Interrude1 希と霧

 朝谷さんと学食のテラスで話した日、私は家に帰ってからも、朝谷さんと電話をした。


『ワイヤレスイヤホンって、何かしながら電話できるからいいよね』

「そうですね……朝谷さん、体操は毎日しているんですか?」

『うん、お風呂に入る前とかにちょっと汗かきたいときとかね』


 朝谷さんはタンクトップにスパッツというラフな格好で、自分の部屋の床の上で体操をしていた。その光景が、ビデオ通話でスマートフォンの画面に映っている。


 私がピアノを弾く部屋にいるのは、お互いの家での過ごし方を見せ合うという話になったからだった。普通の友達でもそんなにしなさそうなことを、朝谷さんとしている――芸能人で、まだ知り合ったばかりで、薙人さんの元カノの彼女と。


 けれど気を張ったりすることはなくて、彼女と話しているとき、私は自分が想像していた以上に落ち着いていた。


『私がやってるのはピラティスっていうんだ。鷹音さんも興味ある?』

『はい、朝谷さんはどこかで習ったんですか?』

『ダンスの先生が教えてくれて、それで家でもやるようになったんだけど。私も教えられるし、駅前にスタジオがあるからそこで習ったりもできるよ』


 朝谷さんはとても身体が柔らかい。新体操部に入っても通用しそうに見える。私も特別硬いというわけではないけれど、身体が柔らかい人には憧れがあった――薙人さんも、先輩に押されてもびくともしなかったけれど、実際は凄く柔らかかった。


『鷹音さんも知ってるかもしれないけど、ナギ君って実は運動神経すごくいいんだよ。お姉さんと一緒にジムに通ってて、今でもそうなのかな』

「はい、中野さんが話してくれて、それで私も知りました」

『そうなんだ。唯ちゃんって色々話してくれるし、優しい子だから、同じ部活に入ったら仲良くしてあげてね』

「私も仲良くできたらいいなと思っています。そのポーズは、なんだか猫みたいですね」

『そうそう、女豹のポーズみたいな。正式な名前はスイミングって言うんだって。鷹音さんって猫好きなの?』

「猫も好きですが、子供の頃から犬が家にいるので、どちらかといえば犬が好きです」

『どんな子か見たーい。うちの子も見せるね、ベッドの上にいるから。おいで、セナ』


 朝谷さんが手招きをすると、白い毛並みの猫が画面に入ってきて、体操をしている朝谷さんの膝にすりすりと頬を寄せる。


『まだ1歳になったばかりなんだけど、可愛いよね。でもこれくらいで、もう人間の高校生くらいなんだって』

「そうなんですね……セナちゃんは男の子ですか?」

『ううん、女の子。この子の写真、一度だけSNSにあげたら凄くバズっちゃって。こんな可愛い子なのに、置いていっちゃうなんて寂しいにゃ。本当のお母さんはどこにいるのかにゃ、元気にしてるかにゃ』


 セナちゃんは生まれたばかりの子猫のときに飼い主に捨てられてしまって、朝谷さんのお家で育てているそうだった。


 彼女が猫と遊びながら体操をしているところは、目が離せないくらい優しくて、素敵な光景だった。


『え、えっと……あはは、ごめんね。つい猫と遊んでるとこんな感じになっちゃって』

「いえ、分かります。私もこの子が小さいときは、そんなふうに話しかけていましたから」

『あ、シーズーちゃん。可愛いよねー』

「ココアと言います。ビデオ通話は珍しいので、気になっているみたいですね」

『あーかわゆ、目がキラキラしてる。希ちゃんが大好きっていう顔してる』

「セナちゃんも霧ちゃんが大好きっていう顔ですよ」

『ほんとー? って、私たち今日はライバルだねって話したのに、結構まったりしちゃってるね』

「……それは私も思っていました。でも……」

『……こうして話せてるだけで、嬉しい。鷹音さんが私のこと真剣に怒ってくれたことも嬉しかった。私はやっぱり間違ってるんだって、よく分かったから』


 朝谷さんが薙人さんに思っていることを全部言わなかったこと。『友達』に戻らなければならない理由を伏せて、突き放すようなことをしたこと。


 そうやって自分の心に嘘をつくことを、間違っていると言うのかはわからない。


 朝谷さんは自分のためだけに嘘をついたわけじゃなくて、薙人さんのことを思っていたからこそ、彼との関係を告白される前に戻そうとした。


(……薙人さんから言ってもらえるだけで、凄く嬉しいことなのに。私は、それくらい薙人さんに想ってもらえるのかな)


