ACT2-3 希の視点・2
小学校高学年の頃、私は急に背が伸びてきた。服がすぐ合わなくなったりしたし、急な変化に不安になることもあった。
けれど、悪いことばかりでもなかった。テニスをするときはラケットが遠くまで届いたし、スマッシュの時にも有利だった。
背が高いと周りにどう見られるかを知らないうちは良かった。でも、男子がこんな噂をしていると友達に聞かされた時には、子供ながらに理不尽だと思った。
『ちょっと目立つからといって、調子に乗っている』
悪い噂をされるだけなら我慢できたけど、私が合唱の時間にピアノの伴奏をするとき、男子たち数人が歌ってくれなかったときには、どうして真面目にしてくれないのかと思わずにはいられなかった。
その数人のうちの一人が、学年が変わるときに、私に手紙を渡してきた。
二年続けて同じクラスになった友達は、そんな出来事があったことを知らずに、私にこう教えてくれた。
『あの子、
友達がそのことを知っていて秘密にしていたことは、仕方がないと思う。
その男子に対して、今さらどんな感情も湧かなかった。怒っても仕方がないし、私にできることは、手紙を読まずに返すことだけ。
ごめんなさいと謝って手紙を返すとき、私は相手の顔をよく見られなかった。
受け取ったことを無かったことにするより、返した方がいいと思った。けれど私は、それで良かったのかが分からなくなった。
友達はクラスの男子の誰が気になるとか、芸能人や、動画サイトの有名な人の名前を挙げてかっこいいと言っていたけれど、私は相槌を打つくらいしかできなかった。
友達を大切にしたいと思うことはあっても、男の人を特別だと思うことがあるなんて、想像もできなかった。
中学校でテニス部に入ると、小学校の時よりももっと、周囲の視線が気になるようになってしまった。
男子テニス部の人が練習に付き合ってくれると言ってきたけれど、同じ部の友達が一緒のときでないと私は参加しなかった。
気さくに男子と話している友達を見ていると、私もそうなれたらと思うことはあった。でも、中学校の三年間でいくらも私は変わらなかった。
『のぞって誰かと付き合ったりしないの? なんで?』
『鷹音さんって年上の彼氏とかと付き合ってそうだよね』
『鷹音さんって副会長だったときから、会長と付き合ってるらしい』
みんなが勝手に私のイメージを作って、実際は違うと知ると不思議そうにする。
友達も『鷹音希』はこういう人なんだと決めつけて、そこから外れるような接し方をしない。
けれど、一番いけないのは私自身だと分かっていた。
私は男の人とお付き合いをすることが、想像できない。そうはっきり言ったら、きっと友達も何度も言ったりしなかったし、勝手な噂もされなかったかもしれない。
高校に入ったら、中学校の時とは自分を変えたいと思った。部活はテニス部を選ばないで、生徒会にも入らないし、ピアノも家でしか弾かない。
目立たないようにしていたら、もっと肩の力を抜いて学校にいられるかもしれない。人の視線ばかりを気にして、自分を作ることから逃げたかった。
受験の日は雪が降った翌日で、とても寒かったことを覚えている。
受験番号は男子と女子で分かれていなくて、志願した順番になっていた。私は窓際の席に座って、同じ中学校の子に話しかけられたけれど、一緒に頑張りましょうと言うくらいが精一杯だった。
『鷹音さんってこういうときも落ち着いてて凄いよね』
私も緊張していたけれど、そんなふうに言われてしまった。緊張していて表情が固いだけなのに、きっと私はいつも同じような顔をしているんだと思った。
試験が始まって、しばらくは何事もなく集中していた。けれど、まだ緊張が抜けていなかった私は一つ失敗をしてしまった。
消しゴムを取ろうとして、不注意で取り落としてしまった。
転がった消しゴムをどうしようか、先生に言って取ってもらわないと――そう思っても、私は声がうまく出なくなっていることに気づいた。
緊張しているのは自分で分かっていたけど、これほどだとは思わなかった。私は手を上げてでも、監督の先生に気づいてもらおうとして――そのときだった。
