ACT2-1 体力テストの朝

 体力テストの日は、朝からみんな体操服に着替えることになる。


 俺のクラスである1年A組の教室は女子が使うので、Bクラスは男子の更衣室となっている。初めて入る教室なので多少緊張したが、着替え始めてしばらくすると高寺と荻島がやってきた。


「はよっす。いやー、昨日は手に汗握る展開だったぜ……」

「あ、ああ……ドラマの話か」


 俺も録画を外してないので、確認しようと思えば確認できる。けれどそんなに気にしているのもどうかと思えて、なるべく意識を遠ざけていた。


「結構話題になってたよね。霧谷乃亜って名前がトレンドにも入ってたし」

「朝谷さんが自分でエゴサとかして、『霧谷乃亜 キス未遂』とかで検索されてるの見つけたりしたら、やっぱ結構恥ずかしかったりすんのかな?」


 ――ちょっと照れるけど、スイッチ入れたら気にならなくなるっていうか。


 ――でも、スイッチはちゃんと切らないと、知らないうちに疲れちゃうんだよね。


 ――そうやって、オフにするためにみんなといるのって、ずるいのかな。


 朝谷さんの言葉が脳裏を過ぎる。女優として役柄を演じること、芸能人としての顔に切り替わることを、彼女は『スイッチを入れる』と言っていた。


「しかしのありんの義理の妹役って破壊力高すぎだろ……あれで原作では滑り台行きなんてありえねーよな」


 物語の中で恋に敗れるヒロインのことを『滑り台送り』と言ったりするらしいが、朝谷さんは今回のドラマではそういう役柄のようだった。


 朝谷さんの出ているドラマの原作は少女漫画で、既読の流々姉が教えてくれたところによると、主人公とヒロインの絆を前にして、義兄に淡い想いを寄せていた妹は想いを伝えることなく身を引くらしい。


 その主人公役の深川瑠都とサブヒロイン役の朝谷さんが、番宣でテレビに出ていたわけだ。話題作りもあるのかもしれないが、ドラマ版では展開が変わって義妹がもう少し健闘するんじゃないかとか、そんな憶測が出たりしていた。


「学校でもオーラはそのままなのに、全然馴染んでるよね。芸能人が学校にいたら、厳戒態勢とかあったりするんじゃないかと思ってたけど」

「そういうのはナシってことで話がついてるんじゃねーの。学校の中でも事務所から干渉されたりしてたら、のありんも疲れちまうだろ」

「高寺も意外に、そういうことに気を使うんだな」

「そうそう、実は気配りの人なんだよ……って、俺のイメージが千田の中でどうなってんのか、そこんとこ気になるな」

「お調子者で、アイドル好きで、朝谷さんの隠れファンっていうくらい?」

「正解。隠れファンじゃなくて思い切りファンだけどな。同じ高校に入学してからな」


 高寺はいわゆるお祭り体質というやつらしい。中学の頃も朝谷さんを応援したり、出演している番組がどうだったと話しているやつは少なくなかった。


 その全てが良い方向じゃなくて、ネットでこんな噂が流れていたと話す連中は、朝谷さんに聞かせられないような内容を話している場合もあったりした――高寺はそういう方向じゃないので、今のところは安心している。


 安心? 安心してるって、俺はどんな立場でそう思っているのか。


 朝谷さんが『元カノ』と言ったから、彼女が俺とのことを全部無しにはしなかったから、陰ながら心配するくらいは許されるだろうということか。


 ――芸能人って言っても、そんなに普通の人と変わらないでしょ。


 ――変わってると思うなら、それって素敵な気のせいだよね。


 春休みの間はこれほど思い出すこともなかったのに――ショックで記憶でも飛んでいたっていうんだろうか。人間の記憶はままならない、忘れようとするほどに蘇ってきてしまう。


