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 チャイムが鳴り終わると、教壇の椅子に座った四十代後半くらいの教師が手元のパソコンを操作していた。少し間を置いて、穏やかな口調で話し始めた。


「今日の講義で扱う作品というのは、かなり有名なアニメ作品であるかと思います。おそらくこの中にも観たことのある人は多くいることでしょう」

 隣で啓太郎はうんうんと頷きながら、教師の話に耳を傾けていた。どうやらしっかりと予習をしてきていた様で、開いたノートのページには、既に沢山の書き込みがあった。


 この映画は、国内でも有数のアニメ制作会社が作った映画だった。大講義室のスクリーンに、作品の重要な場面を流し、教師が解説を加えながら講義が進んでいく。

「〝失われていくもの〟がこの作品の大きなテーマの一つとなっています。記憶や習慣、学んだこと、私たちの中にも時と共に失われていくものが沢山ありますね」

 祐樹は自分がアニメや映画への興味を失いつつあることを思い浮かべていた。


「アルバイトの経験や資格、留学や受賞の経験、皆さんは何を得たかということで、自分の個性を語ることが多くあると思います。特に就職面接では、自分がこれまで一体何をしてきたのか企業にアピールしなければなりませんね。ですが、何かを失った結果、自分がどう感じたのか、そして、どのような行動をしたのか、ということからも、自分の個性を見出すことが出来ると私は思います」

 就活ばかりの毎日で、趣味への興味を失っていく自分。その後にあるものは何だろうか……自分の個性とは……

 

「お〜い」

 考え込んでいる友人に、啓太郎は繰り返し声をかける。

「祐樹、もう講義終わったぞ」

 いつの間にか大講義室は、帰り支度をしている生徒達のざわざわとした話し声に包まれていた。

「ごめん、ちょっと考え事してた」

「だよなぁ、この映画は祐樹も好きな作品だったもんなぁ」

 啓太郎は、祐樹が作品の世界に浸っていると思った様であった。


 その後も、祐樹はどこかうわの空のまま、帰路についた。


 ワンルームの狭い玄関には、祐樹のものより大きな革靴が置いてあった。視線を部屋の中に移すと、祐樹の兄の友和ともかずがベッドを背中にして床に座り、脚を伸ばしてくつろいでいるのが目に入った。祐樹に気付くと友和は明るい声で呼びかけた。

「おお、お疲れ様。お邪魔してるよ」

「兄貴もお疲れ様」

 友和は三年前の春から都内の大手出版社の総務部に勤めている。こうして仕事が早めに終わると、たまに祐樹が一人暮らししているアパートに様子を見に来ていた。友和が大手企業に勤めていることが、今の祐樹にとってはプレッシャーになっていた。

 祐樹がスーツをハンガーに掛けていると、友和が読んでいた雑誌をベッドの上に置いて話しかけてきた。

「今日も面接だったんだな。手応えはどうだった」

「全然だめだった。集団面接だったけど、周りの人達がすごくてさ。途中から自分が何でそこにいるのかが分からなくなってきたよ」

「そうだったのか。まあ、就職活動は相性だから、あまり気を落とすなよ。いくつも受けてるうちに、祐樹に合う良い企業が必ず見つかるから」

 友和が励まそうとしてくれていることはよく分かっていた。しかし、今の祐樹には、友和からの励ましが何より辛かった。

「俺は兄貴みたいに大手の企業とは相性合わないから」

 一人にしてほしい、放っておいてほしいという感情が、思わず八つ当たりの言葉として出てしまった。友和は何と答えればいいか考えながら黙っている様だった。居心地の悪い沈黙が部屋を満たした。


「ごめん、今日は帰ってくれないかな」と祐樹が小さな声で言うと、友和は黙ったまま頷くと、仕事用のバッグを抱えて出ていった。

 狭い空間を重く包んでいた二人分の沈黙は、少し軽くなった一人分の沈黙と心に重くのしかかる自己嫌悪に変わっていた。

 祐樹は、気持ちを振り払うように、来週の提出予定のESエントリーシートを書き始めた。

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