第6話
◆ ◆ ◆
銀色の月明かりが差し込む部屋の中、天蓋付きの豪華なベッドの上に、白金の髪の少女が横たわっている。
髪と同じ白金の睫毛で縁取られた瞼はぴたりと閉じられており、目尻から透明な涙が一粒零れ落ちた。
その少女の傍らで、歪んだ熱を帯びた新緑の瞳で笑う青年が一人。
「ルシア」
青年の声は、陰鬱な寝室の雰囲気に似合わず、どこか甘く、恍惚が混じっていた。
呼び掛けられた少女は僅かに瞼を開いたが、その深緑の瞳に光はない。元から無口だった少女の声は、このところ、涙と共に零される嗚咽以外で発せられることはなかった。
「ほら、ちゃんと声を聴かせてくれ。ルシア。泣いてばかりいないで、僕にも笑いかけてくれよ」
ぎし、とベッドが軋む音とともに、青年は少女との距離を詰める。以前青年が同じことをしたときには、怯えるような反応を見せた少女も、今はただ、虚な瞳で天蓋を仰ぐだけだ。
青年はそれにもどかしさを感じるように、口元に浮かべていた笑みを引き攣らせた。そのまま手の甲でそっと少女の頬を撫でる。
「ルシア、そんなに僕の婚約者でいるのが嫌だったのか? 僕はこんなに君を、君だけを想って生きてきたのに……どうして振り返ってくれないんだ」
その言葉はもう、少女の耳には届いていなかった。ただ、目尻に溜まっていた涙がまた一粒少女の横顔を滑り落ちて、それこそが、まるで青年への返事の代わりだと言わんばかりだった。
「まあ、もういいか……どうなったって」
青年は自嘲気味な笑みを浮かべたかと思うと、サイドテーブルに飾ってあった一輪の白い花を手にした。甘い香りの漂う小さく可憐な花だ。
青年は花の部分を短く手折ると、そっと少女の白金の髪に飾り付けた。
「……綺麗なスノードロップだ。君にあげるよ。白金の髪によく似合ってる」
花を飾り付けられた少女は、それでもなお人形のように微動だにしなかった。
その様子は、彼女の心は既にここにはないのだと悟るには十分で、青年は泣き出しそうな顔でふっと笑う。
十数年間もの間、恋焦がれた少女はようやく青年のものになった。その事実に仄暗い満足感と甘い背徳感を覚え、青年は悩ましげに溜息をつく。
「綺麗だよ、ルシア。これからもずっとそうしておいで。僕が、僕だけがいつまでも、君を愛してあげるからね」
歪んだ愛の告白とともに、青年は虚な瞳の少女に深く口付けた。
少女の頬の上に、一粒の涙が零れ落ちたことには、気づかないふりをして。
◆ ◆ ◆
「っ……」
荒い呼吸とともに飛び起きる。まだ薄暗い見慣れた寝室の風景が視界に飛び込んできた。
肩で息をしながら、そっと胸に手を当てて状況を把握しようと努める。
「今のは……夢、よね?」
今し方見た夢の鮮明さは異様だった。美しいが、背徳感に満ちたあの光景は、間違いなくバッドエンドを迎えたルシア様と殿下の姿だ。
人形のように微動だにしなくなった幼馴染の姿を思い出して、思わず身震いする。
あれは、そう遠くない未来のルシア様の姿。決して夢と片付けられるような些細なものではないのだ。
「なんとかしなくちゃ……」
時計塔の鐘も鳴らない早朝に、改めて覚悟を決める。建国祭最終日の朝日が、今にもこの国を照らそうとしていた。
結論から言うと、あのお茶会の後、ルシア様の姿は見つからなかった。
それどころか、その後の夜会やお茶会でも、王太子殿下の婚約者として必要最低限のことをこなしたら、すぐにお屋敷に戻ってしまう始末。お話をする時間なんて少しも無かった。
十中八九、王太子殿下と何かあったのだろう。あの無口なルシア様が殿下と口論なさるとは思えないが、それに近しい何かが起こったはずだ。
