第8話

「周りに見張りはいないわね……っと」  


 夜、今日も今日とてお義兄様と二人きりの晩餐を終えた後、私は湯浴みをするとだけ告げて、お義兄様と別れた。


 その隙に、使われていない客間に忍び込むと、迷うことなくバルコニーへ向かった。


 一階にも客間があってよかった。おかげですんなりと脱出することが出来る。


 お父様やお義兄様に頼み込んだところで、まずこんな夜更けに外に出ることを許してくださるはずもない。レインだって見逃してはくれないだろう。初めから彼らを説得することは諦めていた。


 となれば、私に残された手段は黙って出ていくことだけだった。


 一応、私室のテーブルの上には置手紙を残してある。上手くいけば真夜中には帰る、というような内容の手紙だ。


 ……帰ったら、お父様に泣きつかれてもおかしくはないわね。


 悪いことをしている自覚はあったが、一人の少女の命には代えられない。一刻も早く、彼女の元へ駆けつけなければ。


 誰も見ていないことを確認してドレスをたくし上げ、手すりから身を乗り出す。よじ登る姿は大層不格好だろうが、そんなことに気を遣っている余裕はなかった。


 そのまま何とか庭に降り立つと、軽くドレスの裾を直し、何気なく星空を見上げた。 


 夜はすっかり更け、夜空には糸のように細い三日月が浮かんでいる。瞬く銀の星の輝きをほんの僅かな間視界に収めた後、私は意を決して、無我夢中で駆けだした。


 私の記憶が正しければ、恐らく今夜が、ルーファス様とカトレアにとっての運命の日だ。月が高く上るころ、誰もが寝静まった真夜中に、カトレアは人気のない温室の花畑の中で自らの翼を削ぎ落す。


 画面越しに見た、血にまみれた花の中で横たわるカトレアの姿は、今も鮮明に覚えている。


 その後に駆け付けた、ルーファス様の絶望の表情も。


 鮮やかに蘇るその光景を脳裏から追い出すように、私は必死で走った。魔術研究院から公爵家まではそう遠くない。貴族は馬車で移動する距離だが、歩いたところで30分程度と言ったところだろうか。


 とはいえ、滅多に体力を使わない令嬢生活を送って来たので、普段の私ならばこの距離でも充分音を上げていたかもしれない。だが、消えかけている命を前にしてああだこうだ言っていられなかった。


 早く、早くしなければ、あの可憐な少女は自ら命を絶ってしまう。


 その焦りと、カトレアを引き留められるのは自分だけだという使命感だけが、私の足をひたすらに動かしていた。




「はあ、は……っ」


 重たいドレスを纏ったまま、だいたい20分ほど走ったころだろうか。踵の高い靴は途中で脱ぎ捨てて、今は薄い絹の靴下のまま、地面に立っている。


 私は肩で息をしながら、すっかり見慣れた魔術研究院の巨大な温室を見上げた。


 幸いにも見張りの姿はない。公爵家の屋敷と魔術研究院のある特別区の出入り口には人がいるのだろうが、この辺りは警備が手薄なようだった。


 夜も遅いせいか、魔術研究院は怖いくらいの静けさを保っている。月影に照らされた温室は、昼間訪れた時とは打って変わって、不気味なほどに神秘的な雰囲気で、僅かに寒気を覚えた。


 ……この中に、カトレアがいるのかしら。


 まだ乱れたままの呼吸を無理やり潜めて、そっと温室の扉に手をかけてみる。押してみれば、抵抗なくすんなりと開いた。まるで導かれているみたいだ。


 静かに温室の扉を閉め、足音を立てないよう細心の注意を払って、温室の中心に広がる花畑を目指す。肌に纏わりつくような、温室独特の生温い空気を吸い込めば、肺腑の奥にまで甘ったるいカトレアの香りが染みつくような気がした。


 ガラス越しに差し込む月影は、悲しいほどの美しさだった。どこか幻想的な雰囲気を漂わせているという点は昼間と共通しているのかもしれないが、どこまでも重苦しい印象だ。正に、バッドエンドの舞台には相応しいのかもしれない。


 ……カトレア、どこにいるの。


 ついに花畑に足を踏み込み、辺りを見渡す。風もないのに、ざわざわと花々が揺れている気がした。


「っ……」

 

