ACT1-2 二人並んで

 幻でも見ているんだろうかと思った。


 そんなことは起こり得ないと、冷めた俺が言っている。けれど現実に、俺の目は彼女の姿を映し出している。


 部活動に打ち込む生徒たちの声が聞こえる。グラウンドでは野球部が、テニスコートではテニス部が。演劇部が発声練習をしていて、吹奏楽部が音出しをしている。


 時間は流れていて、俺が見ている人は紛れもない本物で。


 なのに、それでもまだ信じられないのは――緊張を隠せずに、襟元を押さえた彼女が、非現実的な存在に見えてならないからだ。


「……鷹音さん」


 名前を呼んでも、しばらく鷹音さんは目を伏せたままでいた。


 何か、落とし物でもしていたかもしれない。それを届けてくれたとか、理由は何だって考えられる。


 けれど、そうじゃない。


 あんなふうに別れたあとで、もう一度来てくれた。それは、あのままで今日を終わらせたくないと彼女が思ってくれたから――そう考えても、いいんだろうか。


 付き合うとか、付き合わないとかじゃない。それとは関係なく、話すべきことはまだ沢山ある。


「さっきは、変なこと言ってごめん。鷹音さんが言ってくれたこと、本当に嬉しかったんだ。それで舞い上がって……フラれたばかりの奴が、何言ってんだって話だよな」

「……千田くん」


 さっきのことをお互い真剣に捉えて、気まずいままの関係が続くよりはいい。


 鷹音さんが俺の『今カノ』と言ってくれたのは、『元カノ』の朝谷さんに何も言えないでいる俺を見て、黙っていられなかったからだろう。


 それは本当に付き合うとか、そういうこととは――。


「……さっきは……本当に、ごめんなさい。誤解をされても仕方がないと思います」

「いや、大丈夫。鷹音さんは俺のために言ってくれただけで、本気で俺と付き合ってくれるとか、そんなの夢みたいな話だからさ」

「っ……で、ですから……その……っ」


 鷹音さんは何かを必死に伝えようとしてくれている。俺のことを見ようとするが、やはり直視できずに目を逸らす。


 何かが、違う。


 夢のような話。学年一の才女で、歩けば誰もが振り返るような美少女と付き合う――それは俺のような一般人には、縁のないことのはずだ。


 けれど、そうじゃなかったとしたら。


 鷹音さんが、朝谷さんに言ったことは、その場限りの言葉というわけではなくて。


「さっきは……千田くんに、あんなふうに聞かれて、焦ってしまって……」

「あ……や、やっぱり失礼だったかな、あんな言い方」

「い、いえっ……」


 お互いに曖昧な言葉しか出てこなくて、慌てているのは二人とも同じで。


 そして鷹音さんがふと顔を上げて、久しぶりにしっかり目が合って。


 俺たちはどちらともなく、笑っていた。鷹音さんの顔が真っ赤だと言えないくらい、こちらも顔が熱いことを自覚していて、それも可笑しくて。


「……でも、良かった。俺、勝手にへこんでて、しばらく鷹音さんと話せなくなるかと思ってたから」

「そんなことは……いえ。私も誤解を解かなかったら、そうなってしまうと思いました。だから……」

「え……?」


 鷹音さんが意を決したように、こちらに歩いてくる。


 話しているところを見られても、何とも思われない距離。彼女が、それ以上に踏み込んでくるように感じられて――けれど、引けない。


 ここで一歩でも下がれば、それは拒絶を意味する。


 俺は鷹音さんが来てくれて、嬉しいと思っている。それは間違いないことで――と理屈をつけるにも、あまりにも距離感が近すぎて、冷静でいられなくなってくる。


「……千田くんに聞かれるまで、私は自分の気持ちについて、時間が経てば答えが出るとか、そんなふうに考えていました」

「気持ち……って……」

「まだ出会ったばかりで、千田くんのことをどれだけも知らないのに、こんな気持ちでいると知られたら……そう思うと、急に怖くなってしまったんです」


