第6話
◆ ◆ ◆
降りしきる雨の中、青年は、薄汚れたワンピース姿で地面に座り込む初恋の人を見下ろしていた。
打ち付けるような雨音は、二人を世界から隔絶するように強まっていく。
先に沈黙を破ったのは、少女のほうだった。
「……なあ、ハドリー。今も私を少しでも好ましく思ってくれているのなら——」
少女は、赤く腫れあがった頬を僅かに歪め、深紅の瞳に大粒の涙を浮かべて青年に懇願した。
「――どうか私を、殺してはくれないだろうか」
青年は何も言わなかった。ただただ、琥珀色の瞳を翳らせて、傷ついた少女を見つめ続ける。
「酷いことを頼んでいるのは分かっている。でも、せめて……お前の手で終わりにしてほしいんだ」
再び長い沈黙が二人を包み込んだ。少女の頬を濡らすのは、涙なのか雨なのか、もうとっくに判別できなくなっていた。
虚ろな瞳で俯く少女にとって、これ以上この世界で生きるのは、何より辛いことなのだろう。ずっと少女を見てきた青年には、言葉にせずともその事実が痛いほどに分かった。
だからこそ、青年はそっと剣に手をかけた。誰より愛しい少女を、こんな残酷な世界から解放するために。
少女は、この世界で生きるには綺麗すぎる。だから、彼女に相応しい楽園に送ってやることが、自分に残された最後の愛の示し方なのだと青年は悟った。
剣が鞘から抜かれる音に、少女はようやく顔を上げ、そして小さく微笑んだ。
それは、まだ二人が幼いころに少女がよく見せていた、青年の一番好きな笑みだった。
「……ありがとう、ハドリー」
二人の目が合ったのはどれくらいの間だっただろう。時間にすればものの数秒程度だが、二人が懐かしい日々を思い起こすには充分な、愛おしく切ない瞬間が流れていった。
やがて、青年が振り上げた剣は、迷いもなく少女の胸を貫く。
どさり、と石畳の地面の上に力なく倒れる彼女の胸から剣を抜いて、青年はそっと少女の体を抱き起した。
雨に濡れた石畳の隙間に、少女の赤い血が伝っていく。青年が纏う騎士服もすぐに赤黒く染まったが、仄かに温もりを帯びるその色すらも、青年にとってはどこか愛おしくてならなかった。
「……私には……学が無いから、こんな、陳腐な言葉しか思い浮かばないが——」
震える手で、少女は青年の頬を撫で、最後の言葉を振り絞る。雨と血にまみれて震えていることなど、微塵も感じさせない晴れやかな笑顔で。
「――私は、お前を……愛していたよ、ハドリー」
その言葉を最後に、少女の手は力なく降ろされる。青年はその手を咄嗟に掴み、そっと少女の手のひらに口付けた。頬を伝う雨が温もりを帯びているのは、彼の流した涙が混ざっているからだ。
「俺も……」
嗚咽を漏らしながら、青年は消えゆく命に最後の告白をする。
「俺も……お前を愛していた、シャノン。誰よりも……何よりも……」
ぐったりと降ろされた少女の腕は、既に彼女の命の灯が消えている証だったが、それでも尚、青年は少女に縋り続けた。
「叶うなら……お前と生きていきたかった。いつまでも、ずっと……二人きりで……」
雨の中、青年は少女の亡骸を抱きしめ続けた。
やがて、僅かに残った少女の温もりまでもが雨に流されようかという頃、青年は少女を抱きしめたままふらりと立ち上がり、二人の思い出の森を目指した。二人で過ごした優しい時間を懐かしむように、少女に語り聞かせながら。
やがて青年は、森の中に隠された険しい崖に辿り着くと、躊躇いもなく少女の亡骸と共に身を投げた。
少女と額を合わせながら、共に落ちていくその瞬間こそが、青年が最後に感じた歪んだ幸せそのものだった。
◆ ◆ ◆
今朝夢に見たばかりのシャノンとハドリーのバッドエンドの光景をぼんやりと思い出していると、赤銀の髪の美貌の騎士が、革表紙の分厚い本を片手に私の元へやって来た。
「エレノア様、次はこちらの本でいいですか?」
「ありがとう、シャノン様。護衛騎士の範疇を越えたお仕事をさせてしまっているわね」
「いいのです。エレノア様は手を怪我されておいでなのですから、無理はなさらないでください」