『鷹音さんもナギ君に助けてもらったことあったって聞いて、やっぱりナギ君ってそういう人だよねって安心したの。私がそんなこと思う資格ないのに』

「……今日お話していたときは、『本当は私もナギくんと一緒に帰りたいし、一緒の部活がいいし、お昼だって一緒にしたい』と言っていませんでしたか?」

『うう、痛いところを……ほんとは言わずにおきたかったのに、鷹音さんが言わないと寝かさないっていうから』

「そんな言い方はしていませんが……聞けて良かったです。そう思っていて薙人さんと話すのと、秘密にしているのとでは違いますから」


 そう言っても、私たちはライバルで、お互いに秘密にしたいこともあると思う。


 薙人さんとデートをしたとか、一緒に何をして過ごしたとか――それは全部は教え合わなくてもいいルールにした。


『でも、言っちゃったのは、そういうことは絶対しないってことだから。ラジオの収録が終わったあと、迎えが来るまでナギ君が一緒にいてくれただけでも、鷹音さんに悪いなって思ってドキドキしてたしね。小心者だよね……』

「あんなに堂々とテレビに出ている朝谷さんなら、そんなことはないと思います」

『テレビは今でも緊張するけど、それとはまた別。もう私は思い知っちゃったんだ、恋愛をしたら自分が弱くなるっていうこと。弱いし、卑怯だし、もう見てらんないよね。ドラマの登場人物とかだったら、絶対嫌いになるし』

「けれど……弱いところがあるのは、誰でも同じです。だから、そういう人に共感を覚えたり、感情をぶつけたりしてしまうんだと思います」

『うんうん、そう……今の私がドラマで演じてる役は、脚本の時点で好かれるようにっていうふうに書いてあるんだけどね。義理のお兄ちゃんを好きになって、気持ちに気づかれる前に身を引いちゃうの。私もそんなふうにしたらいいのかなって思ったりして。演じてる役に影響されて、大事なこと決めるのも変だよね』


 二人で話す前よりずっと、朝谷さんは自分の気持ちを隠さずに言ってくれている。


 薙人さんには教えられない、いつか自分で話すかもしれないし、本当はそうならない方がいいと思ってる――朝谷さんはそう言っていた。


 私は、朝谷さんの背中を押さない。朝谷さんも本当は、私と薙人さんがお付き合いをしているのを見ているだけではいられない。


 ――だから、私は。


「私は、薙人さんの一番好きな人になれるように頑張ります」


 朝谷さんはビデオ電話の中で体操を止めて――体操座りをして、スマートフォンを手に取る。


『私はそれを、ずっと見てる。見てるだけでいいのかって、鷹音さんは言ってくれたけど……私の気持ちは閉じ込めちゃいけないって許してもらえただけで、十分だから。もったいないくらいに、優しくしてもらったから』

「……どうしても好きな気持ちを隠せなくなったら、どうするんですか?」

『あはは……それはちょっと、今は考えられないかな。ナギ君が私を友達として認めてくれるかどうかが、まず高いハードルだしね』

「そんなことは無いと思います。『友達』の距離感について、悩んでしまうかもしれませんが……」

『鷹音さんは、私よりナギ君のことずっと良く分かってるよ。そういう人が傍にいてくれたら、毎日楽しいと思うし、幸せに……えっと、またそういう方向に考えが行っちゃうんだけど。負けぐせがついちゃったのかな』

