ACT3-1 回想 夏の夜の花火

 初めは俺も知らなかった、朝谷さんが『霧谷乃亜』だっていうことを。


 芸名を聞いたって、まだ実感がなかった。彼女が本物の芸能人で、それが何を意味しているのかを。


 ――あの子、めちゃ可愛くなかった?


 ――どっかで見覚えあんだけど……あれって霧谷乃亜じゃね?


 ――え、あのCM出てる子? 嘘、同じとこ住んでたの!?


 あの日、俺は友達と夏祭りに来ていて――友達は同級生の女子を見かけたからと行ってしまい、一人で人いきれの中を歩いていた。 


 聞き間違いにするには、はっきりと聞こえすぎた。


 朝谷さんは友達とはぐれて、一人でいたのだと後から聞いた。その短い時間に声をかけられてしまうほど、すでに彼女は有名になってしまっていた。


 高校生くらいの男子が三人、朝谷さんに声をかけていて――彼女が戸惑っているように見えて。


 その時にはもう動いていた。顔見知りくらいではあったから、皆で一緒に来ていると言って――動けないでいる朝谷さんの手を引いて、人並みに紛れ、抜け出して、安心して話せる場所まで歩いた。


 夜の公園。向こうの通りは屋台で賑わっている――祭りからこれ以上離れたら、来た意味がなくなってしまう気がして、俺たちはここで足を止めた。


『お祭り、すごい人だよね。こんなに賑わってるなんて知らなかった』


 転校してきた二年生の時には、朝谷さんは祭りには行かなかったという。まだ友達がいなかったから、と言っていた。


『やっぱり、サングラスとかした方が良かったのかな。普段着だし、目立たないと思ったのにな』


 どう言っていいのか分からなかった。朝谷さんは何も悪くない、それを言っても彼女を元気づけることはできないと思った。


『……千田くんに、迷惑かけちゃった。ナンパの人くらい、自分で対応できるって思ってたのに。いきなり大声で芸名呼ばれて、頭真っ白になっちゃって』


 街灯の当たらないベンチに朝谷さんは座っていて、その表情は見えなかった。


 けれど、仕草を見ればわかった。彼女が泣いていることが。


 いつも周りの注目を浴びていて、期待や重圧をものともしない強さが彼女にはあって。


 でも、強いばかりではいられないのだとも、その時に気がついた。


『……オフの時はオフの時で、みんなも気遣ってくれたら良いのに。今の朝谷さんは、テレビに映ってる時とは違うんだから』


 思っていることを伝えるだけで精一杯だった。気づいても、見てみぬふりをしてくれていたら――そうしたら、逃げることは無かったのに。


『でもこういうアクシデントで、せっかくの祭りを楽しめないのは悔しいな』

『……千田くん』


 もう、彼女は人の多い場所に戻る気にはなれないだろう。


『朝谷さん、何か食べる?』

『え……いいの? 千田くんのおごり?』

『うん、何でも買ってくるよ。買ったらすぐ帰ってくるから』

『……ありがと。じゃあ、お使いに言ってきてくれるのなら、お姉さんがおごりましょう』

『え……』

『こう見ても、お小遣いは普通の中学生より多いと思うよ?』


 そう言って、朝谷さんはポーチから財布を出して、俺に代金を渡してくれる。


『あ……ご、ごめんなさい。あまり多く持ち歩くと危ないから、二千円しか持ってなかった』

『ははは……それなら俺の方が持ってるよ』

『むむ、お小遣いマウント? 普段なら私の方が持ってるよ、お仕事してるし』

『朝谷さんに本気を出されたら敵わないけど、今日は割り勘が良さそうだね』

『あー、カッコつけようと思ったのにめっちゃカッコ悪い……呆れてるでしょ、千田くん』

『全然そんなことないよ。でも、元気が出たみたいで良かった』


 ――そのとき、ヒュルル、と風切り音が聞こえて。

 