「――にしても、軽音部とバンド部が違う部活ってどうなのよ。軽音は女子部で、バンド部は男の部活とか言っちゃって。騙されたけど引き返せねえよなー、今更」


 高寺はバンド部に入ったのだが、やはり女子にモテたいとかそういう動機があったようだ。荻島は演劇部で、中学から演劇部に入っていたので高校でも続けるということらしい。


「中学の時は野球してたんだよね、五分刈りで。それで高校でバンドデビューって受けるよね」

「野球やりながらドラムの教室通ってたんだよ。バットをスティックに持ち替えて、文化祭でちやほやされるのが今の夢な。あと五分刈りって言うな、引退してから伸ばすのだいぶ苦労してんだからな?」

「結構しっかり考えてるんだな、高校で何がしたいとか」

「いやいや、それほどでもねーよ。俺なんてもう行き当たりばったりだから。進学校来たのも、好きな子が受験するって噂で聞いたからだから」

「その子、実際は受けなかったんだよね。僕、高寺のそういうところは憎めないんだよね」

「な、なんだよ……そんなこと言われても何も出ないんだからね?」


 男のツンデレというのも誰得だ――と思いはするが、それよりも高寺がツンデレなんてものを知っているというのが面白くて、思わず笑ってしまった。


「千田は部活決まった? 一年目は絶対入らないと駄目なんだぞ」

「俺は読書部にしようかと思ってる。放課後に、他の習い事が入ることもあるから」

「おー、それって漫画とかラノベも読んでいいの? だったら俺、読書部でも良かったな」

「千田くんは何を習ってるの? 僕も中学の時は、そろばんと習字と塾通いだったよ」

「ちょっと知り合いのジムに顔を出して、身体を動かしてるんだ」

「なるほど、いかにも読書部っていう身体じゃねえもんな。なんつーか……強そうだ」

「いいなー、僕も筋肉つけたいんだけど、頑張って筋トレしてもなかなかつかなくて」


 荻島は色白で整った顔立ちをしており、声変わりもしてこれなのか、喉仏の存在を感じないような声をしている。演劇部でどんな役どころを演じるのか、なんとなく想像できた。


 ――雑談しながら着替え終わったところで、廊下から先生の声が聞こえてくる。


「女子の着替えが終わったので、男子も移動してくださーい」


 Aクラスの男子たちが移動を始める――ドアを開けると、すでに廊下にはジャージ姿のB組女子たちが待機していた。


「いやー、紳士が揃ってるよな。誰一人としてフライングしようとしないとか」

「紳士とかそういうことじゃなくて、それが普通でしょ」


 『更衣室でバッタリ』なんていうのは、現実には起こり得るものではない。 


 それでも少し想像してしまったりするくらいは、誰にでもあるのではないだろうか。しかし荻島みたいな聖人君子を見ると、何か自分が恥ずかしくなってくる。


 昨日のビデオ通話で映った、鷹音さんの襟元から覗いたあのレースは――だから思い出すなというのに、記憶が鮮明すぎて参ってしまう。


 Aクラスに入ると、談笑していた女子たちが俺たちを見やり、また雑談に戻る。


「うぉっ……のありんの髪型が違う……!」


 高寺が朝谷さんに聞こえないくらいに声を落として驚く。髪の長い生徒は体育の時結ぶように言われる――というのは、この高校も同じなのだが。


 朝谷さんは昨日サイドテールにしていた髪を、今日は二つのおさげにして下ろしていた。髪型には魔力があって、全く印象が違って見える。


 しかし、今この教室で、俺が一番気になるのは――。


「……この先どうなるかとか、そういう質問に答えるのはNGなんだ。ごめんね」

「あー、やっぱりそうだよねー」

「朝谷さんすごいよね、演技。原作のイメージ通りってみんな言ってるし」


 朝谷さんは俺のほうを見やったが、表情を変えたりはせずに、周りを囲んでいる女子たちと話を続ける。


 高寺と荻島が自分の席に戻っていき、俺も窓際から二列目、一番後ろの席に向かう――教室に入ったときから、鷹音さんは後ろの席の渡辺さんと話していて、それが俺の視界にもしっかり入っていた。


