第8話

 それから、どのくらいの時間が経っただろう。


 当然ながら時間を知る手段はないので、天井付近の小窓から差し込む光から大体の時刻を推測するしかないのだが、およそ丸一日が経った頃だろうか。

 

 突然に、黒い外套を纏った男が私の牢の前に現れたかと思うと、私の足首に繋がっていた鎖を外し、手首に繋がっている鎖だけを引いて牢から連れ出したのだ。


 久しぶりに立ったせいかふらつく私に構うことも無く、男は私に黒い布で目隠しをすると、そのままどこかへと歩き出した。しゃらしゃらと鎖が鳴る音の間に、他の地下牢に押し込められているであろう少女たちのすすり泣く声が聞こえてくる。


「っ……私をどこへ連れていくつもり?」


 声だけは威勢よく問いかけてみれば、私を先導する男は嘲笑を交えた声で告げた。


「早速嬢ちゃんの買い手がついたんでな、ご主人様に引き合わせてやるよ」


「っ……言ったはずよ。私は売るより身代金を要求したほうがお金になるって」


「仮に嬢ちゃんが本当に公爵令嬢だったとしても、そんな危ない橋は渡らねえよ。身代金を要求してこちらの素性がバレるよりは、どっかのお貴族様に売りつけて安全に金を貰った方がずっといいさ」


 男の言うことはもっともだった。目先の利益より安全を取るのは、このような犯罪組織を維持するうえでは大切なことなのかもしれない。あるいは男の上にいるであろう権力者がそのように指示しただけなのかもしれないが。


「……私の買い手はこの国の貴族?」


 王国ハルスウェルの貴族であれば、私がロイル公爵令嬢だと気づく可能性がなくはない。気づかなくても、懸命に訴えれば話を聞いてくれるかもしれない。一芝居打って公爵家に恩を売る手伝いをすれば、ロイル公爵家に無事に帰ることが出来る可能性だってある。

 

「さあな、身なりはいいから貴族だろうが……この手の取引でわざわざ身の上を明らかにする愚か者はいないだろ、俺も良く知らねえよ」


 外国の貴族だったりしたら厄介だ。上手く逃げ出せるだろうか。


 思わず身震いするほどに、怯えてしまう。だがその一方で、ここに来て早々に買い手がつくという事態に、ほんの少しだけ期待している私がいることも確かだった。


 私が誘拐されたことを知った誰かが、助けに来てくれたのなら。もしそうだとしたらどんなにいいだろう。夢を見すぎなのかもしれないが、心のどこかでその希望を捨てきれていなかった。


 裸足で触れる地面が、石畳から柔らかな絨毯に変わったのを感じて、いよいよ対面の時なのだと察する。嫌でも脈が早まるのが分かった。


 駄目だ、前向きに考えよう。仮に今から対面する相手が私を助けに来た人でなくとも、あの澱んだ空気の中からこんなにも早く解放されただけでもラッキーじゃないか。進展のない日々に鬱々と塞ぎこむよりも、こうして動きがあったほうが逃げ出すチャンスを探る機会も増える。


 ドアが開かれる音と共に、眩い光が溢れ出したのが分かった。目隠し越しにも十分に光を感じられる。

 

「お待たせしました、こいつがさっき言った仕入れたばかりの商品ですよ。どうです? 珍しい藍色の髪でしょう」


 私に相対するときよりはいくらか丁寧な口調で、男は私を売り込む文句を口にする。扉が閉まる音が聞こえたので、恐らく室内には男と私、そして客の三人だけになったのだろう。


