ACT3-5 答え合わせ 希の視点

 薙人さんは朝谷さんの公開収録を見に行ったあと、帰り道にすぐ電話をしてくれた。


 ――朝谷さんは大丈夫だった。出待ちの人たちにも絡まれずに済んだよ。


 ――その後は、すぐ解散したんだ。今は家に帰ってる。


 詳しいことは聞かないでおこうと思った。それでも、一つだけは確かめておきたかった。


 ――公開収録は、どうでしたか?


 ――やっぱりさすがだと思ったよ。


 それは率直な感想だと思う。けれどその続きとして薙人さんの言ったことが、私の胸にずっと引っかかっていた。


 ――やっぱり、同じ学校だけど、違う世界の人っていう感じがした。


 素直な賛辞だと思う。薙人さんは思ったことを言っているだけ――けれど。 


 『お付き合いをしている人』に、そうやって思われていたら。


 朝谷さんが、薙人さんにどう見られているのかを知っていたら――どんな気持ちになるのか、私には想像することしかできない。


 その日の夜は、薙人さんに電話をしないで、お風呂場で長い間考え事をした。


 気づくきっかけなら幾らでもあった。朝谷さんは、よく考えてみれば、何も隠してはいなかったから。


 私と薙人さんが二人で掃除をしているとき、図書室に来た理由。


 私の前で、自分のことを薙人さんの『元カノ』だと言った理由。


 友達が薙人さんに対して失礼なことを言ったとき、朝谷さんはちゃんと否定していた。


 勉強を教えてもらっているときの、朝谷さんの表情。


 ――私たちのことを応援すると言ってくれたときの、笑顔。


「……二人は何か、すれ違いを……そういうことなんでしょうか……」


 湯船に浸かったまま、ずっと考え続けている。


 私はまだ、薙人さんのことも、朝谷さんのことも、一部しか知ることができていない。


 薙人さんは誠実な人。朝谷さんが振るのは、私にはとても信じられないことで、男性に対する価値観が対極なのかもしれない。


 けれど、朝谷さんが薙人さんに異性として興味がないなんていうのは違うと思う。


 本当に興味がなかったら、応援するなんて言わない。


 体力テストの時だって、一つの種目も手を抜かないで私と競っていた。運動には自信があったのに、朝谷さんはどの種目でもついてきて、凄く器用で、何でもできる人だった。


「……薙人さんが、好きになっても仕方ないです」


 何でもできるのに、おごらない。勉強が少し苦手でも、同じ学校に入学しているんだから、朝谷さんも勉強すればそれだけ身につく力がある。


 でも、それなら、どうして薙人さんに勉強を教わっていたのか。


 あえて薙人さんに教えてもらっていたなんて、そんなことは――。


「……もし、そうなら……」


 朝谷さんは完璧な人。考えていることを表に出さないように、コントロールできる人。


 だから、本音を隠しすぎてしまうんだとしたら。


「そんなこと……私には……」


 もし、私が想像している通りだったとして。


 朝谷さんには、薙人さんとお付き合いができない理由があって、それを言えなかっただけだとしたら。


 私が薙人さんと出会わなかったら、本当のことをいつか言うつもりだったのなら。


のぞみ、そろそろ上がらなくて大丈夫? だいぶ長く浸かってるみたいだけど」

「あっ……は、はーい。今上がるから……」


 浴室の外からお母さんの声が聞こえる。けれど立ち上がろうとしたところでくらりとして、へたり込んでしまう。


「どうしたのー?」

「……大丈夫……」

「そう? それならいいけど……」


 こんなにのぼせるくらいお風呂に浸かったのは初めてだった。


 きっと私と同じくらいに、朝谷さんも悩んでいると思う――薙人さんも。


 今日、薙人さんと電話をしたとき、彼の声はとても辛そうだった。それは、朝谷さんのところに行くことを、いけないことだと思っているから。


 その気持ちは、凄く嬉しかった。私に内緒にしておくこともできたのに、薙人さんはそうしなかった。


 でも私は薙人さんに返事をするとき、落ち着いていられなかった。普通に話そうとするだけで精一杯だった。