 その先を言われてしまったら、もうお互いに、誤解なんてしようがない。


「でも、もしもう一度……機会をもらえるのなら」


 それでも彼女は、幾らも待たなかった。


 すぅ、と息を吸って、気持ちを落ち着けて。


「改めて、言わせてください。千田薙人さん……」


 潤んだ目を恥ずかしそうにして、はにかみながら彼女は言った。 


「私と、お付き合いをしてください」


 ずっと聞こえていた音が、全部止まって。


 俺は人に好きになってもらえるなんてことは無いんじゃないかと思った。


 初めてあれほど好きになった人に振られて、そう思ったのは昨日のことなのに。


「……すぐに決めて欲しいとは言いません。千田くんが振り向いてくれるように、これから頑張ってもいいですか?」

「そ、それは……」

「千田くんは、まだ朝谷さんのことが好きだと思います。私はれ……恋愛の経験はありませんが、それくらいのことは見ていてわかるつもりです」


 見ていれば分かる――それほどに未練が態度に出てしまっているなら、俺も諦めが悪すぎる。


 けれどそんな俺に、鷹音さんは告白をしてくれた。


 今から俺と付き合うと言ったのも嘘ではなくて、彼女は本気で――。


 そう、本気で俺の『今カノ』になりたいと言ってくれている。


(……んんんんんんんんんん!!!????)


 遅すぎた感情の波が押し寄せてくる。


 今、鷹音さんは何を言ったのか。俺に振り向いてもらうために頑張る、確かにそう言った。


 俺に選ぶ権利とか、そんなものがあるとは初めから思っていない。


 そもそも朝谷さんに彼氏として見てもらえずに終わってしまったんだから、選ぶとかいう以前の問題だ。


 友達と言われて、俺はそれを受け入れて、朝谷さんは俺に新しい彼女ができたら教えて欲しいと言った。


(実際に、そうなったも同然だったってことか……? さっき、図書室で話したときに)


『今からは私が千田くんとお付き合いをするので、私が「今カノ」です』


 鷹音さんがそう言ったあと、朝谷さんは何か言ったように見えたが、その声は小さくて聞き取れなかった。


 俺と鷹音さんが付き合うというのをどう思ったのか、それを言っていたのかもしれない。いずれにせよ、朝谷さんが鷹音さんの言葉をそのまま受け取っていたら――。


 俺は、朝谷さんに『新しい彼女』を紹介したことになる。


「すぐに朝谷さんより好きになってもらえるとは思っていません。千田くんと朝谷さんの間には、私が知らない思い出もいっぱいあると思いますから……」


 そして、朝谷さんの受け取りを訂正する必要があるかどうかは、俺の答えで決まる。


 夕日を背にした鷹音さんは、やはりこんなときでも見惚れてしまうくらいの美少女なのだが――素直な気持ちを言ってしまうと、ちょっと目が据わっているように見える。


「た、鷹音さん……」


 落ち着いて、とも言えない。壁ドンというものがあるが、俺の後ろに壁はなくてもそうされている気分だ――迂闊な動きはできない、そう本能がささやいている。


「私には、朝谷さんの気持ちが分かりません。千田くんとお付き合いをしていたのに、どうして簡単に友達だと言ってしまえるのか……」

「そ、それは……その、やっぱり俺に、彼氏にするほど魅力が無いから……」

「もしそうだったら、一度でもお付き合いをするなんて言わないはずです」


 心のどこかで燻っていて、けれど無意識に打ち消した考え。


 俺の気持ちを元から知っていた。朝谷さんはそれを、俺の告白に対する答えにした。


 彼女が付き合いたいと思っていたわけじゃないから、急に彼氏から友達に関係が変わっても、それは仕方のないことだと思った。


 そうやって、自分を納得させていただけだ。小さな希望に縋りついて、諦めが悪いと言われるのが怖くて。


「その時は、こ……恋人になってもいいと思ったのに、春休みが終わったらすぐ冷めてしまうなんて、何か理由があるはずです。それを、朝谷さんは言わないでいるように見えました」

