ACT7-3a 傘の下の距離
終了の時間がきて、一度だけ延長したあと、俺たちはカラオケボックスを出た。
会計をしている時から分かっていたが、外は雨が降っている。みんな駅まで行かなければならないが、屋根のないところを通らないといけない。
コンビニに行って傘を買ってきたが、一本しか残っていなかった。中野さんと荻島は折り畳み傘を持ってきているが、高寺は濡れてもいいという覚悟のようだ。
「うちも折り畳み持ってるけど、どうしよっか」
「俺は荻島と同じ方向だから、一緒に走るわ」
「えー、僕の傘入ってくの?」
「俺は風邪引かねーからいいんだよ。の……朝谷さんに心を燃やされちまってるしな」
「高寺くん、ほんとに私のファンなんだ。ありがとう、応援してくれて」
「っ……い、いやもうほんとに、俺なんて朝谷さんにとって路傍の石ってかなんつーかっ……きょ、今日は楽しかったっす! また何かあったら呼んでくれればいつでも行くんで!」
「僕も楽しいことならいつでも参加するよ。千田くん、また誘ってね」
「ああ、また声かけるよ」
高寺と荻島が帰っていく。女子たちは見送りをしたあと、俺の方を見てくる。
「じゃあ、ナギセンと誰が一緒に帰るかジャンケンする? ……なーんて、意地悪言うわけないでしょ」
「ナギ君、今日はありがとう。みんなも……遠い所まで来てくれて嬉しかった」
「中野さんが、迎えに行こうって言ってくれたんだ。高寺も荻島も、すぐに賛成してくれて……だから、みんなで思ってたことなんだ。朝谷さんが来てくれる方が楽しいって」
「はい。朝谷さんがいてくれなかったら、また一緒に出かける日を決めたいと思っていました……でも、ずっと約束していて今日一緒に遊ぶのと、別の日は、どうしても違う日ですから」
事前から決めていた日が駄目でも、別の日にすればいい。
そうやって『仕方ない』と受け入れることは、寂しいことだ。
いつも今日みたいに、望んだ通りの結果になるとは限らない。それでも俺たちは、もし同じようなことが起きたなら、可能性に賭けるんだろうと思う。
――あの朝谷さんと待ち合わせた雨の日と、今日という日は同じにはならなかった。
胸に残っていたわだかまりは、すぐに消えるわけじゃない。けれど、こんな日を積み重ねていくことで、変わっていくことはできるだろう。
「私も今日、凄く楽しみにしてた。でも、あの時間から参加するなんて迷惑かなって……だから、皆が来てくれて申し訳なくて、だけど凄く嬉しかった。私の方から、唯ちゃんや鷹音さんに飛びつきたかったくらい」
「ふぁぁっ……いつでもそうしてくれていいのに。ていうか私が今抱きつきます。むぎゅー。鷹音さんにもむぎゅー」
「あ、ありがとうございます……」
鷹音さんは邪険にもできずに、中野さんを抱きとめて、背中をぽんぽんと叩く。
朝谷さんはそんな二人を見て、両手を伸ばして抱きついて混ざる。
楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。離れがたいというのも伝わるから、俺は何も言わずに待っていた。
「……じゃあ、私は唯ちゃんの傘に入れてもらうね。ナギ君、鷹音さん、今度会えるのは連休明けかな」
「うん。二人とも、気をつけて」
「まだ明るいから大丈夫。ナギセン、鷹音さん。今日はめーーーっちゃ楽しかった! これから部活も、クラスでも、それ以外でも仲良くしようね!」
「はい。これからも、よろしくお願いします」
中野さんが傘を開いて、朝谷さんが端っこに入ると、中野さんが傘を朝谷さんの方に寄せる。二人はくっついて、駅のロータリーに向かって歩いていった。
「鷹音さん、行こうか」
「はい」
コンビニで買った傘はそれなりに大きいが、鷹音さんが濡れないように彼女に寄せて傘を差す。
「薙人さんも、濡れてしまいますから」
「っ……ありがとう……でも俺は、自分より鷹音さんの方が大事だよ」
「それは、駄目です。私だって、同じ気持ちなんですから」
「……いや。俺の方が、鷹音さんを大事に思ってるよ」
気持ちは比べるようなものじゃない。分かっていても、伝えておきたかった。
今日、一緒にいられたこと。仲間たちと楽しい時間を過ごせたこと――朝谷さんと合流することができたことも。
鷹音さんがいるから、俺はこうしていられる。気持ちは際限なく大きくなって、肩を触れ合わせて歩いているだけで幸せを感じている。
「……朝谷さんと比べたら、私は……そんなに上手く歌うことができませんでした」
「そんなことないよ。今日のために、練習してたんだね」
