ACT3-4 ビター・スイート
『朝谷さん、急に連絡してごめん』
『俺も観覧に来てたんだけど、出待ちしてる人がいるから、できれば出る場所はスタッフ出入り口じゃないほうがいい』
『マネージャーさんが一緒だったら大丈夫だとは思うけど、念には念を入れた方がいいと思う』
『余計なお節介だと思うけど、どうしても伝えておきたくて』
メッセージに既読がつかないことも考えた。収録が終わったあとで、スマホを見てる時間なんて無いかもしれない。
それなら、俺があの出待ちの人たちを何とかするしかない――といっても、そこで待っていると迷惑がかかると言えば、喧嘩を売るのと同じだろう。
(……諦めてくれるといいんだが)
二重尾行みたいなもので、俺も彼らを見張っていると気づかれないようにするのは難しい。そのうち警備員でも巡回に来たら、俺の方が怪しまれることも――。
「っ……」
ポケットに入れていたスマホが振動する。朝谷さんから、返事が来ている。
『ナギくん、挨拶とかは置いておかせてもらって、聞いてもいい?』
『ああ、大丈夫』
『さっき収録を見てた人が、スタッフ出入り口の外で私を待ってるってこと?』
『そうだと思う。席が近くて、話し声が聞こえてきたんだ』
そこから次の返信が来るまで、少し間が空く。そのうちにスタッフ出入り口のドアが開く――出てきたのはスタッフらしい人で、ほっと息をつく。
『今日、マネージャーさんと一緒に来てないんだ。同じ事務所の子と急に仕事がかち合っちゃって』
『それなら、一人で出てこない方がいい。男の人が二人いるから。話が聞こえたんだけど、朝谷さんは直接話したりしないほうがと思う』
しばらくメッセージが戻ってこない。俺は物陰に隠れて、出てきたスタッフの人をやり過ごす――男二人も上手く隠れたようで、立ち去る気配はない。
『うん、分かった。そういうファンの人が来るのは、前にもあったから』
『こっち側にも階段があるから、そこから降りるね』
これでひとまず心配はなくなった――安堵の息をつき、可能な限り早く返信を打つ。
『俺は、二人が移動しないか見てるから。安心できるところまで行ったら、また連絡して』
『ありがとう』
出待ちを避けるためとはいえ、ビルの六階から階段で降りないといけない――その負担を考えると、リスクを覚悟して男たちをここから引き離すべきだったか。
――考えているうちに、思ったよりも早く朝谷さんから連絡が入った。
『ナギくん、ちょっと時間ある?』
『ビルの裏口から出ようと思うから、来てくれないかな』
ここまで来たら、迷ってる場合じゃない。朝谷さんを安全な場所まで送って、全てはそれから考える。
了解の旨を返信しようとしたとき、男たちがなかなか朝谷さんが出てこないことに痺れを切らしたのか、苛立った様子で口論を始める。
「何だよ、出てこねーぞ。もしかして別の経路とかあんのか?」
「じゃあビルの外で待ってりゃ出てくるんじゃん? 表と裏で張ってようぜ、バレないように」
(っ……まずい……!)
土曜日の昼間、このビルは四階までショッピング客で混雑していて、エレベーターは上がってくるのに時間がかかってしまう。階段を使って降りた方が早いくらいに。
公開収録に参加した客同士でいざこざを起こしたりしたら、それこそ朝谷さんに迷惑がかかるかもしれない。俺だって、そんなに血の気が多いわけでもない――面倒事はできるなら避けたい方だ。
今は何も考えずに、走る。全力で階段を駆け下りる――あの二人が、エレベーターで降りてきてしまう前に。
ビルの裏手に回る――ここでも多少は人の姿がある。朝谷さんが一人で大丈夫なのかと見回すが、最初はその姿が見つからない。
「……ナーギくん」
「っ……」
小さな声で呼ばれて、振り返る――すると、そこにはスタジオでの衣装ではなく私服に着替え、髪をまとめて帽子を被り、赤いフレームの眼鏡をかけた朝谷さんがいた。
距離を置いて見ただけでは、さっきまで収録をしていた『霧谷さん』と同一人物には見えない。しかし、近くでよく見られたりするとさすがにバレてしまうだろう。
「来てくれて、ありがとう……それで、その男の人たちって……」
「ビルの外で見張るとか言ってたから、鉢合わせしないようにしないと……」
言っている途中で、視線の先――ビルの裏手に回ってきたのは、さっきの二人組のうち一人だった。朝谷さんから見ると後ろ側なので、まだ気づかれていない。
「向こうに来てる。気付かれないように、ここを離れよう」
「でも、正面口には回れないんだよね……すごい人だかりになっちゃってて」
出待ちは二人だけじゃない。観覧チケットが当選しなかったファンの人たち、そして近くを通りかかった人達も、何事かと集まってきてしまっているようだ。
「……ナギくん、ちょっとだけ付き合ってくれる?」
「朝谷さん、何か良い方法が……」
