ACT6-3 彼女の部屋

 酒井さんは鷹音さんの身体を拭いてくれたあと、少し話をして、先に帰ることになった。


 鷹音さんには休んでいてもらって、俺が酒井さんを玄関まで送る。


「今日はありがとう。千田くんがいなかったら、私鷹音さんに会えずに帰っちゃってたと思う」

「俺の方こそありがとう。俺だけだったら、できなかったこともあったし」


 さすがに彼氏でも、まだ鷹音さんの身体を拭かせてもらえるような立場ではない――と思う。


 高校生ともなるとそんなこともないのか、人それぞれなのか、こんな状況に遭遇すること事態が珍しいのか。いずれにせよ、大事なのは鷹音さんの気持ちだろう。同性にお願いした方がいいことはある。


「……私だけ鷹音さんの……その、見ちゃったけど、何も変なことは考えてないから」

「っ……そ、それは当たり前というか……いや、酒井さんにそういう趣味があったら、それは否定できないけど」

「ち、違う……そうじゃないんだけど、中学の時は、私があんまり鷹音さん鷹音さんって言うから、噂が立っちゃったことがあって。とにかくそういうのじゃないの、私は純粋に鷹音さんのために何かがしたいの」

「酒井さんが、そこまで鷹音さんを……その、慕ってるのはどうしてなのかな」

「……小学一年生の時から、同じクラスで。鷹音さんはその頃から凄い人で……私は、こういう人がいるんだって本当に衝撃で。勉強もできるし、走ったら誰より速いし、泳ぐのまで上手で、絵も上手いし字もきれいで。私、鷹音さんの字を見習って書いてたら、習字で賞をもらえたくらいなんだから」


 鷹音さんが凄いというのは分かっていたが、そこまでとは――完璧超人と言って差し支えない物凄さだ。


 けれど、俺はもう知っている。鷹音さんがそれほどまでに完璧なのは、彼女がたゆまない努力をしてきたからだということを。


「それに、鷹音さんはピアノも上手で……小学校の時から、合唱の伴奏はいつも鷹音さんだった。男子も女子もみんな、鷹音さんのことを特別な人だと思って……」

「……酒井さんは、鷹音さんと友達になりたかったんじゃないかって、俺はそう思うんだけど」


 特別視ばかりしていたら『友達』にはなれない。友達とは何なのか、酒井さんと話しているうちに、俺の中でも答えが見えてきた。


 気の置けない関係であること。互いに、過剰な遠慮をするような関係じゃなくなること。


 ――そして、思い立ったら一緒に遊べるような、そんな関係だ。


「5月の3日に、クラスの友達と一緒に遊ぶんだけど……酒井さんは、何か予定はある?」

「え、ええと……3日というか、連休はずっと、お母さんの実家だから」

「そっか……それなら、別の時でもいい。俺が一緒じゃなくたっていい、酒井さんと鷹音さんは、ただ一緒に遊んでないだけで、もう友達なんだと思うから」

「……私が……鷹音さんの……?」

「そうじゃなきゃ、やっぱり、同級生に……さっきみたいなことは、頼まないんじゃないかな」


 何だか丸め込んでるみたいな感じになってないかと思いはする。酒井さんはもう帰るところだったのに、長く引き止めて話してしまってもいる。


 酒井さん自身も、それは感じているようだった。俺はそろそろ、鷹音さんのところに戻らなければいけない――その前に。


「……どうして千田くんなのかって、ずっと思ってた。でも、それが今ちょっと分かった気がする」

「それは……良かった、って言っていいのかな」

「私はそうだと思うよ。これから、読書部でも一緒なんだし」


 酒井さんはそう言って――俺にとっては初めて見るような、人懐っこい笑顔を見せた。


 髪先をくるくるといじりながら、酒井さんはしばらく俺を見たあと、踵を返す。


「じゃあね、千田くん。鷹音さんによろしく」

「あ、ああ……また、部活とかで」

「うん、部活とかで。良かったら今みたいに、また誘ってよね。鷹音さんと遊べるときに」


 酒井さんは玄関から出ていく。門の施錠を確認するために、俺も後からついていかないといけないのだが。


 門を出て、こちらを振り返って手を振ってからも、ずっと酒井さんの足取りは軽く、いかにもというくらいに弾んでいた。

 