「……ちゃんとしないと……私は……」


 私は薙人さんが好き。そう自覚してから、彼のために何ができるかを考えている。


 これは、彼のため。


 でも、それ以上に――私のため。


 浴室を出て、バスタオルを羽織って、鏡を見る。


 朝谷さんと話して、『今カノ』として、知っておきたい。


 彼女がどうして薙人さんを振ったのかを。




 月曜日。薙人さんの隣の席で授業を受ける間も、私は放課後のことを考えていた。


 薙人さんに言うかどうか、繰り返し迷って――最後には、言わないと決めた。


 彼に心配をかけることは間違いなくて、それは私の望むことじゃない。


 朝谷さんが薙人さんに話せないことを、話してもらう。そのためには、薙人さんには今はまだ秘密にしないといけない。


『鷹音さん、今日の放課後は予定ある?』


『図書室で勉強していこうかと思ってるんだけど、一緒にどうかな』


 薙人さんからのメッセージ。私はそれに『明日なら大丈夫です』と返信しないといけなかった。


 朝谷さんに声をかけたのは、移動教室のとき。ほんの少しだけ、朝谷さんが一人になった時に話しかけることができた。


 ――今日はレッスンがあるから、六時までならデートできるよ。


 朝谷さんは柔らかく微笑んで、そう言った。何でもないことみたいに。


 放課後の学校で、人の目につかない場所。学食のテラス席――そこで、私は朝谷さんと待ち合わせをした。




「……お待たせ」

「ご足労いただいて、ありがとうございます」


 席を立って、朝谷さんを出迎える。彼女はスクールバッグを置いて、私の向かい側の席に座る。


「話したいこと、分かってるよ。ナギ君、鷹音さんに言ってから来たんだもんね」

「……怒っているとか、そういうことではないです」

「うん、それも分かってる。鷹音さんは、そんなに心が狭い女の子じゃないよね」

「いえ……朝谷さんは、何も分かってないです。私たちは、知り合ったばかりなんですから」

「そうかな。一緒にいて時間が経ったら、それだけ仲がいいってわけじゃないし」

「……そんなふうに、ただ一緒にいただけだったんですか? 朝谷さんと、薙人さんは」


 朝谷さんは微笑む――ここではないどこかを見るような目をしながら。


「そんなに、一緒にいたわけじゃないよね。私は天文部で、ナギ君は読書部だった。二つの部活の先輩たちが仲良くて、よく絡んでたんだよ。図書室でわいわいして、休みの日には校外でボードゲームしたりしてね」

「……羨ましいです」

「……鷹音さんは、そうやってみんなで遊んだりしなかったの?」

「いえ。色々なことをして、薙人さんと一緒に過ごせた朝谷さんが、羨ましいです」

「……そうかな?」

「そうです。だからどうしても、聞きたいんです。あなたが薙人さんを振ったのは、なぜなのか」

「それは……」


 朝谷さんは表情を変えずに、何かを言おうとした。けれど私は、それを遮って言う。


「……いえ。私が聞きたいのは、あなたが薙人さんを遠ざけようとした理由です」


 ――朝谷さんをよく見ていれば、分かること。


 彼女がどうして、振ったはずの薙人さんとの距離を、決定的に離れないように保とうとするのか。


 図書室のときのことだって、こう考えたら辻褄が合う。


「あなたは、私と薙人さんのことを知って、図書室に来ました。他の理由をつけていましたが……あれは、私に『元カノ』だと伝えるため、それだけのためです」


 朝谷さんは何も答えない。けれどそれは、答えを言っているのと同じだった。


 それなのに彼女は、いつもの笑顔を崩さないまま――こんなことを、平気な顔で言う。


「鷹音さんは、私がナギ君を振ったときのことって全部聞いてる? 私は、ナギ君に新しい彼女ができたら応援するって言ったんだよ」

「……それは……」

「当てつけみたいに『元カノ』って言ったように聞こえたのなら、私の言い方が悪かったよね、それはごめんね。でもね、鷹音さんが思ってるようなことは、私は考えてないよ。応援するって二人に言ったよね」


