第8話

 ルシア様の表情は、怒っているというよりも、まさに拗ねているというのが相応しいものだった。


 彼女は殿下から離れたかと思うと、私の前に歩み寄り、唇を尖らせる。


 私がやればあざといだけの仕草も、ルシア様がやると可愛い以外の何物でもないな、と感心していると、彼女は語気を強めるようにして口を開いた。


「……エレノア、わざとでしょう」


 これには思わず笑みが引き攣る。


 流石は「ハルスウェルの女神」。聡明だと謳われるだけのことはある。私の演じた滑稽な茶番の意図なんて、とっくに見抜いていたのかもしれない。


「何のことでしょう……?」


 とぼけるように小首を傾げれば、珍しくルシア様が溜息をついた。


「もう、こんなことしないで」


 ルシア様らしい可愛らしい独占欲を前に、にやけそうになる口元を押さえきれない。尊い。可愛い。ルシア様も結構殿下のことが好きじゃないか。


 とりあえずここは謝罪をしようかと思った先、ルシア様はそのままふい、と私から視線を逸らして、再び口を開いた。


「……でも、ありがとう」


 消え入りそうな声でそれだけ呟くと、私の表情を窺うようにちらりとこちらを覗き込んできた。


 ……可愛いにも程があるわよ、ルシア様。


 こんな表情でお礼を言われて、にやけない方がおかしい。だらしなく口元を緩ませて、えへへ、と間の抜けた笑い声を上げてしまう。


「……へえ、わざと、か。なかなか策士みたいだな、エレノア嬢。あれが本気だったら危うく王都から追放するところだったぞ」


 王太子殿下は穏やかに微笑んでいらっしゃったが、やっぱり危ない橋を渡っていたのだと思い知るには充分で、さっと背筋に寒気が走った。にこにことした笑みを取り繕いつつも、これにはすぐに腰を折って謝罪をした。


 私にはまだ、あと4組のヤンデレカップルの成立を見届ける義務があるのだ。王都から追放されるわけにはいかない。


「……申し訳ございません、殿下」


 それらしく反省しているような声を出せば、殿下がふっと笑うような気配があった。


「謝る必要はない。……流石はルークの義妹だな」


 朗らかに笑う殿下の声からして、本当に怒っていないようだった。——というより、ルシア様の想いを知った今、私の処遇なんてどうでもいいのだろう。


 ひとまずほっと胸を撫で下ろしながら顔を上げれば、ルシア様が再び拗ねたような表情で私を見ていた。


 まだ何かあるのか、とルシア様の真意を探るように見つめていると、彼女は不貞腐れたようにぽつりと呟く。


「告白」


「え?」


「……約束したはずですわ」


 それだけ言って、ルシア様は半ば責めるように私を見つめてきた。


 そういえば、建国祭のジンクスに便乗して、私も誰かに告白すると約束したのだっけ。


 これには再び血の気が引いた。このところ、ルシア様と殿下のことを考えるのに精一杯で、ルシア様との約束がすっかり頭から抜け落ちていた。


 じとっとした視線で私を見つめるルシア様を前に、ますます笑みが引き攣っていく。私だって、出来ることならば幼馴染との約束は破りたくないが、こればかりは——。


 と、考えたところで、この場にはもう一人役者がいることを思い出した。先ほどから、一歩引いたところで、呆れたように私たちを見守っているお義兄様だ。


 先ほど殿下に体を纏わりつかせていたこともあり、これ以上粗相をしたらいよいよ殺されそうな気もするが、半ば自棄になって私はお義兄様の腕にしがみ付いた。


 お義兄様が、多少驚いたように肩を揺らす。ものすごく嫌がられることは間違いないが、そのままぎゅっとお義兄様の腕を抱きしめた。


「ふふ、ルシア様、私が好きなのは……お義兄様ですわ!」


 唖然として私とお義兄様を見つめるルシア様から、お義兄様に視線を移す。


「お義兄様、エレノアは本当にお義兄様のことが大好きですのよ!」


 紺碧の瞳を見上げるようにして告白すれば、その瞳に宿った神秘的な光がわずかに揺らめいていた。


 お義兄様とこんな風にちゃんと目が合うことは珍しい。それだけお義兄様も、私の突拍子のない行動に驚いている証なのかもしれない。


 この告白だって、嘘は言っていない。攻略対象であるからとかそういう事情を抜きにしても、私はお義兄様が好きだった。


 なんだかんだ言って、お義兄様は今世での私の唯一の家族らしい家族だと言っても過言ではない。16歳になる現在まで、一番私の傍にいてくれたのはお義兄様なのだ。嫌いになる方が難しい。