 朝谷さんの髪型に高寺が驚いていたとき、俺は鷹音さんの姿に意識を奪われていた。


「鷹音さん、ありがとう。私、自分から言おうと思ってて、なかなか言いだせなくて」

「いえ、こちらこそ……ごめんなさい、早めに相談しようと思っていたのに、声をかけられなくて」

「じゃあ、後で先生に確認してから席交換しよっか」

「ええ。一緒に先生に言いに行きましょう」


 俺の隣に座っている渡辺さんと、鷹音さんが席を替わる相談をしている。つまり、今日のどこかの段階から、鷹音さんの隣に座ることになる。


 付き合い始めて、そして席が隣同士で――一緒にいられる時間が多いのは、素直に嬉しいことなのだが。


「……おはようございます、なぎ……千田くん」

「っ……お、おはよう」


 鷹音さんが運動するときの髪型は、ポニーテールだった。サラサラの長い髪を結い上げていて、下ろしているときよりいかにも活発な印象だ。


 ――そんなのは、できるだけ冷静でいようとして出てきたコメントでしかなくて。


 控えめに言っても、可愛いが過ぎる。鷹音さんは俺に挨拶をしたあと、自分の席に座った――その一挙手一投足を、自制しなくてはと思いつつ目で追ってしまう。


 そして鷹音さんが、ちら、とさりげなく俺の方をうかがう。


 視線が合って、彼女が微笑んで、前を向く。サラリと揺れるポニーテールに意識を奪われながら、後ろ姿をじっと見ているわけにもいかず、やっとの思いで前に視線を向ける。


 間もなく先生が来るだろう。そんな当たり障りのないことを考えた矢先だった。


 ――俺のすぐ前を、一人の女子が通り過ぎる。


 朝谷さん。彼女は確かに、俺のことを見ていた。


 けれど用があるのは俺じゃない。朝谷さんは鷹音さんの机の横に立って、軽くその肩に触れる。


「おはよ、鷹音さん。可愛いね、その髪」

「ありがとうございます。朝谷さんこそ、今日も素敵ですね」


 鷹音さんは少しの迷いもないように、そうやって答えた。朝谷さんが話しかけてくることを分かっていたみたいに。


 付き合い始めたことは、基本的には周囲に伏せておく。鷹音さんが俺の呼び方を『千田くん』にしたというのは、そういうことだ。


 しかし、朝谷さんは俺と鷹音さんのことを知っている。周囲に隠しておけるかどうかは、朝谷さんの考え次第ということになる――俺たちが、朝谷さんに何も言わなければ。


「聞いたよー、鷹音さんって運動神経いいんだよね?」

「そんなことは……運動は、得意なほうではありますけど」

「またまた、謙遜しちゃって。鷹音さんと同中の子が言ってたよ、何でもできて凄かったって」


 そんな噂が広がるくらい、鷹音さんが有名人だということなら納得はいく。


 けれど朝谷さんが鷹音さんに興味を持って、同じ中学の生徒に話を聞いたということだと、少々雲行きが怪しくなってくる。


「私は勉強あんまりだけど、体力には結構自信あったりするんだ」

「お互い頑張りましょう。みんなで頑張れば、良い記録が出ると思います」

「うん、頑張る。楽しい一日になりそう」


 なんでもない、友達同士のような会話。まだ同じクラスになって間もないので、ぎこちなさはあるが、その違和感は決定的なものじゃない。


 それなのに、なぜ俺はこうも緊張しているのだろう。追い詰められたとか、そういうことは全くないはずなのに。


 朝谷さんは席に戻っていくとき、今度は俺を見なかった。


 目の前でされたのは、体力テストの話だ。せっかく測定するなら良い記録を出したい、そういう話のはずなのに。


「霧ちゃんと鷹音さんって、仲良かったんだ」


 隣の渡辺さんがそう独りごちる。傍から見たら仲がいいように見える――つまり俺の考えすぎなのか。



 しかし気になって仕方がなくても、男女別行動なので、鷹音さんと朝谷さんがいる班と一緒に行動するわけでもない。


 俺たちの班が鷹音さんたちの班を見ることになるのは、外でできる立ち幅跳びやハンドボール投げをこなしたあと、体育館に移動したときのことだった。

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