「……そんなことはないです」


 きっかけさえあれば、朝谷さんは薙人さんに本当のことを言えるかもしれない。


 そうしたら――私は、薙人さんの彼女でいられなくなってしまう。想像しただけで胸が痛くて、けれど朝谷さんとこうして話していることを、後悔する気持ちにはなれない。


『……そうだ。恥ずかしいけど、伝えておくね。私、ナギ君とちゅーとかはしてないよ。もちろん、えっと……その先のこととかも』

「っ……そ、そう……なんですね……」


 それは、気になっていても聞いてはいけないことだと思った。それくらいはあってもおかしくないと思っても、考えないようにしていた。


 でも、無いと言われると、安心するのと同じくらい――こんなに好きになった人に、そういうことをしなかった薙人さんが、どんな思いでいたのかを考えてしまう。


 大切すぎて、触れられなかった。もしそうだとしたら、朝谷さんは――そこまでを想像しようとするのは、たとえ『友達』でもしてはいけない。


『それはそうだよね、告白してもらったあと、デートできなかったから』


 「しなかった」じゃなくて「できなかった」と朝谷さんは言った。


 デートをするつもりが無かったわけじゃなくて、彼女もしたいと思っていた。けれど、できなかった――それなら、朝谷さんより前にお付き合いをした人がいなかったら、薙人さんはまだデートをしたことが無いかもしれない。


『……ナギ君とデートしたら、どこに行ったか……う、ううん、聞いちゃだめだよね、そういうのはね。はぁ~、でも気になる。隠れてついていきたいくらい』

「そ、それは駄目です……恥ずかしいですから」

『ナギくんもだけど、鷹音さんがどんな服着ていくか気になる。鷹音さんなら読者モデルできると思うし、私がお仕事してた雑誌社さんに紹介しちゃったりして』

「い、いえ。私は、人前に出るのはあまり向いていないので……ピアノの発表会でも緊張しますし」

『そうだ、鷹音さんピアノ弾けるんだよね。大きいピアノが映ってるから、ずっと気になってたんだ』


 ――子供みたいに目をきらきらさせて、猫のセナちゃんと一緒に、朝谷さんが期待するような目でこちらを見てくる。


『セナも聞きたいよね、鷹音さんのピアノ。希ちゃんのピアノ、聞きたいにゃん』


 セナちゃんを抱えて、腹話術のようにする朝谷さん。そんな姿を見ていると、プライベートでは薙人さんのためにだけ弾くんですとは言えなくなってしまう。


「どんな曲が良いですか?」

『え、ほんとにいいの? じゃあね、ゆったりした曲がいいかな』


 朝谷さんのリクエストに応えて、私は少し考える。選んだ曲は、朝谷さんのCMを動画サイトで見たときに、ふと開いたドラマPVのイメージ曲。


「あ……」


 出だしの部分だけで自分が出ているドラマの曲だと気がついたみたいで、朝谷さんは嬉しそうに微笑む。そして、セナちゃんを抱いたままで目を閉じて、私のピアノに耳を傾けてくれた。



 明日の放課後、朝谷さんは、私と一緒に薙人さんと待ち合わせをすることになっている。場所は、薙人さんがいつも自転車を置いている駐輪場。


 朝谷さんが、今薙人さんに伝えたいこと。それは、変に距離を取ったりせずに、『友達』らしく傍にいたいということ。


 そして薙人さんのことを、今も嫌いになったりはしていないこと。直接的な言葉にできなくても、できるだけの範囲で頑張ると言ってくれた。


 薙人さんは、すごく驚くと思う。私と朝谷さんがどんなことを話したのか、どうして私と朝谷さんが、前よりも仲良くなっているのか。不思議に思うようなことばかりで、戸惑わせてしまうと思う。


 薙人さんが朝谷さんを大切に思っているのが分かるから、私もそうしたい――なんて、自分でもきれいごとを言っていると思う。


 それでも私は、朝谷さんに絶対負けない。


 朝谷さんが薙人さんと友達の距離を保っていたら、いつか朝谷さんが本当のことを言える時が来るかもしれない。


(……それでも、絶対に渡したくない。絶対、負けたくない……例え『友達』として、これから朝谷さんと仲良くなれても)


 これまでの私は、薙人さんがただ好きだというだけで、一緒にいたいとだけ思っていた。


 これからは朝谷さんとも友達として、同じ学校での三年間を過ごす。


 あまり薙人さんに心配はかけられないけれど、恋は戦争だと思う。もう、少しも気を抜いたりはできない。



 そんなことを考えて悩んでしまって、ベッドに入るのがいつもより二時間も遅くなってしまった。薙人さんの隣の席にいるうちは、決して授業中に眠ってしまいそうになるとか、恥ずかしいところは見せられない。


 ――見せられないけれど。


 薙人さんあなたのせいで眠れなくなっているんだから、ほんの少しくらいは、見なかったふりをして欲しいと思った。

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