第7話
目当ての人物を見つけるまでに、そう時間はかからなかった。
ルシア様と話した廊下の曲がり角を抜け、しばらく進めば、王城の庭が望めるバルコニーに、深い蒼の礼服を纏った王太子殿下が佇んでいらっしゃった。
月影の中、軽く伏せられた殿下の新緑の瞳は仄暗い。光なんて少しも届いていないのではないかと思わせるほど、陰鬱な表情をしていた。
王太子殿下の手には、なぜか一輪のスノードロップが握られていた。この国の国花であるのだから、それを王太子殿下が手にしていることは特別おかしくも無いのだが、バッドエンドの象徴の花であるだけに、不吉で仕方がない。
それに、何かを思い詰めたような横顔はやっぱり不穏で、このままではいけないと益々自分を奮い立たせる。
そもそも作中のあのバッドエンド自体、殿下もルシア様もお互いに想い合っているにもかかわらず、ちょっとしたすれ違いから取り返しのつかないことになってしまった、悲劇としか言いようのない結末なのだ。
寄り添って笑い合って生きていける道もあるのに、それをみすみす逃すことはやっぱりしたくない。
悲しいだけのバッドエンドにはさせないと決めたのだ。私は小さく息を整えると、わざと靴音を響かせるように殿下の傍へ歩み寄った。
こちらの気配に気づいたのか、殿下はゆっくりと私の方を振り返る。整った顔立ちに、すぐに儀礼的な笑みを浮かべた。
「……エレノア嬢」
「王太子殿下、ご機嫌麗しゅう存じます。素敵な夜ですね」
にっこりと、甘ったるい笑みを浮かべて僅かに距離を詰める。
殿下はどこか自嘲気味な笑みを浮かべて、私から視線を逸らした。
「僕にとってはそうでもないな。このところ、ルシアが口を利いてくれなくてね。まあ……前からそうだと言えばそうなのかもしれないが」
「ふふ、喧嘩でもなさったのですか?」
何も知らない風を装って、何気なく殿下のお隣を陣取る。婚約者でもない男女の距離にしては近すぎるため、殿下は僅かに眉をひそめたが、友人の義妹だから無下に扱わないことにしたのだろう。すぐに愛想笑いのような笑みを浮かべた。
「ルシアから何か聞いているのか? ……彼女は、君には随分心を許しているようだからな」
その言葉にすら、嫉妬が窺える。殿下がルシア様に向けるその執着の深さを前にして、ヤンデレを求める私の心が密かに満たされ「尊い!」と叫びたくなるが、ここはぐっと我慢だ。
「……なぜそう思われますの? ルシア様は、私の前でも滅多にお話になりませんのに」
「見ていれば分かる。君といるときのルシアはとても楽しそうだ。……僕の前では絶対にあんな表情で笑わない」
声に僅かに翳りが差した気がした。やはり、相当思い詰めているようだ。
私からしてみれば、ルシア様は殿下の前でも十分に楽しそうにしている。殿下と私との前での態度の違いがあるとすれば、それは想い人を前にした気恥ずかしさがあるかどうかという程度だ。
ルシア様は無口な上に初心だから、殿下の前では表情も多少堅くなってしまうのかもしれない。逆を言えばそれくらい殿下のことがお好きな証だと思うのだが、このお二人はどうもすれ違ってばかりだ。
そのすれ違いが殿下の病みと執着を育てていると思えば、ヤンデレ至上主義な私としては大変美味しいわけだが、いざこうして目の前でやられるとどうにももどかしくて仕方がない。
「……どうすれば、ルシアにこの想いが伝わるのだろうな」
悩まし気な殿下の声に、私は意味ありげに笑みを深める。一応、釘を刺しておこう。
「……少なくとも、強硬手段に出たところで、殿下がルシア様のお口から聞きたい言葉は聞けずじまいかと」
そのくらい、聡明な殿下ならばお判りでしょう? と言わんばかりの笑みで殿下を見つめれば、彼はどこか驚いたように新緑の瞳を見開いた。
ルシア様と似た色だけれども、殿下の瞳の方が激しさだとか熱を内包した視線である気がした。
「……エレノア嬢、君はまだ社交界に出たばかりだから分からないかもしれないが……その勘の鋭さは、いつか君を滅ぼすかもしれないぞ」
どこか呆れたような、それでいて私を警戒するような笑い声にも、私は笑みを崩さなかった。