ここは、レアード伯爵領にある王立図書館だ。膨大な数の本が収められており、伯爵領の人々だけでなく、王都から学者が足を運ぶこともある大きな図書館だった。
そしてこの図書館こそが、百年前にレディ・エドナが足繁く通い、死の前日に遺書を隠した場所でもある。
この膨大な図書の中から、レディ・エドナの遺書が隠されている本を捜し出すのは無謀な試みにも思えるが、幸いにも「狂愛のスノードロップ」の記憶があるお陰で、分野をお伽噺だけに絞ることが出来たのが救いだ。
もっとも、お伽噺だけに限ったところで数百冊に及ぶ蔵書があるので、全てを調べ上げるのに一体どれだけの日数がかかるかはあまり考えないようにしていた。
実を言えば、この場所には、お義兄様の許可なく来ているのだ。
もちろん、お父様の許可は得ているのだが、お義兄様が視察に出かけているのをいいことに、お義兄様には内緒にしてくださるように頼み込んで、屋敷を抜け出した次第だ。
まず間違いなく、お義兄様の言う「いい子」は、屋敷から無断で抜け出すような子ではないはずなのだ。これがバレたらどんな目に遭うか考えただけでぞっとする。
別にお義兄様のことが嫌いなわけでも恐ろしいわけでもないのだが、「狂愛のスノードロップ」では独占欲の塊みたいな行動ばかりしていた人だ。レインに向けるような行動までとは言わずとも、義妹に対しても何をしでかすか分かったものではない。私の想像を軽く超えたことをしてきても何ら不思議はないのだ。
だから何としてでも手の甲の痕が薄れるまで——恐らくは一週間も無いと思うのだが——には、レディ・エドナの遺書を探し出し、シャノンとハドリーの恋を幸せな方向へ後押ししたいのだ。
今は薄手の絹の手袋に包まれている左手をじっと見つめながら、決意を新たにお伽噺を捲り始めた。
そうしている間にも、私のすぐ傍にはシャノンが張り付いている。
シャノン曰く、ここレアード伯爵領はあまり治安が良くないらしい。このところ盗賊や人攫いの情報が多く寄せられており、騎士団も手を焼いている領地なのだと言う。
そのためシャノンは、図書館の中とは言えど気を抜かずに、休む間もなく私を見守ってくれている訳なのだが、黙ってても絵になるこの美貌の騎士は、図書館を訪れた人々の視線を奪ってやまないのだ。常にちらちらとこちらに視線が向けられるのを感じる。何とも居心地が悪い。
身動きを取りやすくするために、私は一見すれば裕福な商家の娘程度の変装をして図書館に潜り込んでいるのだが、シャノンがいる時点で無駄な工夫だったと言わざるを得ない。シャノンも今は騎士団の制服ではなく、私用の護衛と言った様子の服を身に纏っているが、騎士然とした雰囲気は服装だけでは隠し切れないものらしい。
必要以上に目立たないためにも、調査を早める必要がありそうだ。私は動かせる左手で必死にお伽噺の山を漁りながら、レディ・エドナの遺書を捜すべく、机に齧りつくのだった。
そんな日々を繰り返して、四日が経とうとしていた。
シャノンには目的を伏せてお伽噺を漁っているのだが、がむしゃらに本を捲り続ける私に、そろそろ彼女も疑念を抱き始めているようだった。
「……エレノア様は、一体何をお探しでいらっしゃるのですか?」
「ふふふ……私の望みのために必要なものよ。必ずこの中から見つかるはずなの」
四日も経てば、流石の王立図書館の御伽噺も三分の二は確認しつくした。この調子で行けば、お義兄様が屋敷に帰ってくるまでに全ての御伽噺を調べることも夢ではない。
「メイドや使用人に探させてはいかがです? こうも連日図書館に通われていては、お疲れになりましょう」
「うーん、そうね……でも、あまりに抽象的なものだから、人を頼るのは——」
シャノンと何気ない会話をしていると、ページをめくる手に何かが当たり、手元に視線を落とした。悲恋の御伽噺のちょうど真ん中に、古びた封筒が挟まれていたのだ。
どくん、と心臓が跳ねる。
……これが、もしかして、レディ・エドナの遺書——?
