第11話

 それから、小一時間後のこと。


 お義兄様の腕の中で眠ってしまった私だったが、流石に公爵家の屋敷についた時には目が覚めてしまった。


 私を横抱きにしたまま屋敷の門をくぐったお義兄様に、使用人たちは一瞬騒めいたが、今はなんだかんだで落ち着きを取り戻しつつある。


 私は、と言えば、右の手のひらの傷口を軽く洗い、小さなテーブルを挟んでレインと向き合っているところだった。


 彼女はお義兄様に抱きかかえられて帰ってきた私を見るなり、「お嬢様に何かあったら私も死にます!!」と重いにも程がある言葉と共に、声を上げて私に泣きついてきた。そのせいか、今も目が赤い。


「これが、魔術師様の秘薬ですか……」


 泣き腫らした目のまま、レインは紫色の液体に満ちた小瓶をまじまじと見つめている。ルーファス様から頂いた薬だが、これで治療を受けているカトレアがかなりの激痛に耐えていたことを思い出して、今更になって怯んでしまう。


 それに、一刻も早く治療をした方がいいとのことで、私はまだぼろぼろのドレス姿のままだなのだ。膝にはお義兄様の上着がかけられているが、心許ない格好であることには変わりない。


 今更になって、膝下とはいえ足をお義兄様に見られたことが恥ずかしくてたまらなくなって、先ほどからずっと、今すぐにでもベッドに潜り込みたい衝動に駆られていた。

 

「ね、ねえ、レイン、傷口は洗ったことだし、後は包帯でも巻いておけばいいんじゃないかしら? 血もほとんど出ていないわ」


 甘えるように強請ってみるも、レインはにっこりと笑みを浮かべる。灰色の瞳は全く笑っていない。


「駄目です。早く治すためですから、痛くても我慢してくださいね」


「……お義兄様!」


 軽く振り返って、私の背後で治療の様子を見守るお義兄様に訴えかけるも、心臓が凍り付くような冷えた眼差しで一蹴されるだけだった。


 この眼差しを見れば、返事を聞かなくても分かる。そもそもお義兄様は、夜中に屋敷を抜け出した私に対して相当怒っていらっしゃるようだから、今はどんな我儘を言っても聞き入れてくれないだろう。


 いずれ恋人同士になるだけあってか、この二人、妙なところで息があっていて憎たらしい。思わずぐぬぬ、と呻きたくなる。


「嫌なことはさっさと終わらせましょう! ルーク様、申し訳ありませんが、お嬢様を押さえていてくださいますか? 限りあるお薬ですから、暴れたら一大事ですので」


「暴れないわよ、もう!」


 レインは私のことを崇拝するような素振りを見せる癖に、こういう場面ではまるで珍獣か何かのように扱う。


 思わず抗議の声を上げるも、ふわりとお義兄様の腕に背後から抱きしめられ、何も言えなくなってしまった。


「あ……えっと、お義兄様……」


 まるで恋人にするような甘い抱擁に、かっと頬に熱が帯びる。そういえば、作中では、お義兄様はよくレインを抱きしめていたっけ。


 普段の寡黙な態度に反して、人の温もりを求めるような彼の振舞には、母性のようなものをくすぐられたものだ。


 だが、いざ自分がその対象になると恥ずかしくて仕方がない。ヤンデレ好きだからと言って、ヤンデレに愛されたいわけではないのと同じ原理だ。


「ちょっと失礼しますね……」


 清潔な布の上に置いた私の右手を、レインがまじまじと観察する。灰色の瞳は痛みに共感するかのように揺らいでいた。


「随分深い傷ではありませんか……指を動かせていることに感謝してくださいませ! いいですか? いきますよ? ルーク様も頼みますね!」


「ちょ、ちょっと待って! 思いきりが良すぎるわ、まだ心の準備というものが——」


 傷口に薬瓶が近づけられる光景に、思わず顔を逸らせば、ふと、背後から伸びたお義兄様の手が私の視界を奪った。


 それにより、一層お義兄様との密着度が上がった気がして、視界が暗闇に包まれたことよりも、そちらに驚いてしまって気が気ではなかった。


 今夜は何だか、お義兄様との距離が近い。心臓に悪いことこの上ない。


 痛みへの恐怖とお義兄様と密着する恥ずかしさとで、一気に早まる心臓の音を聞きながら、ぎゅっと左手を握りしめて耐えていると、不意に、お義兄様の顔が耳元に近付く気配があった。


「エル——」


 レインには届かないような囁き声で、お義兄様は私の耳元でその名を呼んだ。


 エル。それは、幼いころに私が呼んでと強請っても叶わなかった、「エレノア」の愛称だ。

  

 それを何の前触れもなく、お義兄様が口にするなんて。


 吐息が耳朶に触れる感触に、思わず身を強張らせる。


 これだけ密着しているのだから、私の動揺にはとっくに気付いているはずなのに、お義兄様はそれにも構わず続けた。同時に、右手の傷口に薬が振りかけられる感触がある。


「――次に逃げ出したら、絶対に許さない」


「っ……」


 激痛と共に囁かれたその言葉は、鮮烈に、私の脳に焼き付いていった。痛みと衝撃で、一瞬、息をすることすらままならなかった。


「忘れるなよ、エル」


 半ば脅迫のような言葉と共に耳に口付けられ、ぞわりと甘い寒気が走った。


 言葉だけを捉えたら、夜間に抜け出したことをただ咎めているようにも思えるが、どうにもそれだけの意味で言っている気がしない。


 逃げ出す、という言葉をわざわざ選んでくるあたり、本当に不穏でならなかった。一体私が何から逃げたように思えたのだろう。


 レインが何かぶつぶつと言いながら、薬をつけた私の右手をぽんぽんと拭いてくれているが、彼女の言葉は今の私に耳にはまるで届いていなかった。


 かつてないほどに脈が早まっている。この鼓動はお義兄様にも伝わっているのかと思うと、ますます動揺が広がるようだ。


「はい! もういいでしょう! 明日の朝、お医者様に診ていただきましょうね!」


 安心したかのようなレインの声に、ようやくお義兄様が私から手を離す。だが、頬に帯びた熱はそう簡単には冷めてくれない。


 お義兄様の方は見られなかった。代わりに、私の手に包帯を巻きつけるレインをそっと見つめる。


「……お嬢様、大丈夫ですか? 疲れてしまいましたか?」


 小首をかしげるレインには、やはりお義兄様の囁きは届いていなかったのだろう。未だに肩が震えるような寒気を覚えながらも、私は軽く視線を伏せ、誤魔化すように微笑むしかなかった。


「そ、うね……少し、疲れたのかも」


「では、早めにお湯を用意いたしますね。私がお手伝いいたします」


 包帯を巻き終えると、レインはお湯の準備をするためか、慌ただしく立ち去ってしまった。私とお義兄様が取り残された空間は、どうにも居心地が悪い。


 恐る恐る私の背後に立つお義兄様のお顔を見上げてみれば、彼は意味ありげな微笑を浮かべて、私を見つめていた。


 その紺碧の瞳に宿る光が、どこか怪しげに揺らめいている。


 この眼差しからは二度と逃れられないのではないか、と錯覚するほどの意味深な瞳を前に、ともすれば息の仕方すら忘れてしまいそうだ。


 何かが、変わる。そんな気配を感じながら、私は早まったままの脈を誤魔化すように、ぎこちない笑みを浮かべるのだった。

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