 ふわり、と香しい紅茶の香りが漂ってきた。貴族を相手にする商売をしているからか、茶葉は意外と良いものを使っているようだ。


「着飾らせればそれはもう美しい人形になりますよ。試してみます?」


「いやいい」


 手短に答える声からだけでは特徴を把握しきれない。視界を奪う目隠しがもどかしくて仕方がなかった。


「それより瞳を見せろ」


 感情を感じさせない冷たい響きのあるその声に、どくん、と心臓が跳ねる。


「もちろんですとも。それはもう綺麗な薄紫の瞳で、きっとお気に召すと思いますよ」


 男の無骨な手が、頭の後ろで縛っている目隠しを解くのが分かった。強い光に思わずぎゅっと目をつぶるも、男の手が乱暴に私の顔を上向かせた。


「目を開け、煩わせるんじゃねえ」


 そうは言っても眩しいものは眩しいのだ。だが、あまり逆らってばかりいて殴られても嫌なので、無理やり震える瞼をこじ開けた。


 強い光の中で、ゆったりとソファーに座る人影が見える。ぼんやりとしていたその影は、次第に目が慣れるとはっきりとした輪郭を得た。


 深い黒の上着を羽織ったすらりとした体格に、照明に輝く銀の髪。その前髪から覗く紺碧の瞳と目が合った瞬間、途方もない安心感に包まれた。


「っ……」


 お義兄様だ。


 やっぱり、来てくださったのだ。私が抱いた淡い期待を、お義兄様はいとも簡単に実現してくださる。


 ソファーに座ったお義兄様はどことなく疲れているようにも見えるけれど、その紺碧の瞳は確かに私だけを映し出していた。


 思わず泣きそうになるも、ここはぐっとこらえた。


 お義兄様が私を迎えに来ただけなのか、それともこの取引を囮にしてこの組織ごと壊滅させようとしているのか、狙いは分からない。だが、いずれにせよ、ここでは彼の義妹であることがバレない方がいいだろう。


「どうです? ちょっと気は強そうですが、またとない美しい目ですよ」


 男がお義兄様に私を売り込む間も、唇を噛みしめて屈辱に耐える風を装った。お義兄様が目の前にいる、それだけで随分と心に余裕が出来たようだ。


 お義兄様も冷静な面持ちを崩すことなく、私を吟味するような目で見た後、簡潔に答えた。


「買った」


「流石は旦那、お目が高い」


 お義兄様はお金が入っているらしい袋をいくつか取り出すと、乱雑にそれをテーブルの上に置いた。もしもあれが全て金貨だとしたらとんでもない額だ。立派な屋敷が一軒建ってしまう。


 お義兄様と男は手短に契約のようなものを交わし、やがてお義兄様はソファーから立ち上がる。その拍子に再び二人の目が合った。そこで、私は思わず息を呑むことになる。


「っ……」


 紺碧の瞳には、ぞっとするほど深い翳りが差していたのだ。ただならぬ雰囲気に、ぞわりと背筋が粟立つ。


「もっとましな服に着替えさせましょうかい? サービスしますよ」


「いや、このままで結構だ」


 男の下卑た声を一蹴して、お義兄様は私の左手首を掴んだ。右手じゃない辺り、こんな状況でもお義兄様はお優しいのだと実感する。


 だが、このまま大人しく連れられて行っては男が不審に思うかもしれない。私は全力でお義兄様の手を振りほどこうと腕を揺らした。


「っ……離して、離しなさいよ!」


 とんだ茶番だが、最後まで気を抜かない方がいい。私が全力を出したところでお義兄様の手から逃れられるわけもなく、傍から見る分には無駄な抵抗もいいところだろが、一種のパフォーマンスにはなっているはずだ。


 お義兄様は翳り切った目で私を見下ろすと、信じられないほど冷たい声で淡々と言い放った。


「黙れ。買われた身で喚くな」


 あまりに冷たいその声に、私はおろか傍から見ているだけの男までもが緊張を覚えているようだった。


 お義兄様の本領発揮、と言いたいところだが、これは恐らく本気で私に怒っているのだろう。


 なんだかんだで私とは良好な関係を築いているお義兄様だから、どれだけ怒ったところで私に乱暴な真似はしないだろうが、この調子で叱られては心が持たないかもしれない。


 改めて、あっさりと攫われてしまった自分の浅はかさを呪う。だが、お義兄様やみんなにどれだけの心配をかけたかを考えれば、これは甘んじて受けなければならないお叱りなのだと分かっていた。