   ◆◇◆


 鷹音さんの部屋の前に戻ってきて、軽くノックをする。


「はい、どうぞ」

「お邪魔します……鷹音さん……」

「……はい。酒井さんに手伝ってもらって、さっぱりしました」


 そう言ってはにかむ鷹音さんを見ているうちに、俺はその場に座り込む――安心のあまりに。


「薙人さん……すみません、心配をかけてしまって」

「鷹音さんに会えて良かった。やっぱり俺、凄く心配だったから……いや、それは全然悪いことじゃなくて、俺にとっては大事なことなんだ」

「……大事なこと、ですか?」

「うん。その……何ていうか……『彼氏』が『彼女』の心配をするって、当たり前だし、そうじゃなきゃ意味がないって思う」

「……はい。ごめんなさい、元気になるまで会わない方がいいなんて……」

「それも、俺を心配してくれたんだって分かるから。でも俺は、やっぱり鷹音さんに会いたかったんだ」


 ここまできて、ようやく本音を言うことができた。メッセージじゃ上手く伝えられないことも、世の中には沢山ある。


「金曜日、一日鷹音さんがいなくてよく分かったよ。俺は鷹音さんに会ってから、ずっと鷹音さんのことを考えてて……そうすることが、自分の一部になってたんだって」

「……そんなに……私のことを、考えていてくれたんですか?」


 考えていた。考えるのが当たり前だ。


 けれど鷹音さんは、そう思っていなかったように思えた。彼女が『そんなに』という言葉を二つの意味で使っているなんて、考えすぎかもしれない――だけど。


 鷹音さんと、今話さなければと思った。オリエンテーリングの日、俺と朝谷さんが二人になったこと。鷹音さんがそのことを、どう思ったのかを。


「……あの、雨が降った日。クラスの子が怪我して、クラス委員の二人と伊名川さんが付き添うことになったんだ」

「……はい。朝谷さんも、後から教えてくれました。『ナギ君と一緒だったけど、二人でそうしようとかってしたわけじゃない。でも、ごめんなさい』と」

「そっか……朝谷さんらしいな」


 自分でそうしたかったわけじゃなくても、俺と二人だけになったことを、朝谷さんは鷹音さんに謝るべきだと思った。


 あの時、俺たちがどんなことを話したか。先生たちが探しに来てくれるまで、どんな距離でいたのか。それを考えたら、謝るべきだと思っても無理はないかもしれない。


 『友達』というだけではなかった。あの時の俺たちはきっと『元彼氏彼女』だった。


「私は……それを聞いた時、朝谷さんは律儀なんだって思いました。『友達』として、私たちのことを応援するって言ったことを、ずっと守ろうとしていて……」


 俺は朝谷さんのことを良く知ってるわけじゃない。何を考えているのか分からない、気持ちが変わりやすい人なのかもしれない、そう思ったこともあった。


 けれど今は、こうも思っている。何の理由もなく、一度言ったことを簡単に変えるような人じゃない。どれだけ本音が見えなくても、彼女は自分の中に確かな考えがあって、それを曲げないでいるんだと――今だって何もわからないのに、そう思っている。


「……私は、謝ったりすることはないって言いました。雨が降ってきたのは、怪我をしてしまった人がいたら、私も山口さんたちのようにしたと思います」


 それでも、誰も悪くなくても。誰かがそうしたいと望まなくても。


 あの雨の中で二人になったことを、朝谷さんは、鷹音さんに謝るべきだと思った。


「でも……朝谷さんが話しかけてくれて、私は……安心したんです」


 そう言う鷹音さんは、こちらを見てはいなかった。ベッドの上にいる彼女は、自分の手元に視線を落としていた。


「……『ナギ君を借りてごめんね』って。朝谷さんがそう言ってくれなかったら、私は家に一人でいたら、もっと違う気持ちだったと思いますから」

「……ごめん」


 謝るのは俺の方だ。何もやましいことはないとか、鷹音さんがそう言うなら、お見舞いはしない方がいいとか――こんなに不安にさせておいて、何も分かってないで。


 しかし、顔を上げた鷹音さんは微笑んでいた。その目が少し、潤んで見える。


「いいんです。こうやって、来てくれましたから……」


 風邪が伝染ってしまうかも、なんてどうでもいい。今大事なことはもっと他にある。


 今日ここに来なかったら、俺は後になって後悔しただろう。流々姉の言うことを受け入れずにいたら――考えただけで、自分がどこに立っているのかも分からなくなる。


「っ……薙人さん?」


 急にそんなことをしたら鷹音さんを驚かせる――けれども身体の力が抜けて、座り込んでしまう。


「……安心したんだ。こうやって話せて……それに、さっき倒れそうになった時だって、心臓が止まるかと思った。今、ここについていられて良かった」

「……両親は仕事で外に出ていて、午後からお手伝いさんが来てくれるんです。それまでは、寝ていたら大丈夫だと思って」

「ごめん、わざわざ出てもらったりして」

「いえ……謝ることなんてありません」


 鷹音さんが布団を出て、ベッドの端に座る。彼女はできるだけ目線を低くして、床に座っている俺に合わせてくれようとする。


「嬉しかったんです。薙人さんが来てくれるって言って、時間よりも少し早く来てくれて……少しでも早く会いたいって、玄関の前で待っていたんです」

「……そっか。ありがとう、待っててくれて」

「……はい。いつでも、待っていますから」


 俺たちは笑い合う。けれど鷹音さんの瞳が、急に変わる――見ているだけで、切なくなりそうなものに。


 鷹音さんが立ち上がる。


 そして彼女は、座り込んだ俺の後ろに寄り添うようにして、抱きしめてくれた。


 その身体は温かくて――寝間着だからなのか、柔らかな感触が、はっきり背中に感じられる。


「鷹音さん……」

「……今は、もう少しだけこうさせてください」

「っ……あ、ああ……」


 鷹音さんが、俺の首の後ろのあたりに頬を寄せてくる。こんなに大胆に――すりすりと、擦り寄せるようにして。


「ありがとうございます、薙人さん」

「こちらこそ」


 この時間が、少しでも続いてくれるといい。そう思いながら、俺は鷹音さんが過ごしてきた彼女の部屋を見て、改めてここにいられることに感激していた。


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