ACT2-5 子犬の距離感・上
鷹音さんが後ろの席にいる渡辺さんと席を交代したのは、帰りのHRが終わったあとのことだった。
「渡辺さん、もう少し前に行く? あまり前でも緊張しちゃうかしらね」
「はい、後ろから二番目だと丁度いいです。ありがとう、鷹音さん」
「いえ、私こそお礼を言わないといけないです」
「え?」
「っ……そ、その、なるべく後ろの席が好きなので……」
隣で聞いていて、俺の方まで緊張してしまう――こちらはこちらで、高寺と荻島が話しかけてきているのだが。
「あー、ちょっと家帰るまで持ちそうにねえんだけど。一発キメてかね?」
「言い方。どこか寄って行く? ってことでしょ。今日は部活休みだし、僕はいいよ」
腹をさすっている高寺――買い食いはあまりしないが、たまには悪くないかもしれない。
荻島は担任の先生が出ていくまでは声を落としていたが、出ていったところで高寺の二の腕を小突く。
「
「高寺が気にしなさすぎなの。千田くんはどうする?」
「そうだな……」
鷹音さんの予定はどうだろう、と気軽に様子をうかがうこともできない。これが、皆に内緒にして付き合うということか。
逆に、普通に話をするくらいの間柄ということを徐々に浸透させていくべきだろうか。高寺と荻島に話すタイミングがあるのか――特に、出会いを求めている高寺には、慎重に伝えないといけない気がする。
「あ、そうか。千田、まだ部活決まってないんじゃね?」
「そっか、それなら一緒に見学行く?」
「いや、二人はもう決まってるから、付き合わせるのは悪いな。高寺も限界が近そうだし」
「悪いな、あと三十分以外にラーメン食わないと死ぬ身体になってんだ」
「ええ……買い食いでラーメンって、まあいいけど。じゃあ千田くん、今度は一緒に行こうね」
「ああ、また明日な」
一年生は部活無しだが、まだ決まっていない場合は見学に行くことができる。
「なべゆ、一緒帰ろー」
「うん。朝谷さんは、もう帰っちゃった?」
「ううん、どこか行くとこあるって行っちゃった。電話かかってきてたみたいだから、お仕事の関係じゃない?」
「うちらはどうしよっか、どっか寄ってく? あたしは時間あるけど」
「あ、鷹音さんもありがとう。なべゆと席変わってくれたんだよね」
「いえ、こちらこそ。私も後ろの席が好きですから」
鷹音さんの柔らかい受け答えに、三人は――驚いているというか、呆然としていた。
贔屓目もなしで言ってしまえば、見とれてしまっているというのか。
「……あっ、え、えっと……鷹音さんって、どうしてクラス委員にならなかったの?」
「あたしが言うのもなんだけど、立候補したら絶対当選してたよね」
今日のHRでクラス委員を決めたが、最初は誰も立候補をしなかった。
場の空気だけで分かる、皆が期待していたのは鷹音さんだ。
結果として、鷹音さんは立候補せず、前の学校でもクラス委員をやっていたという佐藤君と山口さんが手を上げた。
「あ、生徒会の役員に立候補するからとか?」
「役員は立候補とかないでしょ、二学期からは一年生も二人役員になるんだよね」
役員候補の生徒は一学期のうちから、生徒会役員の研修として生徒会室に出入りをすることになる。しかし、鷹音さんはそれにも首を振った。
「高校ではやってみたいことが色々あるので、生徒会には入らないつもりなんです」
「えっ……そ、そんなの勿体ないよ、鷹音さんみたいな人が……」
「まず、図書委員の活動を頑張りたいと思っています」
「そうなんだ……そ、そうだよね、委員会の仕事しながら役員になる準備もなんて、大変だもんね」
「ごめん、うちら勝手に鷹音さんのイメージ決めて、クラス委員やるんだろうなって……ちょっと恐れ多いと思ってたんだ、うちのクラスには霧ちゃんもいるのに、あたしがクラス委員ってどうなのって」
「みんな山口さんに投票していますから、大丈夫です。私にもできることがあったら言ってください、同じクラスの一員ですから」
