第12話

 それから、数分後。


 私は薄暗い寝室の中、ベッドの端から足を床に降ろすような形で座らされていた。


 目の前には、床に膝をつくようにして私の手を取るお義兄様の姿がある。


 左手首の鎖は、既に取り払われた後だった。先ほど激しく動いたせいで、ほんのわずかに手首が擦れてしまっているが、代わりに得たものに比べればこのくらいの傷はなんてことはない。


「……エル」


 先ほどガラス片に触れたせいで傷ついてしまった指先を労わるように、お義兄様はそっと私の手のひらに指を這わせた。正直痛みよりも、触れられたくすぐったさの方が勝ってしまい、何だか妙な感覚だ。


「……鎖を外してくださってありがとうございます。それと……乱暴な真似をしてしまってごめんなさい」


 お義兄様の足元に散乱した、割れたガラステーブルと花瓶を見やりながら謝罪する。


 私の死体と暮らすか、鎖を外して私に愛されるか。


 二つに一つの選択を迫った結果、お義兄様はすぐに私の鎖を外してくださった。その後こうしてお義兄様は私に跪くような体勢で向かい合っているわけだが、痛ましいものを見るような目で私の手のひらに視線を落としている。


 ガラス片で切れたと言ったって、本当にささやかな怪我だ。以前カトレアを助けるときに負った右手の傷の方がよっぽどひどいと思うのだが、お義兄様はどこか自分を責めるような面持ちで私の手のひらを見つめているのだ。


 思ったよりも、私の命を賭けた選択を迫るのは、お義兄様に精神的な負荷を与えてしまったのかもしれない。それだけ彼が私を大切に想ってくれている証なのだろう。

 

 正直、本当に死ぬつもりなんて無かった。あれでお義兄様が私の鎖を外さないことを選んだのなら、覚悟を決めて、この部屋で監禁されようと思っていた。


 ……外の世界を二度と見られなくても、自由が無くなっても、お義兄様がいらっしゃるのなら、それはそれで——。


 なんて、そこまで考えて小さな自嘲気味な笑みが零れた。


 ……私も大概ね。お義兄様の病みだけを責められないわ。


 無論、今の状況の方が私にとっても、そしてお義兄様にとってもいいに決まっている。爛れた陰鬱な監禁生活の中で「幸せのようなもの」を掴み取るよりは、陽だまりの下で、心の底からお義兄様と笑い合いたい。


「……どう考えても謝るのは俺のほうだろう。お前の気持ちを一方的に決めつけて強硬手段に出た挙句、お前に命を賭けさせたんだから……」


 それだけ告げて、お義兄様はそっと私の手のひらに口付けた。傷口にほど近い場所だから、お義兄様が私の血で汚れてしまう、と思わず手を引こうとするも、続くお義兄様の表情に私は固まってしまった。


 お義兄様は、私の手に口付けながら、一粒だけ涙を流したのだ。普段は感情なんて滅多に覗かせない、あのお義兄様が。


「っ……」


 深い悲しみに染まり、静かに涙を流すお義兄様の姿は、はっとするほどに美しかった。こんな状況下だが、思わず目を奪われてしまうほどに。


「……もう、二度とこんな真似はしない。だから……エル、傷つかないでくれ。エルがいなくなると考えただけで……俺は……」


 また一粒、透明な涙を流すお義兄様を前に、気づけば私はベッドから飛び降りて彼をきつく抱きしめていた。


「っ……約束します。エレノアはこうしてお傍におりますわ……。怖い思いをさせてしまってごめんなさい」


 彼の首の後ろに腕を回すようにしてぎゅっと抱きしめれば、お義兄様の手が恐る恐ると言った様子で私の背中に触れた。やがて私の存在を確かめるかのように、ゆっくりと力を込めて抱きしめ返してくれる。


