第9話

「カトレア!!」


 深い緑の外套を翻して、ルーファス様は私たちの傍へ駆け寄ってきた。普段あれだけ穏やかな彼が、肩で息をしながら真っ青な顔でこちらを見つめている。


「ルーファス、様……」


 カトレアは、ルーファス様を見据え、どこか驚いたように彼の名を呟いた。


 ルーファス様は私とカトレアを見比べ、状況を把握しようと努めているようだったが、やがて底冷えするような深い青の眼差しで私を睨みつけた。


「……エレノア嬢、これは、一体どういうことですか?」


「っ……」


 殺意さえも伺わせるようなただならぬ気迫に、思わず言葉に詰まってしまう。


 私は今、出血するカトレアの翼の付け根を押さえている。圧迫が効いたのか、先ほどよりもいくらか出血量は少ないが、それでも私たちの周りにはおびただしい量の血が舞っているのだ。


 二割くらいは私の血のような気もするが、ルーファス様がそのあたりの事情を知るはずもない。誤解を招くには充分な状況だった。


「カトレアに、何をしているのかと聞いているのです」


 ルーファス様はゆっくりと私たちとの間合いを詰める。深い青の瞳には、昼間私に寄せられていた穏やかな視線の名残などどこにも無い。憎悪で翳った彼の表情を前に、身の危険を感じるには充分だった。


 画面越しであれば、彼の重く歪んだ愛に今頃歓喜しているところだが、いざ生身の自分の命が危ないとなるとそうもいかない。


 作中では、何のためらいもなくエレノアを殺す彼だ。今も、言葉を間違えれば一瞬で私の首が飛ぶだろう。その緊張感に、どくどくと脈が早まるのを感じる。


 だが、張り詰めるような空気の中、口を開いたのはカトレアだった。


「ルーファス様、違います!! エレノア様はカトレアを助けてくださったのです!! 自分で自分の命を絶とうと……愚かな行いをしたカトレアを……エレノア様は、ご自分の手が傷つくのも厭わずに止めてくださったんです」


 カトレアははらはらと涙を流したかと思うと、はっとしたように私を見上げた。


「っエレノア様、右手は大丈夫ですか!? カトレアの傷より、エレノア様の手を——」


「――どう考えたって、あなたの方が重傷でしょう?」


 思わずカトレアの言葉を遮って、私はルーファス様に助けを求めた。


「ルーファス様、今の話を信じてくれなくてもいいけれど、とにかくカトレアの応急手当を手伝ってください。なかなか血が止まらないのです」


 出血量は減ってきているとはいえ、傷はまだ生々しく開いたままだ。きっとひどい痛みを伴っているだろう。


 ルーファス様は警戒するような表情を崩さなかったが、私の傍に近寄り、カトレアの傷の具合を確認した。彼の整った顔が苦痛に歪められ、息を呑むのが分かる。


「……何とかなりそうですか?」


「……恐らくは」


 ルーファス様は深緑の外套の内側から紫色の小瓶を取り出すと、背後からカトレアの顔を覗き込んで弱々しい笑みを浮かべた。


「カトレア、少し痛むけど、我慢してくれるかい?」


 カトレアはぽろぽろと涙を流したまま、何度も頷いた。ルーファス様の視線が私に移る。


「今からこの薬品で出血を止めます。かなりの激痛を伴うので……エレノア嬢、カトレアを押さえていてくれますか」


「分かりましたわ」


 私はカトレアの前に回り込むと、彼女を抱きしめるようにして押さえつけた。泣き疲れたのか、傷が痛むのか分からないが、カトレアの息はどこか苦しそうだ。


「カトレア、ごめん。少しだけ頑張ってくれ」


 それだけ言うと、ルーファス様は小瓶の中身をカトレアの傷口にばしゃばしゃと振りかけた。


 ルーファス様の忠告通り、かなりの痛みを伴うのだろう。カトレアは私の腕の中で小刻みに震えていた。大きく動くようなことはなかったが、少しでも痛みが和らげば、とぎゅっと彼女を抱きしめる。


「……終わりました。もう離していただいて結構ですよ」


 というよりも、離れろと言わんばかりの視線を投げかけてくるルーファス様の言葉に従うように、私はそっとカトレアから体を離した。


「よく頑張ったわね、カトレア」


 彼女を安心させるように微笑みかければ、カトレアの血まみれの手が私のドレスをぎゅっと握った。未だ僅かに震える彼女の痛みを分かち合うように、私もそっとカトレアの薄い体を抱きしめる。


「これでカトレアはもう大丈夫なのですか?」


 しゃがみ込んだ姿勢のまま、ルーファス様を見上げて問いかければ、彼は小さく首を横に振った。


「血は止まりましたが、傷は塞がっていないのです。命の危険はほぼないと言ってもいいでしょうが、問題ないとまではいえません。……かつての魔術師ならばこのくらいの傷、いとも簡単に治せたのでしょうが」


