第10話
その日、薬を飲み忘れてしまったのは、偶然に偶然が重なってのことだった。
例にもれず、その日も朝目覚めたあたりからずっと体が怠く、午前中からベッドに横になって時間をやり過ごしていたのだが、いつの間にかお昼寝をしてしまっていたらしい。
目覚めれば、時刻は既に昼下がりともいうべき時間で、お昼の薬の時間を大幅に過ぎてしまっていた。
レインも自身の仕事をしに行っているのか、寝室の中に彼女の影はなく、お義兄様もお仕事で執務室にいる時間だったので、久しぶりに私は一人になったのだ。
何とも言えない心細さを感じながらも、サイドテーブルに用意された薬を飲むべく体を起こす。薬を飲んでいても具合が悪いのに、飲み忘れたら余計に体調を崩してしまいそうだ。
そっと身をかがめるようにして気だるい腕を伸ばしたその瞬間、私は思わずはっと息を呑んだ。
……どうしてかしら、物凄く体が軽いわ?
薬を飲み忘れているというのに、どういうことだろう。朝目覚めたときと比較しても、あの怠さが嘘のように手足が動く。
ようやく、回復の兆しが見えてきたのだろうか。嬉しくなって、早く完全に治すべく、私は用意された薬湯を口元に運んだ。
この薬湯は、飲みやすいようにミントなども配合されているのか、口当たり自体は非常に爽快感のあるものだ。こうして口元に近付ければ、ペパーミントの香りが鼻腔をくすぐった。
まるでハーブティーみたいだわ、と何気なく思ったところで、まるで警鐘を鳴らすように心臓が跳ねる。
……そう言えば、初めに倒れたときも私はハーブティーを飲んでいたのだっけ。
薬湯のカップを持つ指先が、僅かに震えていた。ミントが配合されているのなら共通項があるのは当然なはずなのに、このまま飲むことを躊躇われてしまう。
……このお薬、いつも飲んだ直後に物凄く気持ち悪くなってしまうのよね。
それこそ、レインやお義兄様に背中を摩って貰ったり、手を握って貰ったりして不快感に耐えているのだ。それを今、たった一人で耐えられるだろうか。
思わず、口元まで持ち上げたカップを下ろしてしまった。駄目だ、どうしても飲みたくない。一人でいるときに耐えられる気がしない。
二人に叱られることを覚悟で、このまま放置しよう。幸いにも気分がいいことを告げれば、二人ともそう怒らないかもしれない。
少し動けそうだったので、私はそのままベッドから下りて、軽く寝室の中を歩き回ってみることにした。レインがこのところ集めてくれているお伽噺の山でも漁ってみよう。
流石に二週間ほど横になっていただけあって、以前のような身軽さというわけにはいかないが、やはり朝と比べれば劇的な回復を遂げている。気分のいいときに、少し運動をしておこう、と私は歩きながらお伽噺を開いた。
レインが私室に戻ってきたのは、それから半時間ほどが過ぎたころだった。遅めの昼食を運んできてくれたらしい。
レインは部屋の中を歩き回っている私を見て、ひどく驚いていたようだった。無理もない。朝まであれだけぐったりしていた私が、元気とは言わずとも軽く室内を歩き回れるまでに回復していたのだから。
「レイン」
不思議と、声に張りも戻っているような気がした。動いたことで益々気分も良くなった気がする。
レインは喜んでくれるだろうか。そう思い彼女の反応を待っていたのだが、帰ってきた言葉は意外なものだった。
「……お嬢様、薬はちゃんと飲んでくださいとあれほど申し上げましたのに」
レインは入り口付近で昼食のトレーを抱えたまま、溜息をついた。やはり、叱られてしまいそうだ、と苦い気持ちが広がる。
「ごめんなさい、レイン。一人じゃ、ちゃんと飲める気がしなくて……」
「だからと言って歩き回るなどと言語道断です。もしもお倒れになったりしたら、どうなさるおつもりだったのですか?」
レインは近くのテーブルに昼食を置くと、私の前の前に歩み寄り、肩を抱くようにして私をベッドに導いた。
「今後は、私やルーク様のいないところで無闇に立ち上がったりしないでください」
「はーい……」
少しは回復していることを喜んでくれるかと思ったが、レインは思ったよりも手厳しかったようだ。むう、と唇を尖らせれば、レインは昼食をサイドテーブルに運び直した。
「でも、本当に調子がいいのよ? お昼ご飯もたくさん食べられそう」
このところ、お義兄様から手ずから与えられる果物しか口にしていなかったせいで、手首が一回り細くなってしまったが、この昼食からはしっかりと食べられそうだ。
