第7話

「ん……」


 後頭部の鈍い痛みでゆっくりと目を開ければ、私は見慣れぬ石畳の床の上に転がっていた。夏とはいえ、不快な冷たさが頬から伝わってくる。


「っ……」


 体を起こそうと身をよじれば、右の手のひらに激痛が走った。よく見れば、手首に錆びた鎖が繋がれているせいか、塞がりかけていた傷口が開いてしまったらしい。


 辺りを見渡してみれば、物々しい鉄格子が視界に飛び込んで来る。光源は天井付近の小窓から差し込む外の光だけで、かびたような臭いが充満する、澱んだ空気が漂う場所だった。小さな地下牢とでもいうべきかもしれない。

 

 ご丁寧に足首にまで鎖が繋がれ、その一端は壁に繋がっているのでろくに身動きも取れなかった。


 他にも似たような部屋があるのか、僅かに流れる空気と共にすすり泣くような少女たちの声が聞こえてくる。私と同じように鎖に繋がれている子が他にもいるのだろう。


 どうやら私は、何者かに誘拐されたらしい。いつの間にか服もぼろ布同然の薄汚れたワンピースに替えられているし、手足には生傷が耐えなかった。余程乱雑にここまで運ばれてきたと見える。


 厄介なことになった、と溜息交じりに俯けば、錆びた鎖に小さな紋章が刻まれていることに気が付いた。ギザギザとした葉を形どったその紋には見覚えがある。


 この紋は確か、「狂愛のスノードロップ」でエレノアがシャノンを襲わせる際に依頼したならず者たちの集団が身に着けていたものだ。組織だった犯罪集団で、規模からしてもその背後には貴族かそれに近い権力者がいることは明らかだった。


 エレノアもシャノンの襲撃事件の際に、こっそりとお金を渡していたようだから、ある意味犯罪集団の後援者の一人だったと言うべきなのかもしれない。作中ではあくどいことばかりしていたエレノアだからこそ得られた人脈だったのだろう。


 それにしても、と私は冷たい石造りの壁に寄りかかり、そっと瞼を閉じる。


 シャノンがひどい目に遭わなくて良かったが、代わりに私がならず者たちに捕まるとは随分皮肉な展開だ。無事にここから出られたとして、お義兄様がどれだけお怒りになるだろうと思うと身が竦む。


 どうにかしてここから抜け出そうにも、未だずきずきと痛む後頭部のせいで上手く考えがまとまらない。仕方なしに深く息を吐いて、壁に寄りかかったまましばらくぼんやりと時間を過ごしていた。


 やがて、どこからともなく乾いた足音が響いてきたかと思うと、他の牢にいるらしき少女たちの悲鳴じみた呻き声が聞こえてきた。それだけでも、彼女たちろくな扱いをされていないと悟るには充分だった。


「ようやく起きたのか、嬢ちゃん」


 足音の主は私の牢の前で止まると、下卑た笑みを見せ、じろじろとこちらを観察してきた。ならず者にワンピースから伸びた手足を見られたところで恥ずかしいとも思わないが、不快感は覚える。それを隠すことも無いままに睨み上げれば、男は面白がるように笑った。


「気の強い嬢ちゃんだ。泣き顔一つ見せないとは」


「ここはどこなの? 事故に便乗して誘拐事件を起こすなんて人として最低だわ」


「事故? ああ、本棚を倒壊させたやつか」


 何気なく男は言ったが、つまりはあの事故もこの男たちの仕業だったということなのだろうか。本の下敷きになった子がいる、という叫び声が脳内でこだまする。


「っ……子どもを巻き込むなんて最悪だわ。人の心がないの?」


「子ども? ああ、安心しろよ、全部嘘だから。ああでも言えば人が集まるだろ」


 男は鉄格子に寄りかかると、嘲笑うような笑みを浮かべた。


「俺らの目的は嬢ちゃんだよ。藍色の髪に紫の瞳ってのはうちの商品には無い色だったからどうしても欲しくてな」


「商品?」


「見ての通り、かわい子ちゃんたちをお貴族様に売りつけるんだよ」


「っ……」


 シャノンが言っていた、近頃レアード伯爵領に出没すると言う人攫いというのも、恐らくは彼らのことなのだろう。他国に比べれば治安がいい王国ハルスウェルとは言えど、裏社会ではこうして人の命が売買されている現状があると耳にしたことがある。


