第10話

「お、義兄様……?」


 段々と明瞭になる視界の中で、お義兄様の表情がかつてないほどの怒りに歪んでいることに気づく。


 義妹がこんな夜更けに屋敷を抜け出して、血だまりの中で倒れ込んでいたら、それは怒りたくもなるだろう。どうにか上手い言い訳が無いものか、と頭を悩ませながら、何とか花畑の中に座り込むような姿勢を取れば、お義兄様がゆっくりとこちらとの間合いを詰めているところだった。


「お前……エレノアに何をした?」


 お義兄様の声は、この場にいる全員の心臓を凍らせるかのような冷たさがあった。彼の紺碧の視線は今、ルーファス様だけに向けられている。


 なぜルーファス様に、と思ったが、今の自分の形を見て納得した。膝まで裂かれたドレス、ほどけた腰のリボン、次いで体中血まみれとなると、誰かに襲われたと考えるのが自然かもしれない。


 お義兄様は、どうやら私のことはそれなりに気にかけてくださっているようだから、そう誤解したのならばお怒りになるのも当然だった。


「……エレノア嬢をこんなことに巻き込んで申し訳ありません、ルーク殿」


 ルーファス様もルーファス様で、意味深な物言いはやめてほしい。お義兄様の怒りが一層深まった気がする。


「……成程、その命は惜しくないと見える。公爵令嬢に——エレノアに仇なしたんだ、覚悟はいいな?」


「待って! 待ってくださいまし、お義兄様、これには事情が——」


 懐から護身用のナイフを取り出そうとするお義兄様の注意を何とか引こうとするも、もう一人の客人がこちらに詰め寄ってくるのが分かった。院長だ。


「っ……」


 咄嗟に立ち上がり、ルーファス様とカトレアを庇うように彼らの前で手を広げた。院長が、私とある程度の距離を保ったまま立ち止まる。


「ルーファス様、カトレアを連れて早く行ってください!! ここは何とか致しますから!!」


 何とか、でどうにかなるものかは分からない。相手は魔術研究院の長。ルーファス様よりずっと強大な魔力を持っていてもおかしくはない。だが、だからこそ一刻も早くここから立ち去ってほしかった。


 院長は、全てを見透かすような瞳で私たちを見ていた。それはほんのわずかな間だったが、場に漂う緊張感のせいか、何時間もの出来事のように思えて、思わずごくり、と唾を飲む。

 

 やがて、院長はどこか寂しげに笑ったかと思うと、私の背後で座り込むルーファス様とカトレアを見据えて告げた。


「行きなさい」


「え……?」


 これには思わず間抜けな声を上げてしまう。ちらりと振り返ってみれば、ルーファス様とカトレアもまた、呆気にとられたような表情で院長を見つめていた。


「……私もそろそろ隠居したいと思っていたところだ。まがい物の『天使』を逃がしてしまった不手際をきっかけに免職されるのも、悪くない」


「……院長?」


 ふと、昼間の温室で、院長がまるで孫を見つめるような目でルーファス様とカトレアを見守っていたことを思い出す。


 院長にとってはもしかすると、ルーファス様もカトレアも、ただの部下と実験体ではなく、もっと近しく慕わしい存在だったのかもしれない。孫というには少し違うのかもしれないが、深い情があるのだろう。