「どうして朝谷さんのドラマの歌なのか……って、思いましたか?」
「それはちょっとだけ。鷹音さんも見てたんだね」
彼女はこくりと頷く。そして、前を向いてしばらく歩いてから、ぽつりと言った。
「凄く、素敵だと思いました。やっぱり、敵わないって思うくらい、画面の中の朝谷さんは輝いて見えました。そんなのは、当たり前のことなのに」
そんなことはない。けれど気休めのように聞こえてしまう気がして、簡単には言えなかった。
俺も鷹音さんと同じように感じていた。朝谷さんのことを応援しようとするほど、彼女のことを遠く感じた。
告白しておきながら、住んでいる世界が違うという思いを抱いていた。その矛盾を自分の中で解決することができなかった。
フラれてから気づくべきだったことに気づいて、それを重ねるほどに、自分の過ちの大きさを知る。
「朝谷さんのことを知るたびに、薙人さんが好きになった理由が分かる気がして……どうして別れてしまったのか、やっぱり、それを一番不思議に思うんです」
「今は、納得してるんだ。俺に何が足りてなかったのか」
「憧れるということは、足りないということでしょうか。私は……違うと思います」
「……鷹音さん」
「恋人に、憧れてはいけないんでしょうか。私はこんなに、薙人さんに憧れているのに」
それは、俺の中にあった願いでもあった。
陽の当たる舞台に立つ彼女に惹かれた。それが好きになる理由の一つだったことが、全て間違いじゃないと思いたかった。
俺にも分かっている。
芸能人と一般人、そんな壁を意識しないことが、俺たちが続くために足りないものだったのかもしれないと。
「……朝谷さんの歌はとても綺麗でした。すごく沢山の人を感動させるような才能が、彼女にはあります。私は、そこまでにはなれません……でも……」
鷹音さんが俺を見つめる。雨音が遠のき、彼女の言葉だけがはっきりと聞こえる。
「私は朝谷さんよりも、薙人さんの心を動かしたいです。そのためにできることは、どんなことだってしたい」
「……それを言うなら。今だって……歌っている時だって。俺は……」
「もっと、もっと頑張ります。私、ピアノは得意ですから。これからは、ピアノの練習をしながら、歌の練習もしたいって思っているんです」
本当に、俺なんかには勿体ないくらい。鷹音さんはこの世界を探しても、他に絶対見つからないくらいの女の子だ。
「凄く上手かった。こういう言い方も何だけど……鷹音さんは歌う時の声も可愛いから、アイドルみたいだって思ったよ」
「っ……そ、それは……歌の時は、オクターブが上がるので……」
「うん。高い音も透き通ってて、ずっと聞いてたいくらいだった」
「……本当ですか……?」
「内緒で練習してたなら、その練習も聞かせてもらいたいくらいだ」
もう少しで、駅に着く。鷹音さんを、これからも何度も見送ることになるだろう――俺にとって、今はそんな場所。
「……朝谷さんは、軽音部の活動で、ライブをしたりするんでしょうか」
「そういうこともありそうだな……めちゃくちゃ騒ぎになりそうだけど」
「はい。私も、もう一度朝谷さんの歌を聴きたいと思っていて……」
「カラオケも凄いことだけど、観客を前に歌うっていうのは……想像しただけでも、凄いことになりそうだ」
「さっきのときも、凄い盛り上がりでした。薙人さんが、タンバリンを鳴らしてくれて……それで、私も朝谷さんも、頑張らなきゃって」
「あ、あれは……急に何してんだと思うよな。急にテンション上がった人みたいで、怖かったかな」
「ふふっ……そんなことはないです。私は、薙人さんのそういうところが……」
鷹音さんにも分かっている。もう、駅に着いてしまうということ。
彼女は傘の中で、ふわりと俺に身を寄せる。
頬にかすかな感触が触れて、離れていく。柔らかくて心地よいそれは――唇。
「……リップがついてしまったかもしれないので、ごめんなさい」
照れがあったのかもしれない。そんなことを言われたら、俺の方が一番照れている。
鷹音さんは傘を出て、駅に向かって走っていく。そして彼女は屋根の中で振り返ると――こちらを向いて、何かを言っている様子で、小さく手を振った。
明かりがついた駅舎に入って行きながら、鷹音さんはもう一度振り返る。
そして手を振り合いながら、あとで今何を言っていたのかを尋ねたら、鷹音さんはどんな反応をするだろうと思った。
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