、上半身だけ私に向けた。このところよく見ていた体勢ではあるが、看病するときと今では、まるで漂う緊張感が違う。
「……思ったよりも冷静なんだな。もう逃げ出すことは諦めたのか?」
お義兄様の手が、左手首に繋がった鎖を撫でる。そういう仕草もいちいち色気のある人だから、この状況下では色んな意味で心臓に悪い。
「鎖はともかく、お義兄様のお傍にいること自体は不満ではありませんもの」
本当は、翳り切った瞳をするお義兄様のことは少し怖い。このまま一生陽の光を見られないのではないかと思うと、身が竦みそうなのも確かだ。
だが、こういう場面で怯えた素振りを見せると、尚更ヤンデレの病みを加速させることを私は知っている。涙なんて流そうものなら、即刻押し倒されてもおかしくない。
「……俺が喜びそうなことを言って、鎖を外させようとでも? 心にもないことを無理に言う必要はない」
ぎし、とベッドが軋む音がして、お義兄様との距離がまた少し縮む。思わずきゅっと毛布を握りしめた。
「心にもないことなんて……どうしてそんな風に決めつけるのです?」
「夜会の夜からの拒絶が何よりの証だろう? わざわざ俺に説明させたいのか」
「夜会の夜から……?」
確かにお義兄様に口付けられてからは、しばらくまともにお義兄様と顔も合わせられなかった。でもそれは、決して口付けられたことが嫌だったわけではなくて、お顔も見られないほどの恋の熱に浮かされていたからだ。
だが、お義兄様は異なる捉え方をしたのだろう。このご様子からして、私に距離を置かれたと感じていても不思議はない。
だとしたら確かに、私にも非があったと言うべきなのかもしれない。
言葉が、足りなかった。そのせいでお義兄様を不安にさせてしまった。
「ごめんなさい、お義兄様、違うのです。あれはただ、お義兄様に口付けられたことが嬉しくて、恥ずかしくて……どんな顔でお義兄様にお会いすればいいのか分からなかったから……」
「じゃあ、公爵閣下への手紙はどう説明する? この屋敷から連れ出してほしいと、助けでも求めたのか? そこまでして俺から逃げ出したかったのか?」
「連れ出してほしいなんて……。むしろ、あれはその逆——」
その言葉が最後まで紡がれることは無かった。お義兄様に押し倒されてしまったからだ。
私の顔に影を落とすようにして、こちらを見下ろすお義兄様の表情は、何だか泣き出しそうにも見えた。私の言葉など一言も聞きたくないと言うような拒絶の姿勢に、思わず息を呑む。
「――もういい、どれだけ取り繕ったってこの状況は覆らない。諦めてくれ、エル」
普段冷静なお義兄様がこれほど取り乱すくらいに、彼は私を求めてくれていたということだろうか。こんな強硬手段に出るほどに、私を傍に置いておきたかったのだろうか。
褒められた行いではないのは確かだが、やはり、そこまでの強い想いを前に、彼を恨んだり怒ったりすることは到底できない。これは私の甘さであり、恐らくは一種の歪みのようなものなのだろう。
私はただ真っ直ぐに、お義兄様の瞳を見上げた。
「もう、限界なんだ。今までお前が傷ついたり、攫われたりしたときだって散々抑えてきた。こうして傍に置いて、絶対に逃げないという確証がないと安心できない」
「お義兄様……」
「そうやって俺を呼ぶのはやめてくれ!! 俺はお前の兄になれない。お前を妹だと思ったことなど一度もない」
私を押し倒した姿勢のまま、お義兄様は責めるように告げた。彼は泣き出しそうな表情のまま、慈しむように私の頬を撫でる。
「……それでありながら、義兄の立場を利用して、お前に際限なくもたれかかる自分が本当に嫌で嫌で仕方がない。お前は俺を義兄として慕ってくれているのに、俺がお前に向ける感情は、親愛の情とは程遠い、独占欲と歪んだ感情に塗れた醜いものなのだから」
知らなかった。お義兄様が、そんな風に思っていたなんて。基本的に真面目な方であるだけあって、年長の立場を利用して私と親しくなっていることに、後ろめたさを抱いていたのだろう。
それくらい真剣に、彼は私との関係を悩んでくれていたのか。
……そう、お義兄様は、ここまで私のことを。
こんな状況下だが、恋焦がれる相手がこんなにも私のことを考えてくれていたことが嬉しくて、何だか先ほどまで張り詰めていた緊張の糸が緩んでいくのが分かった。
こうなったらもう、何もかも素直にお義兄様にお伝えしたほうがいいのかもしれない。怯えたり、感情を隠したりすると彼の病みを一層深めかねないことを考えても、私にできることは、とびきり素直になることしか残されていない気がした。
心のどこかで、何かが吹っ切れたような感覚を味わいながら、私はそっとお義兄様に笑いかける。
「……ルーク様は本当に、真面目なお方ですね。そういうところも、大好きなのですけれど」
思わずくすくすと笑うように告げれば、お義兄様が訝しむように私を見つめる。私の言葉を疑うように見てくるあたり、信用がないな、と寂しい気持ちが湧き起こった。
