ACT5-4 夕暮れの意味

 去年のベストセラー『山羊と西瓜』は、本に没頭する男子高校生の主人公が、夏の間だけ街にやってきた少女との出会いと別れを経験する物語だ。


 出会いは深夜の河原で、少女が河に入っていくところを見た主人公は自殺かと思って止めようとするが、少女は自殺する気があったわけではなく「月が河に映っていたから」と言う。


 主人公はその後、何となく足を向けた街の図書館で少女と再会する。そして、幼い頃の主人公のあだ名を少女は口にする――というところで、部活の時間は区切りとなった。


「先に私が借りてしまってすみません、早めに読みますね」


 鷹音さんと隣同士で座り、一冊の本を読んだ。ページをめくるのは俺の役割で、鷹音さんが今のページを読み終わったら俺の肘をつつく、というルールが自然に出来た。


「ゆっくりでいいよ。俺も他の本を借りたし、積んでる本もあるしね」

「私も何冊か、読めていない本があります。一気に読んでしまうのが勿体なくて」

「そう、それもあるんだよな。面白すぎてもそういう気持ちになる。特にシリーズものの終わりが近づくと、最後の一冊で止めちゃったり」

「薙人さんがそれくらい夢中になる本って、読んでみたいです」

「たぶん気に入ってもらえると思うよ。まあ俺もメジャーなのから読んでるだけなんだけど」


 俺が持っている本の中で鷹音さんが興味のありそうなタイトルを上げると、今度借りたいという話になった――せっかく同じ部活に入ったんだから、その活動で時間を共有できるのは嬉しいし、本の話ができるだけで楽しい。