「ご無理はなさらないでくださいね」
レインは食べやすいように小さく千切られたパンと野菜のスープを私の前に差し出した。このところ久しく感じていなかった食欲が湧いてくる。
簡易的な祈りを捧げてパンを口にすれば、久しぶりに食事をしている感覚があった。パンもスープもとても美味しい。
「ふふ、この調子なら明日には屋敷の中を歩き回れたりするかもしれないわ!」
「それはいくら何でも無理をしすぎです」
「レインったら、本当に過保護」
あっという間に食事を平らげてしまい、いよいよ苦手な薬の時間が来てしまった。沢山食べてしまったが、薬を飲んで吐き気に見舞われたら耐えきれるだろうか、と今更ながら若干の後悔を覚える。
「ねえ、レイン、このお薬飲まなきゃ駄目?」
「駄目ですよ、ちゃんと飲まなきゃ、治るものも治りませんから」
「……ミントは好きだったけれど、もう何だか嫌いになってしまいそうよ」
はあ、と溜息をつきながら私はカップを持ち上げる。入室してすぐに私が薬を飲んでいないことに気づいたのだから、やっぱりレインは薬に関しては目ざとかったわね、と諦めの滲んだ苦笑を浮かべたところで、目の前の景色にはっとした。
……でも変ね、寝室の入口からこのベッドは、調度品やカーテンの死角になって見えないはずなのに。
それなのにレインは入室してすぐに私が薬を飲んでいないことを指摘したのだ。ペパーミントの香りを感じ取ったと考えられなくもないが、常識的に考えれば彼女が手にしていた私の昼食のスープの香りが邪魔をして、あの短い時間で断定できるとは考えにくい。
とすれば、私が薬を飲んでいないことが一目で分かるような何かがあるのだ。この部屋には。
先ほど軽く歩き回った限りでは、お伽噺の山以外に目新しい道具も調度品も無かった。もともと私の寝室は必要最低限のものしか置いていないのだ。何か新しいものがあればすぐに気づくはずだが、見当たらなかったということは、この部屋に置いてあるようなものではないのだろう。
他に、あの瞬間、入室してきたレインが瞬時に視界に収められたものと言えば——。
……私の、姿だわ。
どくん、と心臓が跳ねる。それをきっかけに、まるで警鐘を鳴らすかのようにどくどくと心臓が早鐘を打ち始めた。
……え、待って頂戴? 私が元気に歩き回っていることで、私が薬を飲んでいないと判断したのだとしたら、レインはこの薬湯を私に害のあるものだと考えているということ?
それを意識した途端、薬湯のカップを持つ指が震えた。今まで見ないふりをしていた何か、非常に良くないものが次々と結びついて、ある仮説が立ってしまいそうな気がする。
「……お嬢様?」
「っ……」
優しいはずのレインの呼びかけに、大袈裟なほどに肩を震わせて、その拍子に私はカップを落としてしまった。真っ白なシーツの上に、薬湯が染みを作っていく。幸いにも随分と冷めていたので熱くはなかったが、ネグリジェが肌に纏わりつくように濡れるのが分かった。
「お嬢様!? 大丈夫ですか!?」
ひどく慌てたようにレインは急いで薬湯を拭き始める。今は彼女の親切が、どういう感情で私に向けられているものなのか分からなくて、どうにも不気味に思えてしまった。
「ねえ……レイン、この薬湯、お医者様が処方してくださったお薬なのよね?」
多分、彼女に直接尋ねるのはどちらかと言えば悪手だろう。それでも私は、気づけば戸惑いとひしひしと迫る絶望感のままに、口を開いていた。
一瞬だけ、本当に一瞬だけレインの灰色の瞳から一切の感情が失われたのを、私は見逃さなかった。
……ああ、それが何よりの答えよ、レイン。
すぐさまレインは可憐な笑みを取り繕ったが、灰色の瞳に浮かぶ翳りは濃くなっている。
「……もちろんそうですよ? だから、ちゃんと飲んでくださいね?」
すぐに代わりのものをお持ちいたしますね、と笑うレインを前に、もう限界だった。
「……ごめんなさい、レイン。今のあなたのことは、ちょっと信じられそうにもないわ」
それだけ告げて、私は肌に張り付くネグリジェ姿のまま、ベッドから飛び出した。朝より調子がいいとはいえ、弱っているせいかふらついてしまう。それでも体に鞭打って懸命に走り、寝室を抜け出した。
ひとまず逃げ出したはいいものの、一体どこへ向かえばいいのだろう。咄嗟に思い浮かぶのはお義兄様の姿だが、彼は、レインが私に治療薬ではない薬を盛っていることを知っているのだろうか。
……知っていて黙認しているのか、二人で共謀しているのかは分からないけれど、まあ、まず知っているでしょうね。