「ふふ、ご忠告痛み入ります、殿下。ですが、私には、自分の身の安全を賭けてでも見たい景色がありますので」
勿体ぶった言い方をしたが、要は幼馴染が幸せそうに笑う姿と、コントロールされたハッピーヤンデレカップルが見たいだけだ。
殿下はしばらく私を見つめた後、再び作り笑いのような微笑を浮かべて私に向き直った。
「……いつまでもルークから離れているのは良くないな。あの男はあれでも心配性だ。今頃、君を捜してあちこち走り回っているかもしれないぞ」
要は遠回しに立ち去れと言っているのだろう。お義兄様が私を捜して走り回るなんてことはまずないだけに、いくらなんでも苦しい建前だ。
殿下からしてみれば、私と二人きりで過ごしているところを見られたくないのかもしれないが、それ以上にきっと、私の言動を不気味に思ったのだろう。
殿下がそうお思いになるのはもっともだが、今は引くわけにいかないのだ。王族の意思に逆らうようで心苦しいが、私は空気の読めない令嬢を装ってにこにこと微笑み続けた。
「どうかもう少しここにいさせてくださいませ。もう少しで……きっと、面白いものが見られると思いますから」
「面白いもの?」
「ええ、もしかすると、殿下の望んでいらっしゃるものかもしれませんわ」
そうしている間に、やけに焦ったような靴音がどこからか響き渡ってきた。ルシア様だろうかと思ったが、どうやら足音は一人分ではないらしい。
ちらり、と足音の方を見やれば、廊下の角から品の良い葡萄色のドレスが覗いた気がした。
他にも誰かいるようだが、ルシア様がこちらに向かっておられることに間違いはないようだ。
それを悟ったとき、私は何の前触れもなく、殿下の腕に自らの体を纏わりつかせた。その拍子に、殿下が手にしていたスノードロップが床に落ちていく。
「っ……エレノア嬢?」
驚いたような殿下を視線で窘めてから、ちらりと横目で近付いてくる人影を確認する。バルコニーから吹き抜けた春の風に、ぱっと白金の髪が舞った。やはり、ルシア様で間違いない。
意を決して、もう一芝居打つ時が来たようだ。私は胸を押し付けるように殿下の腕に一層体を纏わりつかせ、甘ったるい声で記憶の中のエレノア・ロイルの台詞を囁いた。
「ねえ、殿下? 同じ公爵令嬢なら、ルシア様ではなく私でもいいのではなくって? 何もしゃべらない無口なお人形さんより、私の方がずうっと殿下に相応しいと思いませんこと?」
「何を——」
怒りを滲ませた殿下の声は、途中で途切れてしまう。
それもそのはず。殿下はたった今、ルシア様の姿を視界に収めたようで、絶句するように息を呑むのが分かった。
舞台は整った。私は殿下に体を纏わりつかせたまま、意地の悪い笑みを浮かべてゆっくりとルシア様の方へ視線を流す。
そこには、茫然とした表情で立ち尽くすルシア様と——。
「っ……」
――なぜか、お義兄様もいらっしゃった。
お義兄様は、ひどく不快なものを見たとでも言わんばかりにこちらを睨んでいた。身も竦むような鋭い視線に、本能的に身震いしそうになる。
それもそうだろう。義妹が王族にとんでもない無礼を働いている場面を見てしまったのだ。厳格なお兄様が、お怒りにならないはずがない。
……茶番が上手くいったとして、帰ったらお義兄様に殴り殺されそうなお怒りようだわ。
思わず身の毛がよだつのを感じながらも、私は何とか意味ありげな笑みを保ち続けた。
そのままルシア様を煽るように、そっと王太子殿下に顔を寄せる。
「あら? ルシア様、またお会いしましたわね。本当に、良い夜ですこと」
我ながら、よくここまで人の神経を逆なでするような甘ったるい声が出せるものだと思う。
これには流石の殿下も苛立ちを隠すつもりがないようで、殺意にも似た怒気を滲ませながら、射殺さんばかりの視線で私を睨みつけた。
「エレノア・ロイル、いい加減に——」
「――離れてくださいまし!」
突然響いたその美しい声が、ルシア様のものであると理解するのに数秒かかった。この場にいる全員の視線が、月影に照らされた「ハルスウェルの女神」に注がれる。
かかった、と言わんばかりに私は笑みを深めた。いい展開だ。