「お嬢ちゃんもそこそこ裕福な家の娘さんらしいが、まあ、これも運命だと思って受け入れるんだな。安心しろよ、嬢ちゃんにはきっととんでもない高値が付く。そう悪いようにはされないだろうさ。自由とは一生無縁の生活だろうがな」


 エレノアの並外れた美貌を考えればそれは嘘ではないのかもしれないが、このままではまずい。国内の貴族であれば私の姿を見ればもしかするとロイル公爵家の令嬢だと分かる者もいるかもしれないが、他国にでも売り飛ばされたら本当に戻ってこられなくなるかもしれない。

 

 それは困る。見知らぬ土地で人形のように扱われて死ぬのは御免だし、何よりまだこの国にはあと三組のヤンデレカップルが未成立のままなのだ。そんな状態ではやはり死んでも死にきれない。どれだけ卑怯な真似を使ってでも、意地汚くても、生への執着を捨てるわけにはいかないのだ。


 まずは駄目もとで揺さぶりをかけてみようか、と私は口元に悪役令嬢らしい意味ありげな笑みを浮かべる。


「ふふ……私を売るですって? 見る目のない男ね」


「……何だと?」


「私を売るより、公爵家に身代金を請求したほうがずっとお金になるわよ。ロイル公爵家、学のないあなたでも知っているでしょう?」


「はっ、公爵令嬢があんな場所で自ら調べものなんかするかよ。寝言は寝て言え。それとも、頭の打ちどころが悪くておかしくなっちまったか?」


「調べてみればいいわ、ロイル公爵令嬢、エレノア・ロイルの特徴を。お前の言う通り、藍色の髪に薄紫の瞳なんて珍しいから、すぐに分かるでしょうよ」


 まともに取り合ってくれるかは分からないが、揺さぶりをかけておくに越したことはないだろう。何も言わないよりはましだと考えて、そのまま男を睨み続ける。


「まあ……生意気な口を利いていられるのも今のうちだろう。せいぜい今のうちに神様にでも祈っておけよ」


 男は嘲笑を交えて吐き捨てるように言うと、興味を無くしたようにさっさと立ち去ってしまった。


 何だかどっと疲れたような気分で俯けば、右手の傷からじわじわと血が滲んでいた。束ねるように右手と共に鎖が巻き付けられた左手の手の甲には、すっかり薄くなってしまった赤い痕が見て取れる。


 誘拐されてからどれくらいの時間が経っているのか定かではないが、私が攫われたことなんて、お父様やレインたちの耳にとっくに入っているだろう。

 

 お父様は、ショックでますます体調を崩してしまわれるかもしれない。ただでさえ食が細くなっているのに、食事が喉を通らなくなってしまったら大変だ。


 シャノンはきっと、自責の念に駆られて死に物狂いで私を捜しまわっているだろう。レインに至っては、泣きながら屋敷を飛び出してしまうかもしれない。ルシア様だって、無口な彼女にしては珍しく声を出して泣いてしまわれるかも。


 今更ながら、私が誘拐されたことで悲しむ人たちの顔が脳裏に浮かんで、どうしようもなく寂しくなった。体中の傷が訴える痛みと澱んだ空気のせいで、余計に涙が滲む。


 お義兄様は、と考えて、きゅっと胸が痛んだ。


 お義兄様は私が攫われたと聞いて、どんな表情をなさるだろう。やはり、「いい子」で待てなかった私にお怒りになるのだろうか。公爵令嬢としての自覚が足りないと、怖いくらいの声音でお叱りになるだろうか。


 改めて左手の手の甲の痕を眺めてみる。俯いた拍子に一粒の涙が赤い痕の上に零れ落ちた。


 こんな状況になっても、何とかなるんじゃないかとどこか楽観的に捉えている私がいることも確かだけれど、それでも、やっぱり怖いものは怖い。


「お義兄様……っ」


 どれだけ叱られても構わないから、今すぐに、お義兄様に抱きしめて欲しかった。寂しくて、怖くてたまらない。


 声を殺して、私はぼろぼろと泣き続けた。泣いていることが男たちにばれたら癪だから、決して悟られないように。


 膝を抱えて地下牢の隅で震える自分は惨めでならなかったが、こんなのはきっと一時の悪夢だ。そう、自分に都合のいいように言い聞かせて、私は一人、冷え切った石畳の上で孤独に耐えるのだった。

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