『試験中に失礼します。消しゴムを落としてしまいました』
隣の男子が、先生にそう申し出た。いつの間にか、私の消しゴムの近くに、違う消しゴムがもう一つ落ちていた。
先生は私の消しゴムにも気づいて、拾ってくれた。隣の男子はそのまま何も言わないで、試験の解答に戻った。
よそ見をしてはいけない。試験を解くことに集中して、最後まで解答してしまっても、まだ時間が沢山余っていた。
その間も見直しをしながら、隣の席に座っている人のことが気になっていた。
試験が終わったあと、私は休憩時間に一度席を立った。
見ていると気づかれたら、嫌な思いをさせるかもしれない。
見ていないふりをして見るのは、いけないことだと思いながら――それでも、隣の席に座っている彼を見た。
「…………」
彼は、私の方を見ていた。そして、笑顔だったように思う。
「っ……」
気づかれてしまったのに、私は見ていないふりをした。こんな演技、しても仕方がないのに。
誰に対して格好をつけているんだろう。それが分からないままで、廊下を少し歩いて、窓のほうを見た。
やんでいた雪が、もう一度降り始めていたことを覚えている。
ガラスに映った自分の顔を見て、私は今このときまで、どんなに自分が表情を失っていたのかということに気づいた。
――ありがとうと言うのを忘れてしまっているのに気づいたのは、教室に戻ってからで。私は隣の席の彼に、試験が終わってもお礼を言うことができなかった。
試験の結果発表の日まで、私は会場で助けてくれた人のことを何度か考えた。
もし、彼と同じクラスになったら。それを想像して、途中で止めて、そんなことがあるわけがないと思った。
もしもう一度会っても、私と話す必然性がない。話しかけるきっかけがないと、同じ学校にいても他人でしかない。
どうして話しかけたいのか、何を話したいのか、自分でも分からなかった。
『あのときはありがとうございました』
それだけ言って終わってしまうかもしれない。それくらいが、普通なのかもしれない。
ずっと答えの出ないことを考え続けて、始業式の日が来て。
入学式では見つけられなかった彼の姿を、同じ教室で見つけたとき。
彼は――千田薙人くんは、同じ中学校から来た朝谷さんと、少し緊張した様子で、けれど楽しそうに話していた。
◆◇◆
体力テストの前に身体測定があって、同じ班の朝谷さんたちと一緒に、保健室で身長などを測定した。
「鷹音さん、やっぱりモデルみたいでかっこいい……」
「同じ体操服でも、鷹音さんが着ると全然違って見えるよねー」
色々なことを言われて少し恥ずかしいので、早めに終えてしまう。他の子たちが測定をしている間に、同じ班の子たちは楽しそうに話している。
その輪の中心にいた朝谷さんが、私に笑いかけてきた。
「鷹音さん、持久走とシャトルランはどっちにする?」
昨日のことがあったので、朝谷さんとうまく話せるか分からなくて、少し緊張していた。そんな私の心配が杞憂だったというように、彼女の表情は朗らかだった。
私も朝谷さんのことが気になって、少しネットのニュースを見た。本物の芸能人で、彼女はとても人気がある。
「朝谷さんは、どちらがいいですか?」
「私? 私は持久走の方が得意かな」
そう言った後に、朝谷さんは少しだけ間を置いて、私をじっと見た。
メディアを通して見る彼女と、寸分違わない。彼女とお付き合いをしていた薙人さんが、いつも緊張しているように見えた理由が、私にも分かる。
でもそうやって人の胸を探るような目をするのは、少し気になってしまう。薙人さんもそんなふうに見られていたのなら、きっと悩んだりもしただろうから。
――けれど『元カノでいいんだよね』と薙人さんに問いかけたときの朝谷さんの目は。
探るような目ではなくて、私には、別の理由があって言ったように見えた。
「え、えっと……あたしはどっちでもいいけど、のあり……霧ちゃんが持久走なら、一緒がいいかな」
「わ、私もー。グループで一緒の方がいいでしょ、やっぱり」