 お義兄様の手に引かれるまま、私はよろよろと歩き出した。背後で「またどうぞ」と男が上機嫌な挨拶を投げかけていたが、お義兄様がそれに応えることはない。


 そのまま黙々と冷えた廊下を歩き続ける。小さな砂粒が冷え切った素足には痛かったが、馬車に乗り込むまでは我慢しなければならないだろう。


 私が捕らえられていた場所は、一見すると貴族の屋敷のような、立派な建物だった。辺りは木々で覆われていて、森の中にあると表現してもいいかもしれない。


 お義兄様は、立派だが公爵家のものとは悟らせないような馬車でここまで来ていたようだった。控えていたらしい御者が私の姿を見て悲痛そうに表情を歪めたが、念入りに打合せされているのか、私に「お嬢様!」と呼びかけることはしない。


 御者の手で馬車の扉が開けられると、お義兄様の手によって乱雑な仕草で馬車に中に押し込められた。最後まで気を抜かないための演技だとは思うが、思わずびくりと肩を揺らしてしまう。


 続いてお義兄様も乗り込み、扉が閉められると、彼は外の光を遮断するように後ろ手にカーテンを閉め、私を見下ろした。


「お義兄、様……」


 ようやく二人きりになったと思うと、安堵からか、今まで堪えていた涙がじわりと滲み出してきた。お義兄様は相変わらず感情を感じさせない顔で私を見下ろしている。


 馬車はまだ動き出さないようだった。何とも言えない気まずい沈黙が馬車の中を支配する。


 謝ろうにも、張り詰めたこの空気の中では上手く声が出ない。そうしている間にも涙がぼろぼろと零れ出して、余計に言葉を奪っていった。


 やがてお義兄様は私の左手首を掴んだかと思うと、どこか乱雑な仕草で馬車の座席に私を押し倒した。ソファーと言っても遜色ないほどの柔らかい座席なので、背中が痛むことはないのだが、突然のお義兄様の行動に思わず目を瞠ってしまう。


 お義兄様は座席に腰かけると、上半身だけ私に覆いかぶさるような形で距離を詰めた。先ほどから続く息もできないような緊張感と言い、お義兄様のこの行動と言い、どうしていいか分からなくなってしまう。


 お義兄様はそんな私の戸惑いなど少しも気にしないとでもいう風に、手の甲で私の頬を撫でた。仕草は優しいが、紺碧の瞳の翳りは少しも薄まっていない。


「お義兄様……?」


「買ったんだから、もう好きにしていいか?」


「え……?」


 笑うように告げられたお義兄様の言葉の意味をすぐには理解出来なかった。思わず目を瞠るようにして彼を見上げていると、仕草だけは優しい手がそっと私の藍色の髪を梳く。

 

「どうすればじっとしていてくれる? どうしてどこかへ行こうとするんだ? 俺がずっと見張っていないと駄目か?」


 紺碧の瞳に差した翳りは深いままだったが、普段は恐ろしいほどに表情の揺らがないその顔に、苛立ちとも悲しみともとれる複雑な感情が浮かんでいた。


 ……ああ、私、お義兄様にこんな表情をさせてしまうほど、大変な心配をかけてしまったのね。


 美しい紺碧の瞳の下に薄く張った隈も、やつれたような表情も、すべて私のせいなのかもしれない。


 掴まれたままの左手首が座席に押さえつけられるが、不思議と少しも怖くなかった。代わりに傷が開いたままの右の手をそっとお義兄様に伸ばし、指先で彼の頬に触れる。


「……ごめん、なさい……お義兄様。迷惑をかけてしまって……ごめんなさい」


 このところ私は彼に心配をかけてばかりだ。手の傷も塞がらない内から、こうしてまたお義兄様に迷惑をかけてしまうなんて。


「絶対に許さない」


 冷え切った言葉とは裏腹に、彼はそっと私の背中と膝裏に腕を差し込み、いとも簡単に抱き上げた。驚く間もなく、そのままお義兄様の膝の上に降ろされる。思わずお義兄様を見上げれば、彼の腕が包み込むように私を引き寄せた。