 ふわり、と漂ってきた血の臭いに、思わず顔をしかめる。


 目的の少女は、花畑の中で蹲っていた。


 その華奢な手には銀色の短剣が握られており、彼女の右の翼が真っ赤に染まっている。彼女が自ら翼を傷つけていることは明白だった。


 その光景に、私はたっぷり数秒間、身動きを取ることが出来なかった。


 血の気が引いていく、なんてものじゃない。天使が自らの翼を削ぎ落す残酷さと悲惨さを、私は甘く見ていたようだ。あまりに衝撃的な現実に、一瞬視界が暗くなる。


「っ……ぐっ……」


 泣いているのか、痛みを堪えているのか分からないが、ひどく苦し気な呻き声が聞こえてきて、はっと我に返った。


 カトレアの右手に握られた短剣が再び、彼女の右の翼を削ぎ落そうとしている。


「っ……駄目!!」


 気づけば私は走り出していた。ばっとこちらを振り返ったカトレアは、驚いたような表情で亜麻色の瞳を見開いている。


 私はカトレアの驚きに構うことも無く、無我夢中で、彼女が手にした短剣に手を伸ばした。


「っ……」


 殆ど勢いのまま短剣の刃部分につかみかかる。ぶつりと鋭く手のひらが切れる感触と共に、熱さにも似た激痛が走った。間もなくして、刃を伝うようにぼたぼたと赤い血が零れ出す。


「っエレノア様!?」


 カトレアは、青ざめた表情で私を見上げていた。短剣を持つ手が震えている。


「っ……エレノア様!! 駄目です!! 早く離してください!!!」


 わなわなと震えるカトレアは、軽く混乱状態にあるようで、短剣を離そうとしない。


「あなたが離せばいいでしょう!? 一体、何をやっているのよ!!」


 彼女が本当に自死を試みていたという事実と、右の手のひらに伝わる痛みから、思ったよりも叱責するようなきつい口調になってしまった。


 そうこうしている間にも、短剣から滴った血が私たちの間にぽたぽたと小さな血だまりを作っていく。気づけば全身にうっすらと汗が浮かんでいた。


 そのまま睨みつけるようにカトレアを見下ろしていると、彼女はすぐに短剣を離した。可哀想なくらいにがくがくと体を震わせている。


 それを見た私は、短剣を自分の足元に落とした。刃が手のひらを離れる瞬間にも激痛が走ったが、ひとまずはカトレアが最悪の事態を免れた安心感の方が大きい。


 ……良かった、カトレアはまだ大丈夫そうね。


 右の翼は痛々しい赤で染め上がっているが、画面越しに見たような血の気の悪さはまだない。彼女の周りに散った赤色の量からしても、手遅れになるような段階ではなさそうだ。


 とはいえ、カトレアの翼の付け根からは、今もどくどくと血が溢れ出している。圧迫止血でどの程度効果があるか分からないが、少しでも出血を押さえなければ。


「あ……あ……エレノア様……」


 今にも泣きだしそうな亜麻色の目でこちらを見上げてくるカトレアを横目に、私は足元に落ちた短剣を左手で持ち直した。今度はちゃんと柄の部分を握って。


 利き手ではないので多少心許ないが、そのまま私は身にまとっていたドレスを膝のあたりまで引き裂いた。あまり清潔とは言えないが、走って汚れてしまった裾の部分をさらに破り捨て、止血用の布を準備する。


 残った部分の布をいくつかに裂き、そのうちの一つを丸めて、彼女の翼の付け根に押し当てた。


 カトレアは僅かに痛みに肩を震わせたが、やがて、泣き出すような弱々しい声で懇願を始めた。

 

「っ……エレノア様、ごめんなさい。でも、でも……どうか見逃してくださいませんか。カトレアは、生きていちゃいけないんです。このままじゃ、優しいあの人に……ルーファス様に、カトレアを殺させなきゃいけなくなるんです」


 カトレアは抵抗するような素振りは見せなかったが、背中を震わせて泣いていた。じわり、と初めに押し当てた布切れに温かい血が滲む。


「……王家やら神殿やらが、あなたの存在を疎ましく思っているのは分かっているわよ。でも、自ら命を絶つのはいくら何でも早まりすぎだわ」


 先ほどいくつかに裂いた布切れを手繰り寄せ、血で染まった初めの布切れと入れ替える。私も出血しているのでとても清潔とは言えない処置だが、放っておくよりはマシだろう。

 

