ACT1-3 帰り道/夕食の時間
いつもと景色が違って見えるとか、すれ違う人たちの視線を感じるとか。
そういう変化に慣れようと努めても、雲の上を歩いているように落ち着かない。鷹音さんの告白を受けてから、現実感が未だに希薄というか、そういう青春系の映画を見せられている気分というか――自分で自分の精神状態が心配になる。
告白を受けた以上は色々意識しなければいけないことがあるんじゃないか。そんなことを思ってしまったりもするが、隣を歩いている鷹音さんと服がかすかに擦れただけでも、律儀に触れない距離を保ち直してしまう。
「……昨日、薙人さんの後ろからついていったとき、頼りになる人なんだなって思っていたんです」
「あ、ああ。混雑してたけど、あの時間はいつもそうなのかな」
「そうみたいです。一人のときでもいつもは大丈夫なんですけど、昨日は、少し……」
「昨日は大変だったからね。これからは、困った時は俺に言ってくれればいいよ」
「っ……ありがとうございます。そのお気持ちだけでも嬉しいです」
『お気持ち』というのは畏まりすぎていないかと突っ込みそうになって、何とか踏みとどまる。
校門を出てから徐々に緊張してしまっていたのは、鷹音さんも同じなんじゃないか――そう思ったからだ。
鷹音さんは真っ直ぐ前を向いて歩いている。
こっちを見ようとちら、と視線を向けるが、俺が見ていることに気づくと慌てて目をそらしてしまう。これはどうやら、推測でもなく確定してしまっていいみたいだ。
「鷹音さん、明日の放課後って予定はある?」
「は、はい。今日は早く帰らないといけませんが、明日なら大丈夫です」
「放課後の寄り道とか、そういうのは大丈夫? 家の決まりで難しいとかは……」
「寄り道……大丈夫だと思います。薙人さんの行くところは、健全だと思いますので」
「ははは……まあゲーセンとかに誘ったら、それは健全とは言い切れないか。できれば、ちょっと話ができたらと思って」
「ゲームセンターは大丈夫です、高校生ならそういうところに行くこともあると思います」
この言い方からすると、鷹音さんはおそらくゲームセンターに行ったことがない。例えで出しただけで、俺一人でも学校帰りに行くことはそうそう無さそうだが。
学校以外で話をすることで、もう少し緊張せずに一緒に居られるようになりたい。そう思って誘ったわけなので、行き先はゆっくり話せる場所がいい。
「じゃあ……カフェとか。制服だと気になるなら、やっぱり休みの日にしようか」
「校則には、そういったお店への寄り道はいけないということは書いてありません」
断定するということは、鷹音さんは生徒手帳に載っている校則が全部頭に入っている――先生ですら普通に学生生活をしていれば、そんなに気にする必要はないと言っていたくらいなのに。
「……薙人さんは、コーヒーがお好きなんですか?」
「ああ、昨日もらったコーヒーも、駅を出る前に全部飲んだよ」
「すごい……そんなに一気に飲んでも大丈夫なんですか?」
「耐性が結構ついてるから、寝る前にコーヒーを飲んでも普通に寝られるくらいなんだ。勉強するときに無理やり目を覚ますとかもできない諸刃の剣だけど」
「それは……眠りが浅くなるかもしれないので、控えめにした方がいいですよ。それと、勉強のときに目覚ましが必要なら……こ、これからは、私がいますし……」
「え……?」
鷹音さんはスマホを鞄から取り出して、俺に見せてくる――それは世にも上品で、控えめすぎる『どや顔』だった。
「勉強中、決まった時間ごとに薙人さんにお電話をかけて起こしたりできます」
「い、いや、さすがにそれは悪いっていうか……ああ、でも……」
「でも……?」
その接続詞をネガティブなものだと思ったのか、鷹音さんが心配そうにする。
「……で、電話はまだ早かったでしょうか。夜遅くにそういうのは、家の方にも迷惑が……」
「いや、そうじゃなくて。俺、ちょっと恥ずかしいことを言おうとしてるなと思って」
「っ……」
俺の一言一言に、鷹音さんは一喜一憂したり、慌てたりしてくれている。