最低限の役目はこなしているだけあって、王太子殿下とルシア様の不仲説が囁かれるようなことはないのだが、ルシア様に明らかに避けられている殿下の瞳は日に日に翳っていくばかり。
お義兄様でさえ、思い詰めたような表情をする殿下を前に、どこか扱いにくそうにしていたくらいなのだから相当だ。
あの悪い夢といい、やはり、このままでは建国祭が終わるころにはルシア様がお城に閉じ込められてしまうのはほぼ間違いない。何か手を打たなければ——。
――という焦りばかりが募り、気づけば私は、王城で開かれた建国祭最終日の夜会に足を運んでいるところだった。ルシア様とお話が出来ないままに、遂に最終日の夜を迎えてしまったのだ。
「今夜こそ絶対にお会いしなくちゃ……」
決意にも似た独り言をつぶやいて、香水の香りに満ちた夜会の会場を一望する。相変わらず、眩暈がするほど煌びやかな世界だ。
今夜の私は、紺に近い鮮やかな青色のドレスに、ゆったりと藍色の髪を結い上げた装いだ。藍色の髪にはルシア様から贈られた紺碧の髪飾りを留めてあり、我ながら今日もなかなかの美少女ぶりだと思う。
私をエスコートするお義兄様はといえば、今日も今日とてご令嬢の視線を独り占めしている。
銀髪を片側だけ上げているせいか、お義兄様の紺碧の瞳の鋭さが一層増すようで、お兄様に毛虫のように嫌われている私からすれば、怖いほどの美しさだった。
加えて、建国祭も最終日となり疲れが溜まっているせいだと思うのだが、どことなく気だるげな雰囲気を漂わせていて、それが何とも言えない色気を醸し出すのに一役買っている。
綺麗な人は疲れていても絵になるものなのね、と我が義兄ながらまじまじと見つめてしまう。この姿を、レインにももっとよく見せてあげたい。
「……何だ」
お義兄様は私の視線に勘付いたのか、睨むような視線をこちらに向けてきた。もう慣れたことなので、ごく自然な微笑みを浮かべて受け流す。
「ふふ、今夜のお兄様は一段とお綺麗だと思いまして。そうやって髪を片側だけ上げるの、とてもよく似合っておりますわ」
正直な感想を告げたが、私に興味ないお義兄様はすぐに顔を背けてしまうに違いない。
そう思って私から先に視線を逸らしたのだが、お義兄様の反応は意外なものだった。
「……お前も」
「え?」
お義兄様から話しかけられるなんて思っても見なかったせいで、間の抜けた声を上げてしまう。驚いてお義兄様の目を見つめれば、彼は何事も無かったかのように視線を逸らしていた。私の聞き間違いだったのかもしれない。
そんなやり取りを交わしているうちに、ふと、人並みの中に品の良い葡萄色のドレスを纏った令嬢を見かけた。ルシア様だ。
王太子殿下と共に挨拶をするべき相手とは話し終えたのか、人の少ない方へ向かっているようだ。王太子殿下も良く許したものだと思うが、仲違いをしている様子だから強く出られなかったのだろう。
そのあたりの事情はともかく、このままルシア様を見逃すわけにはいかない。この状況が続けば、ルシア様は下手すれば明日には殿下の用意した鳥籠の中だ。
「っ……お義兄様、私、お化粧を直しに行って参りますわね! ちょっと失礼いたします!!」
夜会もまだ始まったばかりだと言うのに苦しい言い訳だが、私はお義兄様の返事も聞かずに人の波に飛び来んだ。ルシア様を見失わないように、と自然と足が急く。
ルシア様は、どうやら人気のない廊下の方へ向かっているようだった。軽くドレスを摘まんで必死に足を動かしながら、遠ざかるルシア様の後姿を懸命に追った。
「ルシア様!」
背後から呼びかけるのはあまり褒められた行いではないが、聞き慣れた私の声だからか、ルシア様はさほど驚くことも無く振り返ってくださった。白金の髪がふわりと揺れる。