ここから離れるための方法――人がいないビルの裏側から出るにも、せっかく撒いてきた男たちのうち一人が来てしまっている。
まだ、こちらには気づいてない。それなら、一か八か俺が気を引いているうちに――そう考えた時。
「……っ」
「一緒に行こ」
朝谷さんが、俺の腕を取る。その台詞で、演技のスイッチを入れたかのように――朝谷さんが、演じ始める。
それは『彼氏と一緒にデートに来ている少女』の役なのだろう。この陽気のせいで、朝谷さんはあまり厚着をしていない――腕に寄り添われると、触れてはいけない部分が当たってしまう。
「……今日は来てくれてありがとう」
「あ、ああ……」
「私に合わせて。ただ遊びに来ただけっていう顔してて」
いくら変装していたって、普通は横を通り過ぎれば気付かれるだろう。けれど『霧谷乃亜』は、その『普通』さえも、演技力でねじ伏せてしまう。
男は俺たちを見たにも関わらず、顔をしかめるようにしたあと、スマホを取り出す。
通り過ぎる一瞬、緊張がピークに達する――しかし。
「裏からも出てきてねえんだけど。表の方は? こっちにいねえんだからそっちだろ。ああもういいや、目立たないとこじゃねえと意味ねえし」
ビルから離れ、しばらく歩き続ける――休日の町は賑やかで、徐々に緊張が抜け、俺は隣を歩く朝谷さんを見やる。
「あ、あの……朝谷さん、もう大丈夫だと思うけど……」
「うん。ナギくんって、演技上手いね。すごく自然体だった」
「い、いや、俺は素人だから……それより、急にごめん、メッセージ送ったりして」
俺たちは歩きながら話す――朝谷さんは、駅の方に向かおうとする。
「仕事は忙しくなってきたけど、いつもマネージャーさんがついててくれるわけじゃなくて。今日みたいなこと、前にもあったから……ナギくんが教えてくれて、すごく助かったよ」
「……その……チケットは、中野さんから貰ったんだ。俺が代わりに来ていいのかって思ったけど、やっぱり……」
聞きたいことが多すぎて、けれどどこまで聞いていいのか分からなくて。言葉が上手く出てこない。
そんな俺を見て、朝谷さんは呆れたりせず、涼やかに微笑んでいる。
「私が、唯ちゃんに頼んで渡してもらったとか……そんなふうに思った?」
「……分からない」
「……言ってないよ、ナギ君に渡してほしいって。唯ちゃんにはチケット二枚渡したし、あの子も来てくれるって言ってたのにな」
気を回したのは中野さんで、朝谷さんは彼女に何も頼んでいない。
中野さんがそうした理由はおそらく、俺が今でも朝谷さんのファンなのだと思っているからだ。
俺が朝谷さんに告白して、すでに振られていることを知らなかったから、良かれと思ってしたことだろう――これで正解で良いと思う。
「あ……今の、言っても良かったのかな。唯ちゃんは悪くないよ、私が気を使わせちゃったんだよね、きっと」
「それなら……俺が来たこと自体は、朝谷さんは……」
チケットを渡していない俺が来たことを、どう思っているのか。収録の時に俺を見て笑ったのは、演技なのか――俺が見た通りに、自然体だったのか。
「……知り合いがいると、安心するよね。でも、ナギ君が見てると思うと、やっぱり緊張したよ。かっこ悪いところ見せられないし、でもポーズ取らないといけないし」
「あ、ああ……でも、見事に決まってたよ」
「ありがと。似合わないと思うんだけど、結構練習したから……あ、今間抜けな感じで想像したでしょ。私が鏡の前でこうやってるとことか」
朝谷さんが収録の時に見せたポーズを取る。
客観的に見てとか、世間一般的にとか、そういう前置きをしても、ファンみたいなことは考えてはいけない。そんなことをするために来たわけじゃない。
「ああいうのが苦手っていう感じは、全然しなかったよ。さすがっていうか……」
「……ナギ君は、私のこと何でも褒めてくれるんだね」
「そ、それは……何でもってわけじゃないけど……」
何でも良いとか、それでは何も考えていないみたいだ。およそ『霧谷乃亜』の活動について、俺は贔屓をなしにして見ているつもりだ。
――朝谷さんの表情が、変わる。本心の見えない笑顔の向こうに、何かが覗く。
「……鷹音さんのことも、そうやって褒めてあげてる?」
この流れなら、必ず彼女の話題に向かうと分かっていた。
朝谷さんの無事を確かめて、そして帰る――それだけで終わるつもりで、朝谷さんとどんな話をするのかなんて、考えられていなかった。
「……今みたいな言い方、良くないよね。分かってるんだけどね、私って性格悪いよね」
「俺は……鷹音さんに、いつも感謝してる。褒めてあげるとかじゃなくて……」
「そっか……上手くいってるんだ。ナギ君と鷹音さん、何ていうか、ペースが合ってる感じだもんね」
――それなら、俺と朝谷さんは、そのペースが合わなかったということなのか。
「鷹音さんは、今日のこと知ってる?」
「ちゃんと伝えてきたよ。鷹音さんは……『友達』の応援に行くのなら、行ってくるべきだって言ってくれた」