まさに聖女――もしくは女神か。まだ残っているクラスの生徒まで、鷹音さんの一言で浄化されている。いや、俺も横で聞いている場合じゃなく、そろそろ席を立たないといけない。
「あ、あの……改めてごめんなさい、あの、朝の……っ」
「……あんなふうに聞こえよがしは、駄目ですよ?」
「やっぱり感じ悪かったよね、でも、つい出来心で……出来心でも駄目なんだけど……っ」
「え、何があったの? 鷹音さんに何か変なこと言ったとか? ごごごめんなさい、私も連帯責任で謝ります……っ!」
渡辺さんはあの場にいなかったと思うのだが、空気を察して頭を下げる。
クラスの女子の派閥的なものができてしまっているのかと思ったが、そうでもないようだ――それとも鷹音さんのオーラがそうさせるのか。
「では……一緒にいた千田くんにも、謝ってください」
「「あ……」」
山口さんと伊名川さんが、全く同じリアクションをする。俺はといえば、やはり早く離脱すべきだったと思いはする――だが鷹音さんの気持ち自体はとても嬉しく、複雑極まる板挟みだ。
謝ってくれとばかりに座っているのもなんだが、すでに山口さんも伊名川さんもこっちを見ている。そんな、視界の端で擦るような感じで見るのはやめてほしい。
「あ、あの……ご、ごめんなさい……」
「い、いや、俺は……そんなに気にしてはないから。鷹音さんに謝ってくれたのなら、それで……」
二人はほっとしたような顔をする。少し甘いだろうか、しかし『そんなに』とか言ってしまったし、二人ともさらに申し訳なさそうにはしている――しかし。
「せ、千田くんが霧ちゃんの友達っていうの知ってたんだけど……鷹音さんと一緒だったから、なんかいいのかなって……」
――そういう理由だったのか。この二人は俺のことを空気扱いしてたんじゃないのか、と一気に混乱してしまう。
「でもそうだよね、同じクラスだし。登校中に会ったら話くらいするよね」
「ま、まあ……俺が鷹音さんに話しかけるのは、確かに意外かもしれないけど」
「そ、そんなこと……ねえ?」
山口さんは伊名川さんに同意を求める。正直を言うと意外なのだろうし、俺と鷹音さんに接点ができるわけがないとは思っているようだ。
「じゃ、じゃあ……今度からは、変な勘ぐりとかしないから」
「あたしも鷹音さんを見習って、オーラのある女を目指したいなー」
「全然反省してないでしょ……もー、伊名っちったら」
三人は鷹音さんにはしっかり挨拶をして、教室を出ていく。しばらく鷹音さんの方に注目が集まっていたが、彼女が小さく咳払いをすると、慌てて皆が動き出す。
(……ん?)
スマホにメッセージが届く。何となく、周囲に悟られないように開いてみると――。
『部活の見学に行くなら、一緒に行っていいですか?』
「っ……」
思わず鷹音さんの方を見てしまいそうになる。見なくては始まらないのだが。
けれど顔が見られない。それでも何となく分かる、隣で鷹音さんがメッセージを打っていることが。
『今日は一緒に過ごせますので、廊下に出てから合流しましょう』
彼女はそこまで配慮してくれている。俺は『分かった、じゃあ外で』と返事をして、廊下に出る――行き先を告げてないが、ゆっくり歩いていれば大丈夫だろうか。いや、それにも限度があるか。
他のクラスの前を通り過ぎるが、まだ生徒が残っている。勉強を終わらせてから帰ろうという生徒や、友達と話している生徒、それぞれ色々だ。
中学のとき、廊下を通るたびに、隣のクラスにいる朝谷さんの姿を探そうとしていた。怪しまれないようにするとほとんど教室の中なんて見えやしないのに、それでも同じことを何度も繰り返していた。
そんな俺が朝谷さんと話すようになったのは、読書部と天文部の接点という、自分の努力とは関係のないところからだった。
――今から俺は、中学の時と同じ選択をしようとしている。
けれどそれは、中学と同じ状況になることを望んでいるからじゃない。朝谷さんの入る部活と読書部には、普通に接点はないだろう。