「……はっきり言うと、俺に悪いって思ってるんじゃないかな。もしくは、俺が怒るかもしれないとか」


 思ったままを言葉にする。しかし鷹音さんにとっては、それは簡単に妥協できない部分だった。


「朝谷さんがそう思っているなら、自分のことを『元カノ』だと私に言ったりするでしょうか」

「……あ……」

「彼女にとっても、それを言うのは勇気が必要なことなんだと思います。ですが……『友達』に戻った理由を曖昧にしたままで、千田くんのことを『元カノ』の立場で見ているのは、ずるいことだと思います」


 『友達』でも構わない。嫌われていなければそれでいい。


 『元カノ』と言われて、俺は全く朝谷さんの眼中になかったわけじゃないんだと喜んでしまった。


 好きになった弱みというのか、俺は朝谷さんを絶対視していて、振られた今ですらそれが変わっていない。


「……千田くんは、悔しいと思いませんか?」

「悔しい……?」

「私は、千田くんを簡単に振ったりしなければよかったと、朝谷さんに思ってほしいです。きっとそうじゃないと、朝谷さんは本当の気持ちを言ってくれませんから」

「……どうして、そこまで……鷹音さんは、俺とはまだ会ったばかりなのに」


 鷹音さんは俺自身よりも、俺のことで怒ってくれている。


 その理由を聞くことを無粋だと知りながら、それでも聞かずにはいられなかった。


 ずっと怒っていた彼女が、ふっと空気を和らげる。こんな不甲斐ない俺に、仕方ない人だと言ってくれているように。


「付き合いたいなんて、簡単に言えることじゃないです。会ったばかりでも、そんなことは関係ありません」

「……俺で、いいの?」

「はい。千田くんがいいです」


 また、同じことを聞いてしまいそうになる。こんな俺でいいのかと。


 さっきまで恥ずかしそうに俯いていた鷹音さんが、今は俺を真っ直ぐに見つめている。きっかけさえあれば、彼女はここまで強くなれる人なのだと改めて知る。


「あなたが助けてくれたこと、それだけじゃなくて、とても傷つきやすくて繊細なこと、それでも痛みに強い人だということ。優しい人だということ……全部、尊敬しています。他にもまだ私の知らないところを、もっと教えて欲しいんです」


 何もかも良い方向に捉えてくれて、照れる以上に少し心配になってしまう。


 俺はどう思っているだろう――まだ鷹音さんのことを、ほんの少ししか知らない。


 朝谷さんに振られてから、他の誰かと付き合える日なんて来ないだろうと思っていた。


 そういう理屈めいた考えを全て超えて、今、俺がどうしたいのか。


「私と千田くんが、お付き合いをして……それで、朝谷さんの心が動いたら。いつか、本当のことを言ってくれる時が来たら。それでも私を選んでくれるように頑張ります……で、ですから……」