 朝谷さんの言うことには、ほころびがある。感情が、少しずつ隠せなくなってきている。


 ――そんなふうに、息継ぎもしないで、私を説き伏せようとするから。


 完璧な演技が、揺れる。けれど、ここで彼女に押されてしまったら、本音は二度と見えなくなってしまう。


「……どうして、中野さんにチケットを渡したんですか?」


 責めるような声にならないように言う。朝谷さんは答えない――答えられない理由は、一つしかない。


「あのとき図書室に薙人さんが来るかどうかは、事前に分かりませんでした。でも、朝谷さんは図書室にいて、中野さんとお話をしていました。どうして、いつもなら薙人さんに声をかけるのに、あの時はすぐに出ていったんですか……?」

「……期待なんて、してなかったよ? 鷹音さんの言う通り、唯ちゃんがナギ君にチケット渡すなんて、私は……」

「薙人さんは、朝谷さんを助けたいから、公開収録を見に行ったんです。けれど……朝谷さんが活躍しているところを見て、薙人さんも嬉しかったはずです。それは、あなたのことが……」


 それ以上先を、言えなくなる。


 朝谷さんの目が、変わったから――それ以上は絶対言ってはいけない、言ってほしくないと、そう言っているから。


 それでも、私は引けなかった。ここで朝谷さんから聞けなかったら、彼女は私にも、薙人さんにも、ずっと本当のことを言わないままになるような気がした。


「……薙人さんは、あなたが嫌いになったわけじゃない。今も、好きなままなんです」

「どうして、そんなこと言うの? ナギ君のこと、鷹音さんは……」

「好きだからです。だから……薙人さんが好きな人の、本心を知りたい」

「私は……どうしようもないよ。ろくに理由も説明しないで、ナギ君を傷つけるために呼び出して、それで振ったんだよ。私達付き合ってなかったよねって顔して、それでも新しい彼女ができたら、今度は『元カノ』って言ったりして……」