「……ずるい」


 ルシア様はやっぱり不貞腐れたように私を見ていた。まあ、私としてもこの逃げ方はずるいと思うが、告白は告白だ。ルシア様と殿下のバッドエンドを回避した功績に免じて許してほしい。

 

「ふふふ、でも、これで約束は果たせましたわね? では、邪魔者は退散いたしますわ。今度こそ御機嫌よう、ルシア様、王太子殿下」


 私は手短に別れのあいさつを済ませた。最後にお二人の足元に、忘れ去られたようにスノードロップが落ちているのを見て、安堵に頬を緩ませた。


 きっともう、あの花が王太子殿下からルシア様に贈られることはない。


 安心感に浸るようにゆっくりと瞬きをしてから、私はお義兄様の腕に自らの手を乗せた。そのまま、甘えるように身を寄せて彼の顔を見上げる。


「参りましょう、お兄様。私、少し風に当たりたいですわ!」


 我儘なエレノア・ロイルらしく振舞えば、お義兄様も手短にお二人に挨拶をして、渋々と言った様子で歩き出した。


 私に言いたいことがたくさんありそうな顔をなさっているが、お叱りはお二人のいないところで受ければいい。





 そのままお義兄様ととともにしばらく廊下を進んでいたところ、いつしか夜の中庭へ抜けた。当然ながらほとんどの参加者は広間にいる訳なので、中庭に人影はない。


 庭の中心に設置された噴水の水音だけが響き渡る、静かな風景だった。


 春の夜風がとても心地よい。思わずお兄様の手を離れて、噴水の方へと駆けだせば、どうにも開放的な気分に満たされる。


 ……ああ、ルシア様と王太子殿下のバッドエンドを回避できて本当によかった!


 あの甘ったるい様子では、まず監禁なんて背徳的な状況に陥ることはないだろう。


 ということはつまり、ルシア様がお人形になる未来を防ぐことが出来たということだ。


「……これだけでも、私がこの世界に生まれた意味はあったわね」


 瞼を閉じて夜風を受けながら呟けば、ふと、背後に気配が迫っていることに気が付いた。


「……何か考えがあったのだとしても、無闇に男に体を密着させるのはやめろ」


 やっぱりお義兄様は手厳しい。折角の開放的な気分に水を差されたような気持ちになるが、お義兄様の仰っていることはもっともなだけに、ここはおとなしく謝罪をした。


「ごめんなさい、お義兄様。もうしないわ」


 言葉ではしおらしく謝罪をしながらも、振り返った勢いでお義兄様の腕を抱きしめるようにして甘えた。こうすれば、いつも通り、お義兄様は深く追求してこないはずだ。


 だが、今夜のお義兄様はいつもより手厳しかった。無理やり私を引きはがすようなことはしなかったが、紺碧の瞳で睨むように私を見下ろしてくる。


「……早速、言っていることと行動が一致していないようだが?」


「ふふ、お義兄様ならいいでしょう? お義兄様は、私のお義兄様だもの!」


 そのうちお義兄様とレインが結ばれたら、彼女に遠慮してこうしてお義兄様に触れることも無くなるだろう。限りある触れ合いだと思えば、大して仲良くもない義兄の温もりも、不思議と愛おしく思える気がした。