「……ありがとう、鷹音さん」

「……それは、どっちの……でしょうか……」


 どういう意味のありがとうなのかと、鷹音さんは不安そうにしている。


 もちろん、良い意味に決まっている。それを言うのが、とても恥ずかしいだけで。


「鷹音さんがしてくれたこと全部に。俺と付き合いたいって言ってくれたことも。でも、告白なんてされたことないから、どうしたらいいのか分からないんだ」

「……それは、二人で分かっていくものだと思います。私も初めてですから」


 安心したように微笑んで言う彼女のことが、今までとは少し違って見える。


 はっきりした言葉じゃない。それでも確かに、今この瞬間に、始まったのだと思う。


「それでは、付き合い始めの記念に……いいですか?」

「えっ……あ、ああ……」


 少し思わせぶりな言い方をされて、すぐに彼女の意図を理解して、スマホを出す。


 スマホを近づけるだけで、アドレス交換が終わる。鷹音さんはスマホの画面を確認すると、嬉しそうに指でなぞって、俺に微笑みかけた。


 ええ、何だこの天使――と、いきなり浮かれたことを考えてしまいそうになる。しかし鷹音さんに何か連絡が来て、彼女は申し訳なさそうにこちらを見る。


「すみません、大事なときに……今日も習い事があるので、家に戻らないと」

「そっか、じゃあ急がないと……二人乗りさえOKなら、駅まで飛ばせるんだけど」

「……あ、あの。こんなことを言うと、千田くんに頼りすぎていると分かっているんですが……」


 鷹音さんはそう言って、おずおずとスマホの画面を見せてくれる。


 表示されているのは、電話の履歴画面だった。『テニス部の人』という電話番号から、何回も電話がかかってきている。これはもしかしなくても、また放課後に鷹音さんを勧誘しようとしていたということだ。


「……女子の先輩なので、番号を教えてしまったんですが、こんなことになるとは思っていませんでした」


 成績優秀な鉄壁の美少女という最初のイメージも、彼女と一緒にいるうちに、少し違ったものになりつつある。


 彼女の素直さ、それで困ったことになってしまうところも含めて、誤解を恐れず言ってしまうと庇護欲が湧いてきてしまう。守りたい、純粋な気持ちで。


「じゃあ、今日も駅まで行こうか」

「っ……は、はい。ありがとうございます、千田くん……いえ、薙人さん」


 なぜか下の名前で呼ぶ時は敬称になっている――なんてことを考えて、じわじわと彼女と付き合い始めたという実感が湧いてきて、自然に顔がほころんでしまう。


「……ご、ごめん。俺の方はまだ、の、希さんっていうのは……」

「……私も心の準備ができていないので、もう少しお互いのことを理解してから、呼び名を変えてくれると嬉しいです」


 俺からの名前呼びチャレンジは今のところは失敗だが、彼女から前向きな提案がもらえた。


 そして、他の生徒がいるところでは、鷹音さんは俺のことを今まで通りに呼ぶのだった。見られること自体を気にするべきではと思うところだが――俺も鷹音さんも初めてなので、失念していたというのが本当のところだ。


「……薙人さん」

「ん?」


 小声で俺に話しかけるときは名前呼びで、正直を言ってドキッとしてしまう。慣れられるのがいつになるか、今のところは見当がつかない。


「ナギくん……の方が距離感が近いですよね。私、絶対に負けたくないので」

「い、いや、鷹音さんには鷹音さんらしい呼び方もあるし……」

「ナギさん……いえ、ナギ様。こ、これは違いますね。やっぱり薙人さんがいいでしょうか」

「さん付けも少し照れるものが……あ、でも俺もそうやって呼んでるしな」

「はい……私のほうも、下の名前で呼ばれても大丈夫なように、心の準備は常にしておきますね」


 こんなことを真面目に話し合っている俺たちは、どんなふうに見えるだろうか。


 そんなことを考えながら、気がつくと門の近くにいたテニス部の先輩たちの前を通り過ぎてしまっていた。


 何か先輩たちに凄い顔をさせてしまっていた気がするが、鷹音さんは勧誘を受けられないということで、分かってもらえるまで俺が盾になるつもりでいた。


「そういうところですよ、薙人さん」

「ご、ごめん。やっぱり挨拶くらいはした方が良かったかな、波風立てないように」

「……そういう意味ではなくて。でも、波風ならいっぱい立ってしまった気がします」


 そう言いながらも、鷹音さんはすごく楽しそうで、その横顔に思わず見惚れてしまう。


 駅まで彼女と向かう間に、どんな話をしようか。彼女も考えていることは同じみたいで――その空気が、今は居心地が良くて仕方がなかった。

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