「……どれくらい恥ずかしいことですか? あっ……や、やっぱり、お付き合いを始めたことと関係しているとか……」
「ま、まあそうなんだけど……寝落ちするまでLINEで通話するとか、そういうことをしてるカッ……二人もいるらしいというか」
カップルと言いかけて、別の表現に言い換える。ただでさえお互い緊張しているので、言葉選びも一言一句に気を使わなければいけない。
「通話……そ、そういうものもあるんですね。電話を繋ぎっぱなしにするなんて、考えたこともありませんでした」
「ま、まあそういうのもあるってだけで、早速やってみようってことじゃないけど。眠れない時とかはいいかもしれないな」
「……逆に緊張して寝られなかったりしませんか?」
「それは盲点だったな……でも俺は、鷹音さんの声って安心する声だと思うし、聞きながらだと良く寝られそうっていうか……いや、何言ってんだ俺っ」
浮つかないようにと心がけても、つい軽口みたいなことを言ってしまう。本当に思っていることでも、もう少し押さえなければいけない。
朝谷さんにフラれたばかりで、切り替えが早すぎる――そんな風に思われても無理はないが、鷹音さんと話せているだけで嬉しいのは本当のことで、気持ちに嘘がつけない。
「……私の声、かすれてるって自分では思うんですけど……薙人さん、気を使ってくれていませんか?」
「かすれてる……というか、俺は耳に残るっていうか、落ち着く声だと思う。入学式の挨拶の時からそう思ってたよ」
「…………」
鷹音さんは何も言わない――かすれた声とは思わないのだが、声を出している本人と周囲とでは聞こえ方が違うというのは、よく聞く話だ。
「……あ、鷹音さん、信号……っ!」
「っ……!」
横断歩道の信号が赤に変わったことに気づかず、鷹音さんが行ってしまいそうになる。引いていた自転車を片手で支え、もう一方の手で鷹音さんを慌てて引き止めて、何とか事なきを得た。
「すみません、私……」
「いや、俺は全然大丈夫……だけど、その……」
「……あっ……」
鷹音さんを引き止めた拍子に、彼女の背中を受け止める形になってしまった――向こうから横断歩道を渡ってきたお婆さんが、微笑ましいものを見るような顔をしてすれ違っていく。
バランスを崩してしまっていた鷹音さんだが、何とか自分でしっかり立つと、俺に背を向けてしまう。
「ご、ごめん。急に引っ張ったりして」
「…………」
鷹音さんは何も答えてくれない――少し乱れてしまった髪を直して、しばらくしてからこちらを恐る恐ると言うように見る。
「……す、すみません。その……ぼんやりしてしまって」
「俺こそごめん、声のこととか、入学式までさかのぼって言ったりして……急にそんなこと言われてもびっくりするよな」
「……はい。びっくりしました」
鷹音さんは信号を見やって、俺に渡るように促す。
彼女の後について少し駆け足で渡りきる。追いついて横に並ぶと、鷹音さんはすぅ、と深呼吸をしてから、横にいる俺を見た。
「本当は、あまり自信が無かったんです。自分の声が好きじゃないので……でも、あの日の自分に教えてあげたいです。薙人さんがそう思っていてくれたこと」
「っ……い、いや、その……」
照れるあまりに言葉が出てこない。
これが、彼氏彼女の会話というものなのか。朝谷さんとは、こういう雰囲気になることさえなかった――ずっと『友達』の距離感だった。
憧れが大きすぎると、ある程度まで近づいても、それ以上距離は縮まらない。
決めつけてしまいたくないが、そんな考えが過ぎってしまう。
「……俺は鷹音さんの声が好きだし、電話でもできれば聞きたいって思うよ」
「は、はい……あの、でも、あまりそういうことは……」
「ご、ごめん。さっきから外で色々言いすぎかな」
鷹音さんは肩にかかった髪に指で触れている。それが照れているときの仕草というのは、
あまり観察眼の鋭くない俺にもわかる。
「その……沢山言われすぎると、言葉が出てこなくなってしまうので、初めはお手柔らかにお願いします」
「そ、そっか……ああ、良かった。怒ってるんじゃなくて」