だが、思えばお義兄様のような寂しさと孤独を抱えているような相手には、きちんと言葉にして伝えることが大切だったのだ。それを怠ったのは、やっぱり私にも悪い部分があったのだろう。
「義妹の立場で甘えていた私が恥ずかしくなってしまいます。私だって、お義兄様へ向ける感情は、とうに親愛の情なんて可愛いものではなくなっておりましたのに……」
私の頬に触れるお義兄様の手に両手を添えるようにして、彼の手に頬をすり寄せた。
優しい温もりに思わず頬を緩ませるも、ここに来て初めて、お義兄様の手が戸惑うようにぴくりと震えたのが分かった。
「……お前、よくこの状況でそんな真似できるな。煽ってどうするんだ。本当に危機感というものがなさすぎる」
私を監禁している張本人に警告されるなんて、なんだか妙な構図だ。だが、こうしているといつもの調子を思い出し始めて、いっそ楽しくなってきた。
「もちろんこれは、ルーク様限定の無防備さですのよ? 私としましては、あなたにされて嫌なことなど何一つありませんから、危機感も何もないというだけなのですけれど……」
「このまま監禁されて手籠めにされてもか?」
嘲笑うようなお義兄様の声に、これには流石に笑みが引き攣りそうになったが、何とか悟らせない程度に彼を見つめ返す。
「できればそのような事態は避けたいですわ。だって——」
……甘えおねだり戦法がこの状況でも効いてくれるかしら?
私は彼の手のひらに口付けるようにして、僅かに瞳を潤ませるように強請った。
「――叶うなら、ルーク様と結ばれるのは、神様の前で永遠を誓った後がいいですもの」
「っ……」
お義兄様が、僅かにたじろぐのが分かった。瞳を揺らがせている辺り、こんな状況でも私のおねだりは通用してしまうようだ。
この機を逃す手はない、と私はお義兄様の手に縋りつくようにして畳みかけた。
「それに、ルーク様とはもっともっと沢山、行ってみたいところがあるのです。二人で巡ればきっと、訪れる先一つひとつが世界で一番美しい場所になりますわ。そのためには、是非とも、この鎖は外していただきたいのですが……」
改めて両手で彼の手をぎゅっと握りしめ、彼の指先に口付けながら紺碧の瞳を射抜く。
「駄目、ですか……?」
我ながら少々あざとすぎたかしら、と思ったが、幸いにもお義兄様にはこの上なく効いたようだ。ついに私から視線を逸らしてしまった。
薄暗い寝室に、沈黙が訪れる。どこからともなく、時計の針の音だけが響いていた。
お義兄様は、これでかなり揺らいでくれているとは思うが、決定的な一手が足りない。
何かないか、と視線だけで辺りを見渡したとき、ベッドサイドにガラスでできたサイドテーブルが置かれているのが分かった。テーブルの上にはこともあろうにスノードロップの花束が飾られている。
……まさに、私とお義兄様のハッピーエンドとバッドエンドの分岐という訳ね。
そう思うと、何が何でもこの鎖から解き放たれる道を選ばなければ、私もお義兄様も不幸に沈み込んでいく気がしてならなかった。
……散々人のバッドエンドを回避しておいて、最愛のお義兄様にはバッドエンドを贈るつもりなの?
半ば自分を奮い立たせるように問いかけて、一度だけ目を瞑って決心した。ここが分岐点なら、決して手を抜くわけにはいかない。
「……ねえ、ルーク様、私、あなたのことを愛していますけれど、このまま鎖につながれて生きるのは御免です」
一瞬の隙をついて、私はベッドから飛び降りると、その勢いのままガラスのテーブルを押し倒した。派手な音を立ててガラスが割れ、テーブルの上に飾られていたスノードロップが床に散らばる。左手につながった鎖がぴんと張って、僅かに皮膚が擦れるような痛みが走った。
「エル!?」
お義兄様がすかさず私を引き寄せようとしたが、私がガラス片の一つを拾い上げたことで躊躇うような素振りを見せた。
「訊き方を変えましょうか」
私は割れたガラス片の一つを握りしめ、自らの首元に当てる。それだけで、お義兄様の表情が絶望に染まるのが分かった。
「エル、やめろ! 今すぐにそれを離せ!!」
「私をこのまま鎖につないでおくおつもりならば、今、この場で首を掻き斬ります!」
「っ……!」
お義兄様はこんな表情もできるのか、と状況にそぐわない感動を覚えたところで、私は微笑みかけるように告げる。
「あなたに選ばせて差し上げます。私の死体と仲良く暮らすか、鎖を外して私に愛されるか——」
覚悟を見せるようにガラス片を握りしめれば、指先から滴った血がぽたぽたと足元を汚した。きっと、スノードロップを赤く染め上げていることだろう。
そのまま私は悪役令嬢らしく、弧を描くように含みのある笑みを口元に浮かべた。
「――二つに一つよ。さあ、選びなさい、今すぐに!!」
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