 話しながら昇降口に着いて靴を履き替え、俺は先に玄関から出て、鷹音さんが出てくるのを待つ。


 図書室を出るとき、中野さんと酒井さんは俺たちに気を遣ってくれたのか別行動になった。


 つまり今二人でいられるのは、鷹音さんが「今カノ」と言ってくれたからだ。


「俺も堂々と、彼氏って言えれば……」

「薙人さんは、そのままがいいと思います」

「っ……た、鷹音さん……」


 思わず呟いてしまったが、普通に聞かれてしまった。スッと俺の後ろから出てきた鷹音さんは――少し恥ずかしそうにしている。


「薙人さんが、私のことを彼女だと言ってくれたら、それは……凄く嬉しいと思います。でも、秘密にしていると、それだけ一緒にいる時間が大切に思えて……」

「酒井さんも、秘密にしたい方だって言ってたね」

「はい。秘密にしたいのに、酒井さんには言わなくちゃいけないと思って……我儘なんです」

「い、いや……そんなことないよ。鷹音さんが言ってくれた時、俺も嬉しかったし」

「……薙人さん」


 そうやって名前を呼んでくれるだけでも、心が動いている。


 こうして二人だけになると、どれだけ時間があっても足りないように感じてしまう。


 もう空の色が変わり始めている。夕暮れという時間の持つ意味が、いつの間にかこんなにも変わってしまっていた。


   ◆◇◆


 駐輪場に着いて、自転車を出す。


 今日も駅に送っていく、そう言ってもいいんだろうか。酒井さんに見られていたと分かっていて、それで今日も一緒に帰るのは、緊張感が足りないだろうか。


 思っていることを言い出せないうちに、歩き出す。校門を出る時、鷹音さんは、こちらに向けて小さく手を上げて言った。


「薙人さん、また明日」

「う、うん。また明日……」


 どちらも、自分の帰り道に向き直れない。ちょうど影ができたところにいる鷹音さんは、笑顔でいる――俺も、同じはずだ。


 寂しいとかそういうことは、簡単に顔に出すべきじゃない。鷹音さんだってそうだ――なのに。


 ――できるだけ、薙人さんと一緒に……いつも、そう思っています。


 駅に向かって歩いていこうとするとき、鷹音さんは、笑顔のままじゃなかった。


 自転車を押して、鷹音さんに追いつく。横に並んだ俺を見て、鷹音さんが少し目を見開く。


「……ごめん。やっぱり俺、もう少し一緒にいたいみたいだ」

「っ……」


 『みたいだ』なんて、まだ格好をつけてる言い方だ。


 少しでも長く、鷹音さんといたい。流々姉が夕食の準備を始める前には、手伝うために家に戻らなければとか――それを覚えていたって、もう少しだけ時間が欲しい。


 俺たちはゆっくり歩き続ける。駅に向かうなだらかな下りの道――やがて、信号で足が止まる。


 鷹音さんが俺の後ろに回る。そして、俺が振り返ろうとすると――制服の裾をきゅっと握って、彼女は言った。


「……駅まで一緒に……いいですか?」


 鷹音さんも、そう思ってくれていた。それが嬉しくて、さっき別れる時の作り笑いなんかより、ずっと自然に笑うことができた。


「うん、ぜひ。鷹音さんは、今日習い事があったりはしない?」

「今日はゆっくり帰っても間に合います」

「そっか。どうしても急ぐ時は、最終手段の二人乗りを……っていうのは駄目か」


 二人乗りをしているところを見られたら、それは問題だ。見られなければいいとは、鷹音さんは思わないだろう。


 けれど彼女は、俺の自転車の荷台を見て、楽しそうにしながら言った。


「そうやって自転車に乗るの、本当は……少し、憧れていました。私が前に乗ってもいいくらいです」

「……俺を乗せて漕ぐのは、結構大変だよ?」

「はい、大丈夫です。体力には自信があります」


 実際に二人乗りをするかどうかよりも、そう言う鷹音さんが、ひたすら――そんなことを言ったら、彼女は困ってしまうだろうけど。


「……可愛いが過ぎる」

「……あっ……あ、あの。薙人さん、聞こえてしまってます」

「っ……ご、ごめんっ……!」


 迂闊にもほどがある、思ったことが口をついて出るとか、漫画じゃないんだから。


 これは鷹音さんにも訝しまれてしまう――なんていうこともなく。


 彼女は口元を隠して、楽しそうに笑う。けれど笑っているところを見せるのも恥ずかしいみたいで、すぐにハッとしたように頬を赤らめる。


「す、すみません、失礼ですよね、笑ったりして……」

「そんなことないよ。俺は、鷹音さんが笑ってるところを見るのが……」


 ――言いかけたところで、信号が変わる。後ろから来ていた人が俺たちの横に回って、それで気づいて、俺たちも歩き出す。


「薙人さん」


 俺の後ろについて、裾を引いて歩いていた鷹音さんが、隣に並んでくる。


「……こんなふうに笑ったのは、凄く久しぶりです。薙人さんのおかげですね」


 ただ俺は、思ってることを言ってしまって、道化じみてると自分で思うところなのに。


 鷹音さんがそう言ってくれるなら、笑ってくれたのなら、それだけで嬉しくて。


「薙人さんにも、笑ってほしいです。どんな時に楽しくなりますか?」

「……今こうしてるだけでも、かなり楽しい……というか……」

「……というか?」