中庭と通じている廊下には、銀色の月影が満ちていて、華やかな広間とはまるで別世界のように静まり返っていた。私はそっとルシア様の前に歩み寄り、彼女を見つめる。
あれ程喜んで着ていた新緑のドレスを纏っていない辺り、やはり殿下と何かがあったのだろう。意を決して問いかけてみることにした。
「ルシア様、このところ、一体どうなさったのです? ……王太子殿下と、何かおありになりましたか?」
ルシア様は答えることはなく、小さく俯いていた。その沈黙こそが肯定の証なのだろう。
「……この間のお茶会で、ルシア様、涙を流しておられましたね。……王太子殿下が何か仰ったのですか?」
ルシア様はぎゅっとドレスを握りしめ、視線を彷徨わせていた。どことなく思い詰めたようなその表情に、不安が募る。
たっぷり数十秒の間の後、ルシア様は俯いたままぽつぽつと話し始めた。
「……殿下が、他の者とあまり口を利かないように、と仰るのです。……あなたのことも含めて」
「っ……」
朗らかな見た目に反して独占欲の強い殿下のことだ。自分でさえ滅多に聞けないルシア様の声を、他の人間に聞かせるなんてもってのほかなのだろう。ルシア様が他の人間と話す度に殿下の疑念と嫉妬が深まっているならば尚更だ。
画面越しであれば美味しい展開ではあるが、ここは生身の世界。どう考えてもこのままではまずい。
私は無理やり笑みを取り繕って、ルシア様に向き直った。
「きっと、殿下はそれだけルシア様のことを大切に思っていらっしゃるということですわ。ルシア様が殿下にお気持ちをお伝えになれば、きっとそのようなことを仰ることも減るのではないでしょうか?」
「……わたくしの、気持ち……」
戸惑うようなルシア様の深緑の瞳を見据えながら、もう一押しする。
「はい! ルシア様のお気持ちです! 建国祭のジンクスのこともありますし……仲直りする機会に、お気持ちをお伝えするのはいかが――」
「――わたくし……本当に、殿下のことが好きなのかしら」
「え……?」
どこか拗ねたようなルシア様の表情を前に、唖然としてしまう。ここにきてルシア様の口からこんな台詞を聞くことになるなんて思ってもみなかった。
だが、ルシア様は美しい顔に僅かな苛立ちのようなものを滲ませて、私の前だということが信じられないほど流暢に続けた。
「殿下は、わたくしが何をするにも誰と何をしたのか、と、いちいち詮索なさるのです。そんなにわたくしのことが信じられないのかしら。確かにわたくしは殿下より3歳も年下ですし、至らない部分があるのは確かですけれど、それにしたって子ども扱いが過ぎるというものです。ましてやわたくしが一番仲良くしているあなたとの会話を禁ずるなんて、いくら殿下でも横暴が過ぎます」
ルシア様とは思えぬ勢いに、言葉も無い。相当鬱憤が溜まっているようだった。確かにあんなに分かりやすく執着されていたら、うんざりするものかもしれない。
ああ、でも、どうしよう。ルシア様の想いが本当に殿下に向いていないのなら、お二人を待ち受けるのはあの陰鬱なバッドエンドしかないのに。
さっと血の気が引いていく。
何か、何か言わなければ——と模索している最中、ルシア様は溜息交じりに睫毛を伏せ、再び口を開いた。
「……わたくしのこと、もっと信じてくださればいいのに」
切なげな言葉と悩まし気な表情に、はっとする。
先ほどまでの苛立ちを滲ませた姿とは打って変わって、どこか拗ねたような、いじらしい表情だ。もしもルシア様が殿下のことを何とも思っていないならば、こんなにも繊細で切なげな表情が出来るはずもない。
それだけで、ルシア様が殿下に向けるお気持ちを察するには充分だった。
「ふ、ふ……」
ほっと安堵の溜息をつく。