「鎖になんか繋がなくたって、私はどこにも行きませんわ」


 私の肩口に顔を埋めるようにして擦り寄るお義兄様の髪を、そっと撫でる。彼の綺麗な銀髪に血がついてしまうかとも思ったが、今はそんなことを気にしていられなかった。


 本当に、彼は私を必要としてくれているのだ。それをまざまざと実感しながら、笑いかけるようにお義兄様に告げる。


「いえ、言い方が正しくありませんでしたわ。私だって……あなたのこと、逃がすつもりなんてありませんのよ。これから先もずっとずっと、私の傍にいて下さらなきゃ嫌」


 ぎゅっと彼を抱きしめながら、愛しさを込めてそっと彼の頬に口付ける。涙に濡れたお義兄様の瞳は、久しぶりに翳りが晴れていて、どんな宝石よりも尊く見えた。


「いつまでも一緒にいましょう? 死が、二人を分かつまで」


 お義兄様の両手に指を絡めるようにして自らの手を重ねる。彼の膝の上に乗るような姿勢だったが、不思議と今は恥ずかしさを感じなかった。 


「……お前を死神にくれてやる気はない」


 ぶっきらぼうな言い方だったが、お義兄様の口元は僅かに緩んでいた。先ほどまでと比べようにならないほど晴れやかな表情だ。


「あなたらしい独占欲ですわ」


 私もまたふっと笑みを零して、彼と額を合わせるように目を瞑る。


 ……血まみれのスノードロップの上で想いが通じ合うなんて、何だか私たちらしいわね。


 二人の唇が重なったのは、きっと必然だった。


 夜会のときよりずっと繊細で、どこまでも私を甘やかすような優しい口付けに、意識ごと溶けてしまいそうだ。息の仕方が分からないのは相変わらずのことで、思わず彼の肩に手を当てて空気を求めようとするも、間近で紺碧の視線に射抜かれて再び引き寄せられてしまう。


 頬が熱い。きっと信じられないくらい真っ赤な顔をしているのだろう。そう思うと尚更恥ずかしくて、きゅっとお義兄様の手を握る手に力がこもる。


 それを感じ取ったのか、お義兄様は僅かに唇を離して私の戸惑いを面白がるかのような微笑みを見せた。


 その壮絶な色気にあてられてしまった私は、もう限界だった。ぐったりとお義兄様に寄りかかるように体重を預ければ、ようやく口付けの嵐が止む。


 宥めるように背中を撫でられて、何だか悔しかった。この先もこうしてお義兄様に翻弄される予感しかしない。


 思わずむう、と拗ねていると、いつになく満ち足りた表情のお義兄様が、そっと私の頭に口付けた。慈しまれていることを感じるには充分に甘い仕草に、私は結局何も言えなくなってしまう。


 頬に帯びた熱に浮かされるようにしてぼんやりとしていると、不意に、お義兄様に抱き上げられる。


 突然のことに慌てて彼の首に手を回せば、先ほどまであれだけ甘い口付けをしていたのが嘘のような涼しい表情でお義兄様は私を見下ろした。感情を悟らせないことに長けていらっしゃるのだろうが、やっぱりどことなく悔しさが残る。


 それにしても突然どうなさったのだろう、とお義兄様を見上げていると、彼はさも当然のように言い放った。


「公爵閣下の許へ向かおう」


「……い、今からですか?」


「当然だ。一刻も早くエルの婚約者の立場を手に入れなければ」


「焦らなくとも誰も狙っていないと思いますわよ?」


 それに、私もさりげなくお父様にお義兄様と婚約したい、というような旨を伝えてあるのだ。私を溺愛するお父様のことだから、すでに動き出していても不思議はない。


「お前は自分の魅力を正しく把握していないようだな」


 どことなく苛立ったようなお義兄様の視線に射抜かれるも、これには悪戯っぽく笑い返してしまう。


「ええ、私、自分の魅力なんて分かりませんわ。だから、ルーク様が教えてくださいます?」


 視線が絡めば、お義兄様はやっぱり睨むように私を見下ろした。


 思った通りだ。晴れて恋人同士になったとしても、なんとなく、彼は甘い言葉を吐くのが苦手なのではないかと思っていた。少ししてやったりな気分になる。


 ……でも、確かにお義兄様の独占欲の強さを考えれば、鎖の代わりになるものがあった方が安心よね。


 この国には婚約指輪を贈る風習がある。貴族の婚姻は、指輪を贈ってから一年後以上期間を空けた後に、結婚式を挙げるのが一般的だった。


「ふふ、でも私もルーク様と同じ気持ちです。一刻も早く、貴方の婚約者の証が欲しいですもの。早速向かいましょう! レインも連れて」


「そのつもりだ」


 お義兄様はふっと柔らかな笑みを見せたかと思うと、一度だけ私の額に口付けて、寝室の扉へ向かって歩き出した。


 お義兄様に抱き上げられたまま今一度室内を見やれば、散乱したガラス片とスノードロップ、黒い鎖、とバッドエンドの欠片があちこちに散らばっていた。


 血にまみれたスノードロップを見下ろして、私は誰ともなしにほくそ笑む。


 ……残念だったわね、スノードロップ。私含めて誰一人、悲しい結末になんかならなかったでしょう?


 バッドエンドに繋がるすべてのスノードロップを手折ったことに、かつてない満足感を覚えながら、私はお義兄様に抱き上げられたまま、陽だまりの中へ導かれたのだった。

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