 お義兄様は、そんな私を見て呆れたように小さく溜息をつく。やっぱり、私は相当嫌われているらしい。


 これ以上は流石にお義兄様が可哀想かと思い、離れようとした矢先、ふと、お義兄様が私の髪に触れた。正確には、髪留めに触れたと言った方がいいかもしれない。


 一体、何事だろう。思わず体を強張らせてお義兄様を見上げれば、たっぷり数十秒の沈黙ののちに、ぽつりと呟きをこぼした。


「……この髪飾り、悪くない」


「え?」


「……そのドレスも」


 思わずぽかんと口を開けてお義兄様の顔を見上げてしまう。私の視線に耐えられなかったのか、お義兄様はそれとなく視線を逸らした。


 お義兄様が、私の服装について言及なさるなんて。


 公爵令嬢として最低限の品を保っていれば、私が何を着ようがどうでもいいというスタンスのお兄様なのに、今夜は一体どういう風の吹きまわしだろう。


 改めて、今夜の自分の装いを確認してみる。


 ドレスのデザイン自体は、社交界で流行中の、露出が多くもなく少なくもなくと言った無難なデザインだ。生地は最高級のものを使っているし、宝石のような紺碧の発色もこの上なく素晴らしいが、どれかがお兄様のお気に召したのだろうか。

 

 と、そこまで考えて、髪飾りとの共通項は一つしかないことに気づく。髪飾りの石は紺碧、そしてこのドレスの色も紺に近い鮮やかな青色だ。


 もしかして、お兄様はこの紺碧ともいうべき色がお気に召したのだろうか。お義兄様の瞳と、同じ色の。


 そこまで考えて、なんだかにやけてしまう。お義兄様は私のことなんて大嫌いなのだろうと思っていたが、案外、義妹としての最低限の情くらいは持ち合わせてくださっているのかもしれない。


 これも、前世の無意識が生み出した謙虚さによる思わぬ収穫なのだろうか。理由はどうあれ、慕わしく思っている相手にそこまで嫌われていないかもしれない、という事実は私の心を躍らせるには充分だった。


「ふふ、確かに私に似合わないはずがありませんわ。だって、お義兄様の瞳の色ですもの!」


 お義兄様の腕に抱きついたまま彼の顔を見上げれば、彼は僅かに驚いたように私を見つめていた。


「お義兄様ったら、私がお義兄様の瞳の色を身に着けているのが好ましいなんて、意外に独占欲強いのですわね! 私の花婿になる方は、お義兄様を説得するのに苦労なさるのでしょうね」


 冗談めかして笑えば、お義兄様ははっとしたように私を見下ろした。その表情の理由に検討が付かなくて、思わず小首をかしげてしまう。


「……お義兄様? 冗談が過ぎましたかしら?」


「……誰か、花婿になりそうな男がいるのか?」


 どこか茫然とした様子のお兄様に、私は苦笑交じりに否定する。


「ふふふ、残念ながらまだおりませんの」


 確かに、いきなりこんな話を持ちだしたら、実質ロイル公爵家の実権を握っているお義兄様からしてみれば一大事だ。家門の唯一の令嬢である私は、重要な政略の駒であるはずなのだから。


「ですが、そろそろ私にも婚約者を用意してくださってもいい頃合いではありませんこと? もう16歳ですもの。もしも縁談が来ているのなら、私にも教えてくださいませ! お相手がどんな方なのか、少しでも早く知りたいですわ!」


 今はまだ仲を深めるような時間の余裕はないだろうが、いずれ5組の尊いヤンデレカップルの成立を見届けたら、その方とは誠実に向き合っていこうと決めていた。出来ればヤンデレではない、優しくて一緒にいると楽しい紳士であるといい。


「……そう、だな」


 お義兄様はどこか打ちのめされたような様子で、生返事をした。今夜のお義兄様は、ちょっぴり様子がおかしい。建国祭の最終日に、王太子カップルのいざこざに巻き込まれて、いよいよ疲労も限界に達しているのかもしれない。


「……少し早いですが、今夜はもう帰りませんか? 私、疲れてしまいましたの」


 お義兄様が疲れていそうだから、と言えば、否定して頑なに帰ろうとしないのがお義兄様だ。我儘な私の言い分に付き従う形であれば、渋々屋敷に戻る決断をしてくださるはずだ。


「ほら、早く! お義兄様!」


 お義兄様の手を握って、軽く引っ張るようにして先を行く。お義兄様にエスコートされることはしょっちゅうだが、昔のように手を繋ぐことは今では滅多にない。何だか懐かしさを感じて、絹の手袋越しの温もりが一層愛おしく思えた。


 お義兄様は結局、屋敷に帰るまでどこか浮かない顔のままだった。それでも私が一方的につないだ手が離されることはなくて、それがお義兄様が私に向けるひとかけらの優しさの証のような気がして、私にとっては宝物のように思えたのだった。

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