山口さんと伊名川さんの態度は少しぎこちない。彼女たちが遠慮しているのは、薙人さんと二人で登校してきたときに話していたことが、私に聞こえたと思っているから――けれど、私から気にしなくていいというのも違うし、どう言っていいか迷ってしまう。
聞こえよがしにあんなことを言うのは良くないことだけど、二人はそこまで悪気があったわけじゃないように思う。
「あの時はごめんね、悪気があったとかじゃなくて、ちょっと驚いちゃって」
朝谷さんは敢えてということなのか、そのことに触れた。
私と薙人さんがお付き合いをしていることを、朝谷さんは友達には言っていない。それは私たちのことを気遣ってくれているのか、それとも――改めて二人で話さないと、今はわからない。
「鷹音さんって意外と大胆だよね、男子と一緒に通学してきて。まだ一学期始まったばかりなのに」
「朝、一緒になったので……同じクラスなので、一緒に教室まで行きました。千田くんとお話ししたいこともありましたから」
「二人、違う中学だよね。どんな話してたの?」
「勉強できる同士、気が合ったりするんじゃない? 霧ちゃん言ってたよね、千田くんって真面目で教え方が上手いって」
薙人さんが朝谷さんにノートを見せてあげたりしているのは知っていたけれど――中学校の頃にも、二人で勉強をしたこともあったのなら。
(私も、薙人さんと一緒に……)
教室で朝谷さんに教えてあげているところを見て、私は、初めてこう思った。
私もあの輪に入れたなら。薙人さんに自然に話しかけることができたら。
試験の時のことを覚えていなくてもいい。同じクラスの生徒から、話しても不自然じゃない人になれればいい。
そう思っていたのに、今の私と薙人さんは――考えただけで、顔が熱くなってしまうのが分かる。
「……鷹音さん、顔赤くない? 大丈夫?」
「っ……な、何でもありません……渡辺さんの、気のせいです」
渡辺さんが心配してくれるけれど、勘が鋭すぎて困ってしまう。朝谷さんが私と薙人さんのことを内緒にしてくれているのに、私がこんなことではいけない。
「ジャージを脱ぐか脱がざるか、悩ましいよねー。今日あったかいし……それでどうする? 持久走で決まりでいい?」
「はい、私は賛成です」
「私、走るとすぐお腹痛くなるんだよね……」
「そのときはあたしも脱落するから一緒に歩こ?」
「はいはい、みんな頑張って完走しようねー」
朝谷さんがみんなを励まして、グラウンドに向かう。二百メートルのトラックの内側で、順番待ちの生徒たちが雑談をしていた。
山口さんたちはストレッチをした方がいいのかどうかを話していて、朝谷さんが一人で別の班のところに行っていて――一人の子を連れて、私のところにやってきた。
彼女は髪が少し明るい色で、先生に聞かれて元からその色だと説明していた。薙人さんと同じ中学校の出身と自己紹介のときに言っていたけど、薙人さんと話しているところは見たことがない。
「改めて紹介するね、
「はい、霧ちゃんに呼ばれて来ました―。鷹音さん、近くで見るとやっぱりおっきい……」
「っ……い、いえ、それほどでも……」
「羨ましいよねー……って、初対面でそういうこと言わないの」
中野さんが言っているのは身長のことだけじゃないけれど、いつもどうやって答えればいいのか分からなくて言葉に詰まってしまう。目立たないようにジャージを羽織っているけど、走る時もそのままで良いとのことで安心していた。
「中野さん、朝谷さんとお友達だったんですね」
「いやいやいや、そんなの恐れ多すぎです。私、のありんの一ファンですから。霧ちゃんとか言ったりしますけど、心臓バクバクですからね」
「そんなこと言って唯ちゃん、私より鷹音さんと話す方が緊張してない?」
「だって鷹音さんって、私と明らかに生きるステージが違うじゃないですか。私とか、同じ教室の酸素を吸っていいのかって……」
「そんなことはないです、同じ試験を受けて、一緒のクラスになったんですから」
目を逸らしがちだった中野さんは、少し驚いたように私の顔を見る。
私は思ったことをそのまま言った。何も言わずに曖昧にしたら、中野さんとの間に線を引かれてしまうから。