高校に入る前は、朝谷さんと同じ部に入ろうかなんて考えていた。そんなにベッタリとした関係性を朝谷さんは望まないだろうから、部活は別にした方がいいんだろうかとか。
全て、過去のことだ。思い出なんていうほど、センチメンタルなものでもない。
俺が勘違いをしていただけのこと。『好きだ』とそう言ってアドレスを交換して、春休みに会う約束をして、都合が合わなくなって。
彼女が『元カノ』と言うまで、俺たちには付き合っている実体なんてなかった。
「……くん」
声が聞こえたような気がした。
立ち止まるべきだ、そう思った。さっき鷹音さんと約束をしたばかりだから――しかし。
「……薙人さんっ……」
制服の裾を引かれて、一度目よりも小さな声が、それでも耳にはっきりと届いた。
周囲の喧騒が戻ってくる。グラウンドで部活をする生徒たちの声、遠くから聞こえてくる吹奏楽の音出し、誰かの楽しそうな笑い声。
後ろを振り返ることを、少しだけ躊躇した。教室を出ていくらも経たないうちに、また朝谷さんのことを考えてしまったことが、自分でも分からなかった。
それでも振り返る。できるだけ自然に、何事も無かったみたいに。
「……薙人さん」
もう一度俺の名前を呼ぶ。ここでは『千田くん』と呼ぶべきで、彼女もそれは十分に分かっているはずだ。
それでも下の名前を呼ぶ彼女の気持ちを思うと、胸が締め付けられる。
「すみません、勝手に付いていくと言ったりして……」
「いや……ごめん、俺こそ」
「そ、そんな、薙人さんが謝るようなことは……」
お互いに、謝り合ってしまっている。どちらかといえば、すぐに返事ができなかった俺が悪くて――けれど。
「……ふふっ」
「……鷹音さん?」
鷹音さんが笑う。俺の一挙手一投足に身構えているように見えた彼女が、瞳に滲んだ涙を拭いながら言った。
「薙人さんが、私を置いて行ってしまいそうに見えたんです。それで私、慌ててしまって……でも、そうじゃなかったから、安心してしまって……変ですよね、急に笑ったりして」
「そんなことないよ。ありがとう、引っ張ってくれて」
「あっ……す、すみません、制服が伸びてしまいますよね、いつも同じところばかり……」
言われてみれば、昨日もそうだった。彼女は制服の裾をつまんで――そして俺はそんな鷹音さんを、子犬みたいだと思った。
「……はは。はははっ……」
「薙人さん……?」
「いや……ごめん。俺の制服くらい、いくらでも伸びていいからさ。そんなに遠慮しなくても大丈夫だよ」
「は、はい……もっと、気の置けない関係にならないといけないですよね」
気の置けない、遠慮が要らない関係。付き合い始めて日が浅いからと言って、ずっと緊張したままでもいけない。
「……でも、嬉しいです。どんなことでも、薙人さんが笑ってくれるのなら」
「あ……え、ええと。言うのは恐れ多いんだけど……いや、大目に見てもらえると嬉しいんだけど、俺、鷹音さんのこと……」
「っ……は、はいっ、私ですか……?」
子犬みたいだと思ってる、なんて真顔で言うようなキャラクターではないところの俺だ。そして、そう言われて鷹音さんが嬉しいかといえば、難しいところのような気がする。
しかし『可愛いと思う』とか、それこそ学校の廊下で言うことでは――そう。
ここは廊下である。せっかく目立たないようにタイミングをずらして出てきたのに、普通に彼氏彼女のやりとりをしている場合ではない。
「うわー、やっぱり綺麗……廊下の窓際に立ってるだけでも、鷹音さんだと絵になるよね」
「鷹音さん、体力テスト一位だったんだよね。霧谷さんとすごい勝負してたって」
「鷹音さんってすごいお嬢様だって聞いたよ、それで試験も主席で運動神経もあるってヤバくない?」
「あ、私鷹音さんのこと部活に勧誘してって先輩に言われて……」
鷹音さんのオーラが圧倒的すぎて、俺の存在はあまり意識されていなかった――とはいえ、部活の勧誘からは逃げなくてはいけない。
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