「そっか……鷹音さんらしいね」
この流れで、そんな話になることはない。そう思っていたのに、朝谷さんは俺の想像を外れて――隣を歩きながら、何でもないことのように言った。
「ナギ君、これからお茶でもしない?」
そんなふうに俺を誘ったりは、これまで一度もしなかったのに。
『友達』なら、一緒にカフェに行くくらいのことは普通だ。朝谷さんは俺にお礼をしようとしてくれているというのも分かる。
「感謝のしるしに、ケーキでもおごってあげる。甘いもの好き? それともご飯食べる? 何でもいいよ、私、お小遣いならそれなりに――」
朝谷さんが、はしゃいでいるように見える。
俺が、誘いを受けてくれると思って――だとしても俺は、それを遮らないといけなかった。
「落ち着ける場所まで送ったら、俺は帰るよ。迎えを待つなら、それまでは一緒にいる」
言葉が喉を通る時に、これほど痛みを感じたのは初めてだった。
朝谷さんの表情が、色を失う――けれど、それは一瞬のことで。
すぐにいつもの明るい表情に戻ると、朝谷さんは俺の腕からそっと離れた。
「じゃあ……今なら来られると思うし、お母さんに車で来てもらおうかな。駅前のロータリーまで行っていい?」
「ああ。そこまでは、俺も送っていいかな」
「うん。でも、お母さんには見られない方がいいかも。あの人、すぐ勘違いするから」
「分かった、気をつけるよ」
今度は二人で歩く――朝谷さんは並んでいるところが目立たないようにと少し前を行き、俺は後ろからついていく。
朝谷さんはロータリーに向かう途中で、自販機の前で立ち止まる。そして、定期入れを取り出した。電子マネーで飲み物を買おうとしているらしい。
「ナギ君、何か飲む? 走ってきてくれたから、喉渇いてるよね」
「いや、少し待ってるだけなら……」
「アイスコーヒーでいい?」
「っ……あ、ありがとう……」
冷たい缶コーヒーを受け取る。こういう時に甘い飲み物は喉が渇きそうだが、俺はあまり気にしない。
――しかし、違和感がある。
俺は朝谷さんにはどんな飲み物が好きだとか、そういう話はしていなかったはずだ。中学の時、読書部と天文部の交流会で一緒に買い出しに出たとき、お茶でもジュースでも何でも構わないと言ったくらいで。
この缶コーヒーは駅でだけ売っているものだ。他のものにするのか聞かないで、朝谷さんは一択でこれを選んだ。
「……飲まないの?」
「あ、ああ……ありがとう、朝谷さん」
缶コーヒーのタブを開けて、一口飲む。鷹音さんから貰ったコーヒーと同じ味だ――当たり前だ、同じ商品なのだから。
しかしじっと見られていることが気になって、いくらも喉を通らない。一気に全部飲む気にもなれない、少し時間を置きたい。
――そうして、一瞬気を抜いたのがいけなかった。
「美味しくなかった?」
「……あ……っ」
朝谷さんが、俺の手にある缶を両手で取る。そして、俺の見ている目の前で、飲み口に口をつけた。
白い喉が小さく動く。そして、彼女は、缶を俺に返してきた。
「……ちょっと苦いね。ナギ君、こういうのが好きなんだ」
苦いなんて顔はしていない。俺を見る、朝谷さんの目は――。
「私だって、知ってるよ。ナギ君のいいところ」
今さらそんなことを言われたって、何て答えればいいのか分からない。
それは友達としての言葉だ。けれど付き合っている時に言われていたなら、俺は違うように受け取っていた。
そんな『もしも』を振り切らないといけない。頭の中から完全に消してしまうために、ここに来たのに。
「……今日は、ありがとう。ナギ君が来てくれて良かった。頑張ろうって思えたの」
何を言えっていうんだ、そんな顔をして。
恋をしているような顔だなんて、そんな勘違いはとっくに終わっているのに。
「あ……もうすぐ、着くみたい。ちょうど向かってくれてたんだって」
「……分かった。じゃあ、また……学校で」
「うん。鷹音さんによろしくね、唯ちゃんにも」
朝谷さんが小さく手を振る。俺はロータリーを離れて、家の方向へ歩いていく。
白い車が滑るようにロータリーに入ってきて、朝谷さんが乗り込む。そして、すぐに走り去って見えなくなる。
もう少し早く、迎えに来ていてくれたら。そんなことは考えるべきじゃない。
朝谷さんは『霧谷乃亜』として知名度が高くなっている。それでも、事務所の人がついていられないことがある。
困った時はお互い様だ。それでも思う――あんなにあっさりと振られた俺が、今でも朝谷さんが心配だと言ってここにいるのは、滑稽なんじゃないのかと。
その考えを、この缶コーヒーと、朝谷さんの表情が否定する。
あれが演技だったのだとしても、彼女がどんなつもりであんな目をしたのか、今の俺には分からなかった。
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