5.自身不信

 安価なベッドのスプリングが軋む。ホテルに帰ってすぐシャワーを浴びた後、重い身体を預けるようにベッドに倒れこんだ。

 昼から何も食べていないのに食欲はない。しかし何も食べないのは体に悪いと思って、近くのコンビニで買ったエナジードリンクを一口。

 寝転がったままではうまく口に入れることができなかった。口の端から零れ落ちた液体はただ感じることにした。

 開いたままの口からは自然とため息も零れる。まだ中身の入ったアルミ缶をゴミ箱に向け投げた。やはり空きっ腹にエナドリは良くない。

 周囲にぶちまけられた甘くベタつく液体は、ホテルの清掃員がどうにかしてくれるだろう。


「……どういうつもりなんだ」


 夏輝と名乗ったあの少女は生き別れの俺の娘、だろう。彼女は親に連れてきてもらったと話していた。

 元嫁とは離婚してから16年、連絡すら取っていない。

 ただ再婚したという話は元義母から聞いていた。

 俺はあの出来事を忘れて生きてきた。


「はぁぁ……。くそっ!」


 イライラが治まらず何もない宙を殴る。ベッドの上で暴れる大の男の姿はどうしようもなく無様で滑稽だろう。


 ダメだ。リラックスするんだ。深呼吸。ストレスをためちゃいけない。

 メンタル管理は大事だ。お前は大人だろう。


「違う。あの少女は、あの上岡夏輝は違う」


 娘じゃない。

 そうだ。同姓同名の別人という事もあるだろう。そう考えるのが普通だ。そう思いこめば安心できる。あの時抱いた劣情を飲み込める。

 それほど彼女は魅力的だった。


 しかし残念なことに不思議と、まったくそんな感じがしない。してくれそうにない。

 彼女が持つ雰囲気は、出会った頃の元嫁にそっくりだった。


「吐きそう」


 その夜は朝日が昇るまで一睡もできなかった。



『今日はありがとうございました! さっそく明日会いませんか?』

 というメッセージが来ていたと気付いたのは翌日の昼だった。

 いつの間にか連絡先を交換していたようだ。

 口の中のネバネバとした感覚が気味悪い。歯は磨いて寝るべきだった。

 洗面台の鏡に映る自分の顔は昨日より幾分と老け込んで見えて、髪もいつもより萎びて隙間から頭皮が覗いている。


「……」


 どうやら一日では十円ハゲは出来ないようだ。


「どうする?」


 返事をしないという手がある。


「ブロックするか」


 より確実に無視をしよう。そうしよう。

 いまさらなんだ。いまさら。

 そうだ。今の俺に娘に合わせる顔なんてないんだ。いや、これからもずっと。

 そして決心のタッチをしようとした時、夏輝からの呼び出し画面がスマホに浮かび上がった。


「もしもし? 津山さ~ん?」


 ……やらかした。誤動作だ。ビクついた指先が勝手に動きやがった。勝手にスライドしやがった。

 こうなったら話をするしかない。

 もしかしたら偶然出会っただけかもしれないし、同姓同名の他人の線もまだ消えちゃいない。


「おはよう」


「あ~! やっぱり寝とったんじゃ! 既読つかんけどうしたんじゃろってこっちは不安になったけーね!?」


「……編集作業に夢中でスマホ見てなかったんだ」


「スマホ見んとかある? これからちゃんと見よ?」


 たしかに、これからはちゃんと確認しようと思うよ。


「で、――どうです? 津山さん的にはこれから街の方に出てお茶とか嫌な感じです?」


 夏輝の言う街というのは広島市内の中心部の事だろう。地元民はそこを街と呼ぶのだ。

 しかしやけにハッキリとした誘い方に、すこし笑ってしまった。


「写真の撮り方を教えるって話だと思ってたんだが、違うのか?」


「あっ。えーと、もちろん。いやでもほら、弟子になるなら親睦も深めないと? 的な?」


「ふーん」


「な、なんすか!?」


 多分、俺の写真だけじゃなく個人にも興味があるんだろう。

 この子が俺の娘じゃないなら、娘だとしても偶然出会ったのなら、そうだろう。


「津山さん?」


「あぁ、ごめん。……いいよ。どうせ宮島の花火当日までは、市内のホテルに泊まって観光に出るつもりだったし」


 会って話をすれば、真実も分かるだろう。


「やった! どこ行きます?」


「……上岡さん的にはどこ行きたいの?」


「……あ~、ん~、もしかしてまだご飯食べてなかったりします? そしたら、久々の凱旋ってことでお好み焼きとかどうですか」


 こういう時は男の方からどこここに行こうと言うべきなのだろう。しかし、上岡夏輝がどんな少女なのかを知るために、敢えてリードされる事にした。

 いや、単にリードができなくなっただけかもしれない。何せ女性と二人きりで会うなんて何十年ぶりだから。


「いいね。オススメある?」


 だから怖くて、自分からは何も言い出せないだけなのかもしれない。

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