大丈夫だ。ルシア様は恐らく、ちゃんと殿下のことが好きだ。好きな人に信じてもらえないことが悲しくて、辛くて、ご自分のお気持ちが見えなくなっているだけなのだろう。
ひとまずルシア様のお気持ちが殿下に向いていないという最悪の事態を避けられて、安心してしまう。
だが、このままではいけないことに変わりはなかった。どうにかして、ルシア様にご自分のお気持ちを再確認していただき、殿下に想いを伝えてもらわねば。
お二人に残された期限は、恐らく夜会が終わるまでのあとほんの数時間。のんびりしている暇はない。
……そういえば、ゲームのエレノア・ロイルは殿下に付きまとって、お二人の仲を引き裂こうとしていたのだっけ。
ここは一つ、茶番を演じてみようか。
本来ならば避けたい手段ではあったが、もうぐずぐずしていられない。悪役令嬢ならば悪役令嬢らしく振舞うことにしよう。
気持ちを切り替えて、私はルシア様の瞳を射抜くと、ふっと意地悪い笑みを浮かべる。
たったそれだけで、ルシア様がひどく驚いたように目を見開いたのが分かった。
それもそのはずだ。私がルシア様の前で敵意に近い感情を顕にしたことなんて、これが初めてなのだから。
にっと口元に弧を描きながら、そのままルシア様を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「へえ、そうなんですね。じゃあ、殿下のこと、私がいただいてしまっても問題ないでしょうか?」
状況を掴めないのか、ルシア様の深緑の瞳が小刻みに揺れている。私はずい、と彼女に近寄って、意味ありげな笑みを深めた。
「本当は私、ずっと殿下のお隣を狙っていたのですのよ? あなたが殿下をお慕いしているようでしたから身を引いておりましたけれど……お好きじゃないというのならば、私が頂戴してしまっても、問題ありませんわね? 幸い私もあなたと同じ公爵令嬢。身分の心配もありませんもの」
「……エレ、ノア?」
震える声で私の名を呼ぶルシア様を、嫌味たっぷりに一瞥して、くるりと背を向ける。
「ふふ、早速、王太子殿下の元へ伺うことにいたしますわ。殿下がお一人で寂しい思いをなさっていたらお可哀想ですもの」
「……っ」
ルシア様の声にならない声を感じる。それに気づかない振りをして、私は彼女に背を向けたまま歩き出した。
「それでは御機嫌よう、ルシア様。ハルスウェルの祝福がありますように」
ルシア様の表情は分からなかったけれど、悪役を演じると決めたのだ。このまま貫き通すしかない。
……私のこの言動で、ルシア様が嫉妬して、ご自分の気持ちに気づいてくださったら。
不安要素ばかりが残る賭けだったが、残された時間が少ない以上、勝負に出るしかなかった。
これで王太子殿下の気に障り、ルシア様がご自分のお気持ちに気づかないままだったら、私は追放され、お二人が迎えるのは最悪のバッドエンドだ。
自然と、手のひらに汗がにじむ。百歩譲って私が追放されるのはいいとしても、ルシア様がお人形にされる未来は見たくない。
……追いかけて来てくださいませね、ルシア様。
向かう先はもちろん、ルシア様を探して彷徨っているであろう王太子殿下のもとだ。広間の周りを囲むようにして走る廊下のどこかにはいらっしゃるはずだ。
先ほどまでの意地の悪い笑みとは裏腹に、唇を噛みしめるようにして、この滑稽な茶番が上手くいくように祈る。
女神でも何でもいいから、どうかあの二人に幸せな結末を用意してほしい。
そのためには、もう一芝居打たなければ、と自信を奮い立たせ、自らの靴音だけが響く廊下を黙々と歩き続けたのだった。
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