 夜空に白い光の花が咲く。花火は続けて打ち上がり、今度は色とりどりの光が散って、しだれ柳がパラパラと音を立てる。


『……みんなも、どこかで見てるかな?』

『そうだな……高台から見るって言ってたからな』

『千田君も友達とはぐれちゃったんだ。ごめんね』

『はぐれたというか……あいつら、祭りでテンションが上がってたのかな』

『ふふ、そうなんだ』


 もう一度花火が弾けて、光が、朝谷さんの横顔を照らす。


 映像の中で見る彼女が、そのまま抜け出してきたようで。まるで映画のワンシーンのようだと考えて――相手役が俺だなんて、不相応だと弁えて。


『……望遠鏡で花火を見たら、どんなふうに見えるかな?』


 俺はその問いかけに答えずに、朝谷さんの横顔を見ていることしかできなかった。


 時間の流れが、緩やかになる。花火の音が、光が、いつまでも繰り返すようで。


 朝谷さんが俺を見る。滲んでいた涙を拭い、空を指差して――そして、笑う。


 俺の心の中で何かが変わったのは、きっとその瞬間だった。


 彼女のことを、他の誰とも違う特別な存在なのだと、そう思った。


 そんな出来事は、通り過ぎた些細な記憶でしかなくて。 


 けれど朝谷さんに対する好意を自覚するまで、積み重ねた記憶の一つだった。




 目が覚めてから初めに思ったのは、なぜこんな夢を今さら見たのかということだった。


 未練なんてことはない、俺は鷹音さんに惹かれ始めている。朝谷さんに聞かれても、今ならそうはっきり言える。


 ――俺と鷹音さんのことを応援すると、朝谷さんはどんな顔をして言ったんだろう。


 鷹音さんが教えてくれたのは、そうするべきだと思ったからだろう。そうしたほうが、俺も安心できるだろうと。


 でも俺は、それを聞かなければ、こんなことを考えずに済んだと思ってしまっている。


 朝谷さんと、もう一度話すべきなんじゃないか。


 目を覆うほどの勘違い、自意識過剰だ。俺と鷹音さんのことを知って、朝谷さんの心境に変化があったなんてことはない。


 机の上に、裏返しで置かれたままのチケット。公開収録の期日は今日の午後2時、それを過ぎてしまえば、ただの紙切れになる。


 ――ナギ君にも言っておきたかったし。鷹音さんとのこと、応援するって。


「……そんなこと言われたら……」


 時間が経てば、忘れていくものだと思った。毎日その姿を見ても、苦しいとは思わなくなっていくだろうと。


 けれど『応援する』と言われたら、どうしても思ってしまう。


 朝谷さんは、俺を嫌って振ったわけじゃない。それなら、ファンとして彼女のことを応援することは、迷惑なことじゃないと。


 ただの社交辞令だ。別れた相手に執着されないようにしたい、それは当然の考えだ。


 このチケットを受け取ったことに義務を感じて、公開録音を見に行く。


 今日一日、家にいればいい。そうでなくても、公開収録の行われる駅ビルに向かわなければいい。


 中野さんには、行けなかったと伝えればいい。何も強制されてなんていない――そう考えたところで。


 メッセージが届いている。高寺から――俺が寝ている間、深夜に来たものだった。


『明日、のありんがラジオの収録やるって話だけどさ』


『なんかタイムラインに流れてきたんだけど、収録の後にのありんの出待ちするとか言ってる人がいるんだよ』


『そいつ、前にイベントで迷惑行為やってるらしいんだよ。万一ってこともあるし、しっかり警備とかしてくれてるといいんだけどな』


『千田、朝谷さんと仲いいだろ? だから、一応言っとこうと思って』


『おーい、もう寝てんの? 休みの前とかもう少し夜更かししようぜ? 俺だけ起きてんの寂しいだろ。ほんとは未読スルーしてない?』


 延々と続いて最後は『ちゃんと見といてな』で終わっているメッセージを見て、俺はスマホの画面をオフにして机に置いた。


 有名になってから――あの夏祭りの日を境にして、朝谷さんはそれまでとは少し空気が変わった。


 クラスでいつも明るく騒いでいるような男子グループが朝谷さんたちに声をかけても、彼女は会話に積極的に加わらなくなった。話を振られても愛想笑いをしているだけで、それまでのように、気兼ねなく話しているという様子ではなくなった。


 部活のメンバーと一緒にいるときは、彼女はリラックスしているようだった。俺に対しても接し方は変わらず、読書部と天文部の交流というフィルターを通すと、朝谷さんは以前と変わらないままでいられるのだと、俺なりに解釈していた。


 俺が特別なんだなんて、思ってはいなかった。それでも、機会は少ないとはいえ、朝谷さんが気兼ねなく話してくれることを嬉しいと思っていた。

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