 学校でお預けされた分だけ、素直に言ってもいいはずだ――これくらいは。


「鷹音さんと一緒にいるだけで楽しい。教室でも、部活の時も、今も」

「……そうですか」


 淡々としてるみたいな、鷹音さんの答え。そうじゃなくて、もっと具体的に俺が笑ったりするのはどんな時かを聞きたかったのか――と思っていると。


「……私も、隣で座っているだけで……でも、簡単に話しかけられないので、色んな方法を考えてます」

「それは……俺も、同じなんだ。だから、教室で普通に話したりする関係だって、周りに浸透させる方法はないかって考えたりして」


 秘密にはしたいが、せっかく隣に座っているのに話せない状況を変えたい――なんて、二兎を追うようなものだ。


「良かった……私だけ、焦っているんじゃないかと思って」


 しかし二人とも同じことを考えているなら、話は変わってくる。


「できるだけ自然に話せるようにするよ。意識してたりすると、その方が目立つだろうし」

「はい。でも、意識しないようにというのは、難しいです」

「そ、そっか……俺も簡単にはいかないだろうな」

「……でも、隣にいられるのは嬉しいです。薙人さんを、近くで見ていられるので」


 近くで――というと、俺が気づかない間にも、鷹音さんはこっちを見てるってことだろうか。これで意識せずになんて、ますます無理になってしまいそうだ。


 駅前プロムナードに入り、前に入った書店やカフェの前を通り過ぎる。それらを見ながら、鷹音さんがスマートフォンを取り出した。


「……最近、薙人さんと行ったところを、写真に撮ろうかなと思っているんです」


 場所の写真もいいが、鷹音さんと写真を撮りたい――なんて、普通に考えてしまう。


「薙人さん、少し止まってもらっていいですか?」

「ん? ……っ!?」


 立ち止まると、鷹音さんが俺の後ろにそっと寄り添う気配がした。背中に当たった感触は――いや違う、絶対にそうじゃない。


 カシャ、と音がする。それは、鷹音さんが手を伸ばして、こちらに向けて持っているスマホのカメラの音だった。


 自撮り――鷹音さんが。


 彼女がそんなことをしそうにないなんて、俺の思い込みで。一度目では上手くいかなかったのか、鷹音さんはスマホを両手で持って、難しい顔をしている。


「……上手く撮れるまで、やってみる?」

「っ……」


 通りを行き交う人のことも、もう気にすることはない。同じ学校の制服姿を見る度に緊張していたって仕方がない。


 大事なのは、鷹音さんが笑ってくれること。二人でいる時間に何ができるか、それだけを考えていたい。


「……もう一度、チャレンジしてみていいですか?」


 一度と言わず何回でもというのは、鷹音さんには難しいみたいだった。俺に近づいて、いっぱいに手を伸ばすだけでも、緊張で身体が震えてしまっていたから。


   ◆◇◆


 鷹音さんは自撮り写真を後から送ると言っていて、それが届いたのは、ちょうど夕食を終えて居間でくつろいでいるときのことだった。


 そして流々姉が例のごとく、後ろから忍者のように気配を消して忍び寄っていて――自撮り写真を表示した瞬間、ソファの背もたれを越えて俺の隣に座ってきた。


「うわっ……ちょ、流々姉っ……」

「もしかしてこれ、希ちゃん? 可愛いっていうか、天使……?」

「……もうちょっと経ったら、普通に見せても良かったんだけどな」

「あっ、なっくんが意地悪言ってる。お姉ちゃんだってのぞちゃんのこと知りたいよ? お休みの日に暇だったら、呼び出して一緒にお茶したりしたいもん。ていうかお茶する」


 どんだけ弟の彼女に関心を抱いているのか――決して悪いことじゃないが、いや悪いか。


「まあ、鷹音さんがいいって言うならいいけど、最初は俺も交えての方がいいな」

「なっくんって優しいよね。私が少し無茶を言っても、真面目に考えてくれるし」

「少しではないな。でも絶対駄目ってことでもないし、どうせなら監視しといた方がいいかなと思っただけだ」

「なんて言ってて、荷物持ちでついてきてくれるんだよね。のぞちゃんも好きになっちゃうよ、それは」


 それはどうだろう――というか流々姉の『のぞちゃん』と言い、中野さんの『のぞみん』といい、みんな鷹音さんと仲良くなりたがりすぎだ。それだけ鷹音さんに魅力があるということなのだろうが。


「あ、流々姉の弁当、今日はちょっと事情があって、鷹音さんには食べてもらえて――」


 ない、と言う前に流々姉が動き出し、ふわっと両腕を広げたかと思うと――一気にヘッドロックをかけられた。


「のぞちゃんに食べて欲しかったのにー! でもなっくんが全部食べたならいいよ」

「全然良くないだろ……っ、弟に技をかけるのはそろそろ卒業を求める……っ!」

「運動はストレス解消にいいんだよ?」

「他の方法があるだろ……っ、ぬ、抜けそうで抜けない……っ」


 ――結局、流々姉が風呂に入ると言って居間を出ていくまで技をかけられた。


 弁当のことは律儀に伝えるべきではなかったか。そんなことを微妙に反省しつつ、鷹音さんに写真のお礼を伝えるために、スマホを持って二階の自室に向かった。

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