「怒ったりしません。私が怒るとしたら、薙人さんが私のことで何かを我慢したり、自分が辛くなるようなことを無理をしてしているときくらいです」
「……鷹音さんには、敵わないな」
無理をしてるなんてことはない。朝谷さんと話すだけで胸が痛くても、それは甘んじて受け入れるべきだ。
けれどそれも、変わっていかなきゃいけない。鷹音さんに心配させないように、そして朝谷さんに、俺が引きずっていると思われないように。
「これからは、何でも遠慮なく話してください。薙人さんのことを、一つでも多く知りたいですから」
「……ありがとう」
俺も、鷹音さんのことが知りたい――それはあえて言わなかった。
彼女が照れてしまうことを言うばかりじゃなく、笑ってくれたり、楽しんでくれるような話がしたい。
歩いているうちに、駅前のロータリーに近づいてきている。この辺りから人の行き来も多くなるので、見送りはここまでということになった。
「今日は……ありがとうございました」
「俺の方こそ、嬉しかった。えっと、その、色々……」
「は、はい……色々……」
また懲りずにやってしまった――ここで照れずに、落ち着いていられるようにならなくては。
しかし『色々』の中に含まれている出来事として、ちゃんと鷹音さんが忘れずにいてくれるだろうかなんてことを、真剣に心配してしまう。
「……薙人さん」
名前を呼ばれて、俺は鷹音さんを見る。
――なんて優しい顔をするんだろう、と思った。
俺自身、自分のことを臆病になっていると思う。その弱さも、きっと俺の態度に出てしまっている。
「今日の夜、少しお時間をいただけますか?」
「夜……っていうと……」
「お電話か、LINEで……今のうちに、約束しておきたかったんです」
いつかけてきてもらっても構わない。LINEだってそうだ。
それでも約束をしたいのは、鷹音さんも、俺と同じ気持ちだからかもしれない。
「……そうじゃないと、しないままで明日になってしまいそうなので。約束をしておいたら、それを守らなきゃって……い、いえ、義務的にということではなくて、私が薙人さんと話したいので……です……」
「……俺もかなり緊張してるから、電話の声が変だったりするかもしれないけど。じゃあ、九時くらいに俺からかけるってことでいい?」
「はい、その時間でしたらお風呂も……い、いえ、部屋にいると思います」
しっかり頭の中に鷹音さんの入浴時間帯が刻み込まれる――いや、そうじゃなく、今日は九時以降は電話しても大丈夫だと、それだけ頭に入れる。
「じゃあ……また明日、鷹音さん」
「は、はい……また……」
「鷹音さん、朝は何時くらいに来る?」
今度は俺が、鷹音さんの聞こうとしたことを当てられたみたいだ――彼女は少し驚いている。
そして、微笑む。そうやって笑ってくれるなら、聞いてみてよかったと思う。
「始業の三十分前には来るようにしています。薙人さんも、いつも早めに来ていますね」
「そっか……ありがとう、教えてくれて」
俺が何を考えてるかなんて、鷹音さんにはお見通しだろう――でも、あえて何も言わないでいてくれる。
「では、また明日……いえ。また後で、ですね」
「楽しみにしてる。また後で、鷹音さん」
鷹音さんは少し名残惜しそうにして、何か言いかけて――それを言葉にはせずに、小さく手を振ってから駅に歩いていった。
歩き去る後ろ姿が、夕方の風景の中で絵になりすぎていて、見えなくなるまで見ていたくなってしまう。
もう一度、振り返ってくれないだろうか。
そんな必要がないんだから、期待してはいけない。俺も後ろを向いて、帰り始めなければ――。
そう思った時だった。
鷹音さんが人波から外れる――それは駅から来る人の邪魔にならないようにということだと、見ていて分かった。
そして、俺の方を振り返る。俺が見ていることに気づいて、距離を置いて目が合っても、彼女はじっと見ているだけで。
「――、――」
口に手を添えるようにして、鷹音さんがこちらに向けて何かを言う。
聞こえなくても、何となく伝わるような気がする。きっと俺が喜ぶようなことだと。