中学校までの私なら、こんなにはっきり言えなかった。
薙人さんと会って、私の意識が変わっている。言いたいことを言えない自分でいたくない、そう思うようになっている。
「……す……」
「す?」
「好きです」
「えっ……あ、あの……」
「何言ってるの唯ちゃん、鷹音さんが引いちゃってるよ。友達になってくださいってことでしょ?」
そうなんですか、と聞く前に、中野さんは私の手を取ってきた。
「危ない危ない、思わず変なこと口走っちゃった……」
「い、いえ……その、ごめんなさい」
「ふられちゃったね、唯ちゃん。自己紹介はこれくらいにしとこっか」
「ここで切り上げて大丈夫? 次も鷹音さんに話しかけていいの?」
「大丈夫大丈夫。ほら、唯ちゃんたちの番だよ」
中野さんは前のグループで位置について、トラックを走り始める。それを見ていた朝谷さんが、私の隣で伸びをしてから言った。
「あの子、中学のときはナギ君と同じ部活だったんだよ。仲良かったけど、高校に来てからは話してないみたい」
「明るくて、元気な人ですね。話しているだけで元気をもらえそうです」
「唯ちゃんって、自分より人のことを褒めるのが好きな子なんだよね。謙遜しすぎちゃうところがあるっていうか。ナギ君も、それは気づいてたと思う」
同じ部活で、薙人さんと友達だった女の子。
薙人さんもすごく謙虚な人で、中野さんとは性格が合いそうで。中学時代、どんなふうに過ごしていたのかを知りたくなる。
「私は唯ちゃんとナギ君の方が、合ってるんじゃないかって思ってたんだ」
「……それは、薙人さんや中野さんの気持ちを聞いたわけではなくて……ですか?」
「うん。二人とも、似てるところがあるって思わなかった?」
朝谷さんは悪びれもしないで、微笑んでいる。
――悔しいくらい、朝谷さんの言う通りで。けれど中野さんは何も悪くなくて。
「私が簡単に言っていいことじゃないけど、ナギ君の良いところは私も知ってるつもり」
これは、図書室で話したときの続きなんだと、今さらになって気がついた。
「鷹音さんがナギ君と付き合うって言ったときも、最初は驚いたけど、変だとは思わなかった。まだ入学したばかりとか、そういうことは関係ないんだよね」
「……私は……薙人さんに、助けてもらったんです」
「優しいよね、ナギ君は。こんな私にも、怒らないでいてくれて……ううん、怒ってたんだよね、きっと」
私は朝谷さんのことが、まだ良く分からなくて――仕事が忙しかったり、他に何か理由があって、薙人さんと別れたのだと思っていた。
けれど、それが全てじゃなかった。
こうやって話しているだけで、私には伝わってしまう。
朝谷さんが、薙人さんをどう思っているのか。どうして、中野さんを私に紹介したのか――。
「私、鷹音さんのこと応援したいと思ってる」
――だから、そんなこと。
『霧谷乃亜』の顔をして言われても、私にはそのまま受け入れることはできなくて。
「……それで、いいんですか?」
朝谷さんがくすっと笑う。いつも横で結んでいる髪を、紺色のシュシュでまとめ直しながら。
「あの時言おうとしたのも、そのことなんだけど。二人が、すぐ行っちゃったから」
「あの時……?」
「そっか、鷹音さんは気づいてなかったんだ。それならいいかな」
「……それは、薙人さんに伝えたかったことなんじゃないですか?」
ここで聞いても、彼女は答えてくれない。
けれど完璧な演技で、朝谷さんが何かを隠そうとしているのなら、それは自分の気持ちのはず。
――今も、薙人さんのことをどう思っているのか。朝谷さんは、その核心だけは決して見せない。
「……そろそろ順番だね。私、走るのは結構自信があるんだ。鷹音さんは?」
これは体力テストの測定で、他のことと関係はないけれど。
自分たちの番が来て、走り始めたとき。私は文化部だったはずの朝谷さんの速さに驚きながら、それでも思った。
朝谷さんが薙人さんのことを、今は私より分かっている『元カノ』でも、簡単には負けられないと。
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