早速調べてみようと封蝋の家紋を確認したその時、突然に、私たちのいる閲覧室から少し離れたところで大きな物音と悲鳴が上がった。
びくりと肩を震わせて顔を上げれば、シャノンが警戒するように私の傍にぴったりと寄り添ってきた。流石の素早さだ。
「っ……一体何事かしら?」
普段は図書館らしい静けさに包まれている場所であるだけに、悲鳴の入り混じる騒々しさというものは何とも不穏だった。シャノンは警戒するように物音のした方を睨んでいたが、ちらりと私を一瞥する。
「……争っている音は聞こえませんから、何らかの事故かもしれませんね。いずれにせよ、ここから立ち去ったほうが良いかと」
「そう……そうね」
シャノンの判断はもっともだ。お忍びで図書館に来ている公爵令嬢を事故に巻き込むわけにはいかないと考えたのだろう。ここにいたところで何の力にもなれないのならば、余計な混乱を招く前に避難するべきなのかもしれない。
「行きましょう、エレノア様。お手を」
「え、ええ……」
突然の非日常的な出来事に戸惑いつつも、小さな鞄の中に封筒をしまい込み、差し出されたシャノンの手にそっと左手を添える。決して離さないと言わんばかりに握られるシャノンの手の温もりが何だか頼もしくて、少しだけ鼓動が落ち着いた。
閲覧席から少し歩けば、物音のした方で騒めく人々の姿が確認できた。僅かに埃が舞い、霞むような空気が一層物々しさを増している。
床には大量の本が散らばり、本棚の木枠の一部が折れるように崩れていた。大量の蔵書が床になだれ込む形になっている。本の重さに耐えきれず、本棚が壊れてしまったのかもしれない。
「大変だわ、怪我人はいないのかしら……」
もしも怪我をした人がいれば、ここからほど近いロイル公爵領の屋敷に連れていくこともできる。貴族としてできることは何かないかと考えていると、ひどく焦った様子の男性が私たちに助けを求めてきた。
「っ……手を貸してくれ! 本棚の下敷きになった子がいるんだ」
「っ……そんな!」
思わず口元に手を当てて声を上げてしまう。あれだけたくさんの本の下に埋もれて居たらどんなに苦しいだろう。一刻も早く助けなければ。
非力な私でも手伝えることはあるはずだ、と駆け寄ろうとしたところでシャノンに止められた。シャノンの整った顔には葛藤が見て取れる。
「……エレノア様、ここはこのまま参りましょう。他にも本棚が崩れて、エレノア様の身に何かあれば一大事です」
シャノンの言葉は護衛騎士としてやっぱり正しいのかもしれない。だが、今だけは彼女の助言に従うわけにはいかなかった。
「でも、人の命がかかっているわ。場合によってはロイル公爵領で手当てをすることだってできるもの。出来ることがあるなら何でもやるべきよ」
私の手を握ったままのシャノンを説得するように深紅の瞳に訴えかければ、やがて彼女は根負けしたように小さく溜息をつき、私の肩に両手を置いた。
「……分かりました。ではエレノア様を馬車までお送りしてから、私が戻って救助を手伝います。エレノア様は手を怪我されていることですし、馬車でおとなしく待っていてください。それを受け入れられないなら問答無用で帰りますよ」
これはシャノンなりに最大限譲歩した結果なのだろう。確かにろくに動かせない私の手では、救助活動に参加したところで足手まといにしかならないのかもしれない。
「分かったわ。そういうことなら急ぎましょう」
「はい」
私はシャノンに連れられるがままに、図書館から少し離れたところに停めてあった馬車に乗り込んだ。普段使うような公爵家の紋が入った馬車ではなく、商人が使うような質素な馬車だ。
「すぐに戻ります」
「お願いね、シャノン様」
シャノンは私を馬車の中に押し込めると、再び図書館へ駆け戻っていった。
冷静さを取り戻すため、しばらく馬車の中でじっとしていた私だったが、怪我人がいたときに備えて屋敷に医者の手配でもしておこうかと、馬車の窓から顔を出し、控えている護衛の一人に伝達を頼もうとした。
その瞬間、窓の外から伸びてきた男の手に腕を引かれる。気づいた時には喉元に短剣が付きつけられていた。
「っ……」
思わず目を瞠れば、真っ黒な外套を纏ったならず者と言った雰囲気の男たちが数名、馬車を取り囲んでいた。二人いたはずの護衛は地面に倒れ込んでいる。怪我をしている様子ではなかったが、深く眠っているようでこの非常事態の中、びくともしない。
「叫べば殺す。おとなしくついてこい」
ぷつり、と僅かに喉元の薄い皮膚が切れる感触が、私に選択肢など残されていないのだと物語っていた。鈍い痛みに顔を歪めながらも、大人しく男たちの指示に従い、馬車の外に出る。
「……何が目的? 身代金? それとも——」
何かしらの問いかけをしてシャノンが戻ってくるまでの時間稼ぎをしようと試みたが、あっさり後頭部を殴られ、地面に伏してしまう。護衛たちをひっそりと眠らせたことと言い、なかなかの腕前を持つ賊のようだ。
シャノンがいれば、こんな男たち、一瞬で斬り倒しただろう。彼女と離れてしまったのは失敗だったか、と自分の浅はかさを呪いながら、私は溶け行く意識に抗えず、そのままそっと瞼を閉じたのだった。
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