「どうしてです? ルシア様は殿下のことなんて、どうでもいいのでしょう?」
自分でも驚くほど底意地の悪い声が出た。殿下の腕が僅かに震える。
第三者の言葉とは言え、ルシア様に関心を持たれていないかもしれないという恐怖が彼の身をすくませているのだろう。やっぱり、とんでもない想いの深さだ。
ルシア様は、普段の彼女からは考えられないほど鋭い視線で私を見つめると、鈴の音のような可憐な声で、私の想像を上回る告白をした。
「……っ殿下は、わたくしの、です」
水を打ったような静寂の中、ルシア様は、強い意思の宿った深緑の瞳で殿下を見つめていた。
「わたくしより殿下のことが好きな方なんて、この国にはおりませんもの!」
誰もがたっぷり数秒間、ルシア様の瞳の美しさに見惚れていた。その言葉は本物なのだと信じざるを得ないくらい、絶対的な何かが深緑の瞳には宿っていたのだ。
「だから……エレノアには殿下は差し上げません。離れてくださいまし!」
ルシア様ははあ、はあ、と肩で息をしながら、私を睨んでいた。勢いに任せて言った部分が大きかったのか、熱に浮かされたように僅かに頬が赤い。
……私の想像の遥か上を行く告白だったわね。
作中のルシアは、ここまでのことは言っていなかった気がする。せいぜい、殿下に向かって「あなたをお慕いしております」程度の、何ともルシアらしい控えめな愛の告白だったと思うのだが、まさか、こんな熱が彼女の中に眠っていたなんて。
告白を受けた当の本人はというと、茫然としたまま動かなくなってしまった。
十数年恋焦がれ続けた相手から、あまりにも鮮烈な告白を受けたのだ。無理もない。
私はとっくに腕を離しているのだが、殿下は動く気配を見せないので、それとなくルシア様に目配せをした。
アイコンタクトで会話ができるのは、私とルシア様の親密さの証だ。
ルシア様は私の言わんとしていることを理解したのか、おずおずと殿下の前に歩み寄り、やがてそっと殿下を抱きしめた。思ったよりも積極的だ。
ルシア様に抱きしめられて初めて、殿下は我に返ったようだ。
僅かに震える手でルシア様の髪を撫でながら、恐る恐ると言った様子で口を開く。
「……ルシア、今言ったことは……?」
ルシア様は二度は言わないとの意思表示をするように、ただ殿下の礼服をぎゅっと握りしめていた。可愛いにも程がある仕草だ。
相当照れているようだが、一度思い切った行動をすると積極的になるタイプらしい。見ているこちらが恥ずかしくなるほどの甘さが漂う。
「……ルシアは、僕を好いてくれているのか?」
ルシア様はしばしの沈黙の後にこくりと頷いた。やっぱり言葉はないけれど、あんな熱烈な言葉の後では、流石の殿下にも伝わったらしい。
殿下は思いきりルシア様を抱きしめると、彼女の肩口に顔を埋めるようにして囁いた。
「……嬉しいよ、ルシア。こんなに満ち足りた気持ちは生まれて初めてだ」
そのまま顔を上げたかと思えば、殿下はルシア様と額を合わせて、甘くとろけるような笑みを見せる。
ルシア様の頬が一瞬で真っ赤に染まるには充分な糖度だった。何なら、傍から見ているだけの私まで頬が熱くなってしまう。
「僕も……僕も君を愛しているよ、ルシア。どこにも行かないで、ずっと隣にいてくれ」
熱のこもった言葉とと共に、二人の距離が縮まる。このまま口付けてもおかしくない状況だったが、ルシア様が必死に抵抗したので未遂に終わった。
「……ここでは駄目、です」
消え入りそうなルシア様の声は余計に煽っているようにも思えるが、殿下はぎりぎり我慢なさることにしたようだ。その理性に心の中で拍手喝采を送ってしまう。
それにしても尊いものを見たわ、とにやけそうになる口元を必死に抑えつつ、そっとドレスを摘まんで礼をする。
「……それでは邪魔者は退散いたしますわね。大変失礼をいたしました。御機嫌よう、ルシア様、王太子殿下——」
「――エレノア」
形式的な挨拶をして、二人きりにして差し上げようと思ったのだが、ルシア様が拗ねるような声で私を呼び止めた。
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