手を振り合うと、鷹音さんは駅の中に入っていく。俺も帰り道は自転車に乗り、車道の端に寄って走った。
そして俺は信号待ちをしている時に、二通のメッセージが届いていることに気づいた。
一つは流々姉からの、買い忘れた夕食の食材を買ってきてという内容。
もう一つは鷹音さんからの、こんなメッセージだった。
『振り返ったとき、薙人さんがいてくれて嬉しかったです。また後で電話しますね』
本当に、俺には勿体ないくらいの――と、いつまでも躊躇してはいられない。
周囲に秘密にするのかどうかは相談しないといけないが、もし誰かに聞かれたとしても、胸を張って答えられるようにしたい。俺の彼女は鷹音さんなんだと。
◆◇◆
俺が買ってきた材料を使って流々姉が料理の仕上げをする。何が足りなかったかというと、オムライスに使うバターだった。
「はい、お姉ちゃん特製ふわとろのレストランっぽいオムライス~! じゃん!」
「おお……見た目はレストランそのものだ。やったな流々姉」
「見た目だけじゃなくて味も美味しいといいんだけどな~。なっくん、自分でもお料理上手だから審査が厳しいよね。はい試食」
「流々姉にはかなわないけどな……うん、美味しい。味もレストランそのものだ」
「お姉ちゃんの将来の進路が、なっくんと二人で小さなレストランを開くことに決まった瞬間であった」
「オムライスだけで戦えるのか……? 他の料理もまあ好きだけどな」
「『まあ』なんて言っちゃって、本当は大好きなくせに。あ、でもなっくんは霧ちゃんと仲直りしちゃったら、お姉ちゃん離れしちゃうかな?」
「っ……」
思い切り言葉に詰まってしまう。朝谷さんと元の鞘に収まることを流々姉が期待していたとしても、そうならなかったことを伝えなくてはいけない。
「あ……そんなに簡単にはいかない感じ? お姉ちゃん余計なこと言っちゃった?」
「いや、余計ってことはないけど。心配してくれてるのは分かってるつもりだし」
「分かっちゃってる? お姉ちゃんも家族でも礼儀ありって分かってるんだけど、どうしても気になっちゃって……可愛い弟には旅をさせよっていうけど、可愛がってるだけに放っておけないというか」
「朝谷さんに振られたっていうのは変わらないよ。俺は彼氏らしいことはできてなかったから……それが理由なのかは分からないけど、多分そうだと思う」
「……そっか。霧ちゃんって女優さんでタレントさんだから、忙しそうだもんね。事務所の方針とか、そういうものもあったりするのかも」
流々姉に言われるまで、考えもしていなかったことだった――事務所で恋愛禁止とか、一般人とは付き合うなとか、そういう決まりがあったとしたら。
「でも、一度なっくんと付き合うって言ってくれたのに……そこがやっぱり、お姉ちゃんとしては納得できないっていうか、霧ちゃんは事情を全部話してくれてないのかなって思ったりするけど」
「……それを話さないっていうのが朝谷さんの決めたことなら、無理に話してくれとは言えないから。それに、今は……」
「……やっぱりそういうこと? なっくん、帰ってきたときすごく機嫌良かったもんね」
「っ……!?」
姉の勘ほど恐ろしいものはないと、その時俺は人生で何度目か、思い知らされることとなった。
「同じクラスの鷹音さんと、何かあったのかな……っていうのが、お姉ちゃんとしてはありそうだなって思ってるんだけど。なっくんが自分から教えてくれるなら、お姉ちゃん根掘り葉掘り聞いたりしないんだけどなー」
真綿で締めるような姉の圧力――ここではぐらかしたら、鷹音さんと電話しているときに部屋に突入されかねない。
弟の恋路にばかり興味を示してないで、自分のことも気にされてはどうですかお姉様。と言いたい気持ちを飲み込み、なぜか流々姉が「あーん」と差し出してきたふわとろオムライスを食べさせられながら、できるだけ恥ずかしくないように事情を説明する方法を考えていた。
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