 次第に背中に回ったお義兄様の腕に、苦しいほど力が込められていくのを感じて、どうしてか一層涙が溢れた。私の温もりを確かめようとするかのように、言葉もなくただただ縋りつくその仕草に、何も言えなくなってしまう。


 私だって、ぎゅっと抱きしめ返したい。だが、腕ごと抱きしめられているせいで、それはどうやったって叶わなかった。どうにももどかしくてならない。


 そのままはらはらと涙を流していると、ふと、お義兄様が私の頭に口付けるようにして顔を寄せていることに気づいて、はっとしてしまった。


「……っお義兄様、その、あまり密着してはいけませんわ。この二日ほど、身を清められておりませんもの」


 思わず身をよじるようにして抵抗するも、お義兄様の腕がそれを許してくれるはずも無かった。却って腕の力が強められたような気もする。


「煩い」


 お義兄様は苛立ったようにそう言うと、私の頭に頬をすり寄せるようにして一層密着度を増した。先ほどまでは罪悪感で一杯だったはずなのに、今は羞恥と戸惑いでどうにかなってしまいそうだ。


「駄目です……お義兄様まで汚れてしまいます」


「……次に逃げ出したら絶対に許さないと言ったはずだ。意見できる身の上にあると思うなよ」


 ひどい言いようだが、不思議と怒りを覚えないのは、言葉とは裏腹に私に縋るような素振りを見せるお義兄様の仕草を、愛おしいと思ってしまっているからなのだろうか。


 彼が安心するのならば、しばらくはこのままでもいいと思ってしまうあたり、私も大分彼に毒されている。いつから私たちの関係はこんなにも変化を遂げてしまったのだろう。


 ぼんやりとそんなことを思いながら、そっとお義兄様の胸に頭を預けた。私のこの行動は予想外だったのか、お義兄様が僅かに戸惑ったように体を揺らしたが、すぐに受け入れたようで、藍色の髪をゆっくりと梳き出した。


 落ち着かない姿勢のはずなのに、お義兄様の鼓動の音を聞いているうちに不思議と心が安らいでいく。しばらくして私はようやくまともに口を開くことが出来た。


「……お義兄様、助けに来てくださってありがとうございます。捕まっている間は怖かったけれど……それでも私、心のどこかでお義兄様が来てくださること、信じていたんだと思います。だから、この二日間、平気でいられました」


 一番言いたかった言葉をようやく言えた。心からの安心感に頬を緩ませれば、お義兄様の指先が私の目元に溜まっていた涙を拭う。


「……俺を喜ばせようとしているのかもしれないが、許さないものは許さない」


「違います! そんな打算的な意味で言ったわけじゃありません!」


 軽く拗ねたようにお義兄様を見上げれば、彼の紺碧の瞳が僅かに和らいだのが分かった。親しい者でなければ見逃してしまうほどの微かな笑みに、何も言えなくなってしまう。


 ……変だわ、何だか、お義兄様の微笑みを見ると戸惑ってばっかり。


 とくとくと早鐘を打ち始める心臓をもどかしく思いながら、そのまましばらくお義兄様の膝の上でおとなしく撫でられていると、だんだんと抗いがたい睡魔に襲われ始めた。


 このままお義兄様に寄りかかったまま眠ってしまっては、ただでさえ疲れていそうな彼に迷惑をかけてしまいそうだが、触れた部分から伝わる温もりが何とも心地よくて離れがたい。


 加えて、ゆっくりと私の頭を撫でるお義兄様の手が余計に安心感をもたらして、いよいよ瞼が重くなってきた。


「……おやすみ、エル」


 夢か現か、お義兄様の声とは思えないほどの優しく甘い声が耳元に囁かれる。私も「おやすみなさい」と返したかったけれど、それは叶うことも無いままに、私はお義兄様の温もりに包まれたまま夢に誘われてしまったのだった。

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