 魔術師たちの魔力は、時代とともに徐々に弱まっていると聞く。ルーファス様もまた、例外ではないのだろう。


「傷口は縫うしかないでしょう」


「そうですか……」


 それならば、と私は腰に巻いていた深紅のリボンを解く。リボンは大ぶりの布で出来ているため、こうして解くとそれなりの長さだ。


「では、縫うまではこのリボンで翼を固定しておきましょう」


 カトレアの傷口は翼の付け根だ。翼の自重で傷口が裂けないとも限らない。


「手伝って頂けます?」


「もちろん」


 ルーファス様には、カトレアの翼を折り畳み背中にくっつけるようにして支えてもらい、その上から手早くリボンを巻き付け、カトレアの体の前面できゅっと結んだ。まるでたすき掛けのような形になったが、深紅のリボンは何だか可愛らしい。


「ちょっと苦しいかもしれないけれど、我慢して頂戴ね」


 緩く結んで傷口が広がってしまっては意味がない。息が出来る程度の余裕だけ残して、強めに結んでおいた。


「……何があったのか、聞いてもいいかい?」


 ここにきて、ルーファス様もカトレアの前に回り込み、彼女に視線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。最悪の事態を免れたことで彼にも余裕が出来たのだろう。


 カトレアはどこかきまり悪そうに視線を彷徨わせていた。今、彼女に状況を説明させるのは酷だろう。代わりに、私が溜息交じりにルーファス様に語り掛ける。


「カトレアは相当思い詰めていたようですわ。あなたの手を汚すくらいならば、自らこの世を去る、とのことで自死を試みていたところを止めた次第ですの」


 ルーファス様は、まるで怯えるようにカトレアを見つめていた。彼女を失う未来を想像して、恐怖を覚えたのだろう。


「カトレア……本当なのか。君は、僕が受けていた命令を知って……?」


「……ごめんなさい、ルーファス様……」


 カトレアは酷く後悔しているようだった。カトレアが自死を試みたことは、きっとルーファス様からすれば衝撃なんてものじゃ収まらないだろう。


 だが、あまりカトレアが責められる様子を見るのも忍びない。私は再びぽろぽろと泣き出す彼女の肩を抱き、ルーファス様を見つめた。


「……あまり、カトレアを責めないでくださいませ、ルーファス様」


 ルーファス様は泣き出しそうな顔でカトレアを見つめると、私の手からカトレアの体を奪い、そのまま掻き抱いた。傷口に触れないようにそっと腕を回している辺りに、ルーファスの優しさを感じる。これには思わずにやけてしまいそうだ。


 ……やっぱり、「狂愛のスノードロップ」一の純愛カップルなだけあるわ。なんて素敵なの。


「ごめんなさい、ルーファス様、ごめんなさい……っ」


「いいんだ、もう。痛い思いをさせてしまってごめん。それだけ君が思い詰めていたことに気づけなかった僕が悪い」


 カトレアはルーファス様の腕の中で再び涙を流していた。でも今度はきっと、安堵のあまりに流す涙だ。


「……ここから逃げよう、カトレア。二人で、どこか遠くで一緒に暮らそう」


「っ……でも、そんなことをしたらルーファス様が……」


 カトレアの亜麻色の瞳が、戸惑うように揺れる。ルーファス様の交友関係や、魔術師としての未来を奪うことになるのではないかと憂いでいるのだろう。


「僕が欲しいのはカトレアだけだ。他には何も要らないよ」


 囁くような愛の言葉に、私が言われているわけでもないのにうっとりとしてしまう。


 なんて、尊いのだろう。血だまりの中でこんな甘い言葉を何気なく言えてしまうルーファス様は、やはりヤンデレの天賦の才がある。


 ……このまま天に召されても文句はないわ。


 尊さのあまり死ぬのは誇張表現もいいところだと思っていたが、これは死ねる。現に、視界が少しくらくらとしてきた気がする。


「……エレノア様?」


 カトレアが訝し気に私の名を呼ぶのと同時に、ぐらり、と視界が歪んだ。なす術もなく、私の体は花畑の中に倒れ込んでしまう。


「エレノア嬢!?」


「ん……」


 意識を失っていたのは一瞬だと分かるが、まだ視界がぼんやりとしていた。それほど出血したつもりはなかったが、手のひらの傷が今更になって堪えたのかもしれない。おぼろげな意識の中でも、右手の痛みだけがやけにはっきりとしていた。


「エレノア嬢、この手は……?」


「エレノア様は、カトレアが翼を落とそうとしているところを止めてくださったんです。素手で、短剣を掴んで……」


「酷い傷だ、これはすぐに手当てを——」


 ルーファス様の狼狽えるような声が降ってきたその瞬間、不意に、私たちの傍に駆け寄る誰かの足音が響く。


 まずい。まだルーファス様とカトレアが逃げていないのに……。


「っ……」


 無理やりにでも体を起こして、私が時間を稼がなければ。その想いから、私は左手で無理やり半分だけ体を起こし、駆け寄ってきた真夜中の客人たちを睨んだ。


 だが、その予想外の顔ぶれに、一瞬息が止まる。


 私たちの傍にやって来たのは、深緑の外套に身を包んだ院長と——。


「……エレノア?」


 どこか茫然とした面持ちで私の名を呼ぶ、お義兄様だった。

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