 現に、彼らを見逃そうとしていることが、何よりの親愛の証のようにも思えた。


「……東の森の奥に、私が所有している小さな家がある。ルーファス、お前の魔術なら、誰の目にも触れないように結界を張ることもできるはずだ」


 院長はどこか、寂しげに笑った。それを受けてルーファス様は一瞬顔を歪めるが、やがて意を決したようにカトレアを抱き上げて立ち上がる。


「……感謝します、院長。本当に……お世話になりました」


「挨拶はいい。朝が来る前に身を隠せ。事態が明るみになったら、私も手が出せないからな」


 ルーファス様は一度だけ頷くと、今度は私に向き直った。


「……エレノア嬢、疑ってすみませんでした。カトレアの友人になってくれて……ありがとう。あなたのことはきっと忘れない」


 それだけ告げて、ルーファス様は器用にカトレアを片腕で抱き上げたかと思うと、空いた手で私の左手を取って手の甲に口付けた。最大限の親愛の証だ。


「……この薬を、受け取ってください。いくらか治りが早くなるはずです」


 口付けと同時に左手に握らされたのは、小さな小瓶だった。先ほどカトレアの治療に使ったものと似たような薬なのだろう。


「ありがとうございます。大事に使いますね」


「エレノア様!」


 今度はカトレアが軽く身を乗り出し、それをルーファス様が慌てて抱き留める。ルーファス様に抱き上げられたままのカトレアは、潤んだ瞳で私を見下ろした。


「エレノア様……ごめんなさい。手、カトレアのせいで……」


「気にしないで。私が好きでやったことだもの」


 カトレアの亜麻色の瞳を見上げ、宥めるように微笑みかければ、ふと彼女の細い腕が私の首に回った。


「……お友だちになってくれて、ありがとうございました、エレノア様」


 それだけ告げて、カトレアはわたしの頬にキスをした。別れのあいさつのつもりなのだろう。天使からの口付けなんて、まるで祝福を与えられているみたいだ。


 お返しに、私もカトレアの頬にそっと口付ける。普段ここまでの挨拶をすることは滅多にないので気恥ずかしいが、お別れの挨拶にはちょうど良いだろう。


「さあ、もう行って、二人とも。……どうか、幸せにね」


 私が見届けることはできないけれど、ハッピーエンドのその先を、二人で繋いでいってほしい。その願いを込めて微笑みかければ、彼らもまた僅かに頬を緩ませて私たちに背を向けた。


 駆け出したかと思えば、すぐに姿が見えなくなる。どうやら地下道へと入ったようだった。


 ……これで、一件落着かしら。


 安心感と達成感から、ふう、と一息をついた時、ふと、射殺さんばかりの鋭い視線がこちらに投げつけられていることに気が付いた。


「……っ」

 

 恐る恐る視線の主を見上げてみれば、怒りに滲んだ紺碧の瞳にあっという間に捉えられ、思わず息を呑む。


 お義兄様の紺碧の瞳は、いつになく暗かった。怒りとも憎悪とも思える感情が恐ろしくて、目を逸らしたいのに、それを許されないような緊張感が漂っている。


「あの……お義兄様、ごめんなさい……」


 叱られた子供のように弱々しい声で謝罪をするも、お義兄様の視線が和らぐことはなかった。むしろ一層険しくなった気がする。


「許さない」


 冷え切った声でそれだけ告げられるのは、非常に心臓に悪い。ただでさえ冷たい雰囲気のお義兄様がお怒りになると、怖くて怖くて泣いてしまいそうだった。


 カトレアたちを逃がすことが出来た安心感や、右の手のひらの痛みも相まって、じわりと涙が滲む。16歳にもなって、こんなことで泣くのは情けない。思わずぎゅっと目をつぶって涙を堪えた。


 だが、ふと肩に温もりを帯びた重みが加わったことを感じ、目を開けてみると、お義兄様の上着がかけられているところだった。


 続けて体を包み込むように上着を巻き付けられたかと思うと、何の前触れもなく、お義兄様の腕に抱き上げられる。


「っ……お義兄様!?」


 抵抗しようにも、巻き付けられた上着の中に腕も収められてしまっているので、どうにもできない。ふわりと漂った優しいお義兄様の香りに包まれれば自然と心が安らぐが、これはこれで心臓に悪い。


 お義兄様は何も言わなかった。私を抱き上げた姿勢のまま、院長を一瞥する。


「……後のことはお任せを。あなた方は、何も見ていないということにしてくださるか」


 弱々しく微笑む院長をお義兄様はしばらく見つめていたが、やがてぽつりと返事をする。


「……承知した」


「感謝いたしますぞ、ルーク殿」


 院長が深々と腰を折ったのと、お義兄様が歩き出したのはほとんど同時だった。私はなす術もなく、お義兄様の腕の中で揺られることしか出来ない。


 おとなしくお義兄様の胸に頭を預ければ、とくとくと優しい心臓の音がした。それがどうにも心地よくて、睡魔が襲ってくる。


 お義兄様は何も言わず、ただ前を向いていた。やっぱりまだお怒りになっているようだ。


「……お義兄、様、ごめんなさい……」


 微睡む意識の中でもう一度だけ謝罪をすれば、お義兄様の瞳が僅かに私に向けられる。


 いつもと違い、感情を思わせない瞳ではないのだが、何を想っているのかはよく読み取れない眼差しだった。呆れているような、憂いでるような、複雑な色を帯びている。


 それ以上考えようにも、睡魔には勝てなかった。徐々に重たくなる瞼に抗うことも無く、静かに夢の中に沈んでいく。


 その拍子に、額に何か温かく柔らかいものが触れたような気がしたが、それが何だったのかを確かめることも無く、私はお義兄様の腕の中で眠りに落ちたのだった。

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