 それに、カトレアの応急手当てをしているほうが、脈打つたびに鈍い痛みを訴える手のひらを意識せずにいられるような気がした。


「でも……でも、ルーファス様に、カトレアを殺させるのは嫌なんです。どうしても……どうしても……」


 カトレアは背中を丸め、ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、悲痛な叫びを上げた。


「どうしてカトレアは、普通の人間としてルーファス様のお傍にいられなかったのでしょう。この翼さえなければ、カトレアは、いつまでもルーファス様と笑い合っていられたのに……っ」


 カトレアは自らの腕に爪が食い込むような力で、自分の体を抱きしめていた。それほどに、己の背中に生えた翼が憎いのだろう。まがい物とはいえ「天使」と呼ばれる身の上が疎ましくてならないのだろう。


「ルーファス様は、カトレアに沢山のものをくださいました。この名前も、楽しいと思う気持ちも優しさも……誰かを大切に思うことの尊さを、教えてくださったのはルーファス様です」


 カトレアが腕に爪を食い込ませているせいで、彼女の腕に赤く刻まれた「7番」という刻印に赤い線が走る。あまりに痛々しい姿だ。


「カトレアは……あの方に何もお返しできない。できなかったんです……。それならばせめて、あの方の優しい手がまがい物の『天使』の血で汚れないように、カトレアはカトレアの手で、この身を終わらせたいのです」


 その瞬間、カトレアは勢いよく振り返ると、潤んだ亜麻色の瞳で私を射抜いた。昼間に見せていた無邪気な表情からは考えられないほど、強い意思の宿った美しい瞳だった。


「だから、エレノア様、お願いです。このまま立ち去ってくださいませんか? これがカトレアの、最後の願いです」


 カトレアは真剣だった。もうとっくに、自らの命を絶つと心に決めていたのだろう。今もぼたぼたと血を零す右の翼は、信じられないくらい痛むだろうに、少しも怯えていなかった。まさに痛々しいくらいの覚悟だ。

 

 綺麗だ。ルーファス様を想う彼女は確かに高潔で、美しい。


 ――ああ、でも、違うのよ。


 気づけば私はうっすらを笑みを浮かべ、カトレアを見下ろしていた。


「……あなたにそんな悲しい覚悟を決めさせるために、私はここに来たわけじゃないわ」


 愛する人の手を汚したくない、せめて一人でひっそりと消えたいと願うその自己犠牲の精神は美しいのかもしれないが、その先に待つ結末がいかに悲惨であるか知っているだけに、見逃せるようなものではなかった。


 ぼたぼたと血の流れる手で彼女の肩を掴み、彼女と無理やり視線を合わせる。


「あなたが死んだ後の、ルーファス様の絶望を考えたことはある? 彼の心の中に住んでいるのは、あなただけなのよ、カトレア。あなたがあなたを殺すということは、ルーファス様の心も道連れにするということなの」


「ルーファス様の、心……?」


 まさかカトレアは、自分がそれほどに愛されているという自覚がないだろうか。ヒロイン独特のその鈍感さは、普段であれば可愛らしいものだが、この瞬間ばかりは憎らしく思ってしまった。


「あなたが死んだら、ルーファス様の心も死ぬわ」


 断言するような私の声に、カトレアははっとしたように亜麻色の目を丸くした。どうやら私の言葉が彼女に届いてくれたらしい。


 その事実に安堵を覚えながら、彼女と視線を合わせるように花畑の中にしゃがみ込む。


「……だから、早まらないで。自分で自分を終わらせようとするなんて悲しいことはやめてよね」


「っ……でも、でも、そうしたら、カトレアはどうすれば……」


 カトレアは狼狽えるように視線を彷徨わせていた。私は軽く微笑みながら新たな布切れを手に取って、彼女の翼の付け根に押し当てる。


「ふふ、少しはあなたの大好きな魔術師様を頼ってみたらどう?」


「ルーファス様を、頼る?」


 きょとんとした声を上げるカトレアはやっぱり可愛い。私の言葉にきちんと耳を傾けてくれる彼女の素直さを好ましく思いながら、笑いかけるように口を開く。


「そうよ。あの方は、あなたのためならきっと何でもするわ」


 作中では、何のためらいもなくエレノアを殺したくらいなのだ。その言葉に嘘はない。


「でも、どうやって——」


「――カトレア!!」


 カトレアが口に仕掛けた問いの答えは、切羽詰まった声で彼女の名を呼ぶ青年が運んできてくれた。

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