思えばお義兄様は、事あるごとに私に外の世界のことを忘れるよう促していた気がする。それだけで疑ってしまうのは非常に申し訳ないのだが、あの抜け目のないお義兄様が、自分の意図しない形でレインが私に薬を盛っていることを見逃すはずがない。
だとすれば、いよいよ逃げ場がなくなってきた。脳裏によみがえるのは、ミラー伯爵邸でリリアーナが別れ際に告げた「ルーク様から逃げたくなったら、すぐに知らせてね」というあの言葉だが、お義兄様に知られずにミラー伯爵領まで辿り着くなんてまず無理だ。
それならば一か八か、王都の街に飛び出して、知り合いの貴族に匿ってもらう方が現実的だ。もっとも、名門ロイル公爵家の実質的な権力を握るお義兄様を前にして、私を差し出さずにいられる家門はそれこそ数えるほどしかないだろうけれど。
だが、一旦今後の作戦を考える意味でも、屋敷から逃げ出すこと自体は悪くないように思えた。幸いにも今日の天気は晴れ。雨に打たれる心配はなさそうだ。
レインのこともお義兄様のことも、別に嫌いになったわけではない。ただ、お互いに、少し冷静になる時間が欲しいだけだ。
意を決して、私は使用人の勝手口を目掛けて走り出した。玄関広間は目立つから、なるべく通りたくない。
あわよくば、事情を知らなそうな使用人がいれば助けを求めようかと思ったのに、誰一人としてすれ違わない。恐らく、私の目に触れぬよう、最低限の数の使用人しか揃えていないのだろう。
……この屋敷は、いつからあの二人の病みに呑まれてしまったのかしら。
そもそも二人が、私に薬を盛って自由を奪おうとするほど病んでしまったこと自体に、まるで心当たりがない。これだからヤンデレは怖いのだ。
そうこうしているうちに、長い廊下の先に勝手口が見えてきた。秋の陽だまりが差し込むその扉は、ひどくそっけないものなのに、今の私には眩しいくらいに輝いて見えた。
だがその瞬間、初めて倒れたときと同じような動機と吐き気に襲われる。これには思わず壁に手をついて呼吸を整えた。
……どうして? お昼の薬は飲んでいないのに。
僅かに薬の時間を過ぎただけで、あれだけ体が自由になったということは、効き目自体はそう継続するものではないはずだ。朝の薬の効果が残っているとは考えにくい。
だが、この具合の悪さは紛れもなくこの二週間私を苦しめていたものだ。冷や汗が首筋を伝っていく。
「っ……」
壁に手をついたまま、ずるずると体勢を崩すも、瞬間、背後から乱雑にも思える仕草で抱きすくめられた。
「『これはこれは愛らしいお姫様、一体どちらへ向かわれるのですか?』」
それは、レインが音読してくれたお伽噺の中で、悪魔が告げた台詞だ。脈は限界まで早まり、何とか逃げ出そうともがいているかのようなのに、笑うように告げられたその声を聞いた瞬間、抗いがたい諦念が私を押しつぶした。
気づけなかった。お義兄様がこんなにも傍に迫っていたなんて。
「……『幸せと、陽だまりのあるほうへ』」
お伽噺の姫君が告げた短い答えを呟くも、どうしてか両目から涙が溢れだした。なにも可笑しくないのに、自嘲気味な笑みが口元に浮かぶ。
お義兄様のことを嫌いになったわけでもないのに、今ばかりは、どうしても怖くて仕方がない。振り返ることなんてとてもできない。
「……可哀想なエル。お前はもう、どちらも手にすることはないのに」
お義兄様は普段の調子で薄く笑ったかと思うと、陽だまりを遮るように、背後から私の目元に手を当てて視界を奪った。
そのまま一層力強く引き寄せられたかと思うと、項に彼の唇が触れるのが分かった。こんな状況でもぞわりと走った甘い寒気に身じろぎするも、それすら許さないと言わんばかりに、彼の腕がきつく私の体を抱きしめる。
「……お義兄様、どう、して……私、ちゃんと、お義兄様のことを——」
「――もういい。何も聞きたくない」
お義兄様の手に抑えられた目元から、ぼろぼろと涙が零れ落ちていく。悲しいのか怖いのかすら、もうよく分からなかった。
……ねえ、お義兄様、私、一体どこで間違えてしまったの?
声にはならない問いを飲み込んで、私はただただお義兄様に抱きすくめられたまま泣き続けた。
いつしか泣きつかれて私は彼の腕の中で眠ってしまったのだけれども、その境界も曖昧になるほどに、私の意識も体もお義兄様に囚われていたのだった。
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