「……どうしようもなくなんて、ないです」

「っ……そうやって優しくされるようなこと、私はしてない……っ!」


 朝谷さんが立ち上がる。椅子が擦れて、音が立って――これは、演技なんかじゃない。


 朝谷さんが、私に感情をぶつけている。向き合うことが怖いくらいで、震えてしまうくらいの迫力――これが女優『霧谷乃亜』の本気。


 でも、引けない。私は、引かない――逃げたりしたら、薙人さんのそばにいる資格がなくなってしまう。


「……どうして怒らないの? チケットのことがなかったら、ナギ君が私のところに来たりはしてなかったよね」

「それは……私には、朝谷さんを責められないからです」

「そんなことないでしょ……今カノの鷹音さんが、嫌だと思わないわけない。それとも、私のところにナギ君が来たって大丈夫だって思ってた……?」


 私はやっぱり、まだ何も分かってなんてないのかもしれない。


 薙人さんに出会うまで、誰かを好きになったことが無かったから。


 朝谷さんの言う通りだった。私は不安になるのと同じくらい、薙人さんを信じていた。


 絶対に、帰ってきてくれる。私は、傷つかないで済む。


 そうなったときに、朝谷さんを傷つけるかもしれないと気づかないでいた。


「……ナギ君は、鷹音さんのことを大切にしてる。好きになってる。時間の短さなんて関係ない、私に告白した後よりずっと生き生きしてる」


 ――こんな気持ちを、自分だけが抱いていると思っていた。


 薙人さんのことを自分より知っている人がいるのは嫌。恋人として初めてすることを、一つでも多く手に入れたい。


 私の方だけ見ていてほしい。そのためにできることがあれば、どんなことでもしたい。


 けれど、違っていた。


 朝谷さんも私と同じことを思っていて、それでも、自分で薙人さんの手を放してしまった。


 言葉にしなくても伝わっている。朝谷さんの頬に、涙が伝っているから。


「……お願いだから、応援させて。二人が幸せだってところを、私にいっぱい見せて。私のことはナギ君に必要じゃなかったんだって、そう思わせて」


 テーブルに涙の雫が落ちる。


 綺麗な人は、涙を流すところでも、人の心を掴むことができるんだと思った。


 本当なら、恋敵が泣いていたって、手を差し伸べないものなのかもしれない――そんなのは朝谷さんの言う通り、必要のない優しさかもしれない。


 それでも放っておけなかった。


 同じ人を――薙人さんをこんなにまで好きになった人を、嫌いになれるわけがなかった。


「私は……朝谷さんに、本当の気持ちを薙人さんに言って欲しいです」

「……そんなこと、出来るわけ……」

「薙人さんは、許してくれます。朝谷さんが本当のことを言ってくれたのなら、振られたっていう誤解が解けるんですから」


 自分でも、信じられないようなことを言っていると思う。


 誤解ではないんだと思う。朝谷さんが薙人さんを振ったのは、決してつきたくてついた嘘じゃない。


 そうしなければならなかったから。嘘をつかないといけない理由があったから――。


「……聞きたいです。朝谷さんが、どうして薙人さんを振らないといけなかったのか」


 私はハンカチを出して、朝谷さんに差し出す。


 彼女はそれを見て、微笑む――儚いくらいに綺麗な、泣き笑い。


 そして私のハンカチを使うことは遠慮して、自分のハンカチを出して涙を拭いた。


「……かなわないな。初めて見たときから、鷹音さんのこと好きになれないと思った」

「……実は、私もです」


 朝谷さんが驚いたように私を見る。私は、とても人には言えないようなことを言ってしまっている。


 気になっている人に話しかける他の人に対して、良くない感情を持って――嫉妬をしていた。


「でも……今は、そうじゃないって思います。朝谷さんと、話したいんです」

「……鷹音さんは、お人好しだね。もし私が鷹音さんの立場だったら、めっちゃ酷いこと言うかもだよ。私って全然性格悪いし」

「それは……分かっています」

「あ、すっごい攻めてくる。やっぱり鷹音さん攻撃モードでしょ、手強いなー」


 私は微笑む――攻撃なんて、するつもりはない。攻めることはするかもしれないけれど。


「朝谷さんは性格が悪いんじゃなくて、素直じゃないんだということを、分かっています」


 朝谷さんは少し困ったように笑って、私から目を逸らす。そして、しっかり立て直してから対面の席に座り直した。


 ここで朝谷さんから本当のことを聞いても、薙人さんに教えられるのは、先になってしまうかもしれない。


 ――初めは好きになれないと思ったけれど、薄々と自分でも分かっていた。


「こういうふうに会ってなかったら、友達になれたかな」

「友達には、なれますよ。これからのお話次第かもしれませんが……」

「……そっか。じゃあ、何から話したらいいのかな」

「薙人さんと、出会ったときのことから……お話は、今日で終わりでなくてもいいですから」


 続きを聞くことができるのなら、今日は、時間いっぱいまででかまわない。


「えっと……飲み物買ってこよっか? ちょっと苦い缶コーヒー」

「いえ。それはまた今度、私が薙人さんに渡しますから」

「……駅で私が見てたこと、気づいてたんだ」

「はい。あんなふうに見ていたら、それは気がつきます」


 朝谷さんが私を見るときの表情が、変わっている。今までは、透明な殻に包まれていて、何を考えているかが見えなかった。でも今の飾らない笑顔が、彼女の素顔なのだと思う。


「役柄を演じている時も綺麗ですけど……素の朝谷さんは、もっと綺麗ですね」

「……鷹音さんが男の子だったら、今ので好きになっちゃう子もいそう」

「朝谷さんは……」

「……分かってて聞いてるよね?」


 朝谷さんが好きになる――好きになったのは、彼のことだけ。例え話でも、他の人を好きになったりはしない。


 彼女にはきっと薙人さんとの間に、大切にしたい、誰にも話したくない思い出があると思う。


 それを聞くことができなくても、彼女が話したいと思ってくれることなら、どんなことでも聞きたい。うらやんでしまうとしても、後悔したりはしない。


 私は薙人さんと、それ以上の思い出を作るつもりだから。

 

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