ACT1-1 誤解/霧の視点
図書室を出ても止まらず歩く。窓から差し込む光はオレンジ色に変わり始めていた。
チャイムの音が、いつの間にか聞こえなくなっている。階段の近くまで来たところで、階下から生徒の声が聞こえてきて――鷹音さんの手を握ったままだと気づく。
「ご、ごめん……っ」
手を離すと、鷹音さんはそっと手を引いて、目を伏せてしまう。
そして彼女は、絞り出すような小さな声で言った。
「謝らないといけないのは、私の方です。千田くんと朝谷さんの事情をよく知らないのに、勝手なことを言ってしまって……」
朝谷さんは俺の『元カノ』だと言った。鷹音さんはそれに対抗して――というのは、改めて考えてみても、飛躍してしまっているように思う。
「…………」
鷹音さんは何か言おうとするが、途中でやめてしまった。同時に髪をかきあげるようにしたときに見えた耳が、明らかに赤くなっている。
『今カノ』だなんて言ってしまって、今になって恥ずかしくなったということなら。
彼女は俺のために、あえてあんなことを言ってくれたのだろう。
「……鷹音さんは、俺が朝谷さんに言われるままなのを、見てられなかったんだよな。それで、『今カノ』だなんて……」
「それは……朝谷さんが、千田くんの『元カノ』だと言ったからです」
「本当のことだから、それを言うこと自体は朝谷さんの自由だよ。それで俺が傷ついたりとか、そういうことはないから」
「いいえ……千田くんのことが心配だったのもそうですが、あれは、私が自分で言いたいと思ったから言ったことです」
俺だけじゃない、自分の問題でもある。そう彼女は言ってくれている。
図書室で朝谷さんと会わなければ、まだ鷹音さんが俺たちのことを知ることはなかった。知られるのが怖かったわけじゃない、振られたとか、付き合っていたとか、そういうのは簡単に人に言うことじゃないと思った。
――けれど、知られなければ情けない姿を見せずに済む。心のどこかでそう思っていた。
「……朝谷さんは、千田くんとお付き合いをしていたことを、私に教えたかったんだと思います」
鷹音さんの言う通りだったとして、なぜ朝谷さんがそんなことをするのか。
俺と鷹音さんが一緒に通学しているところを見て、思うところがあったのか。俺と鷹音さんが付き合っているのかと言った友達を
それに朝谷さんとお茶をすると言ったって、自分たちの近況でも改めて話すのか。
勉強の話をするのか、中学時代のことを懐かしむのか。友達同士では普通の話題でも、今の俺と朝谷さんが自然に話せるとは思えない。
フラれた今でも、朝谷さんのことを応援している。そんなことを今の俺が伝えたとしても、空々しく聞こえるだけだろう。
「……私は……」
鷹音さんは自分のブレザーの下襟をぎゅっと掴む。そして久しぶりに彼女は、俺のことを正面から見た。
――彼女は、怒っていた。頬を紅潮させて、目を潤ませてまで。
「一度は告白を受けたのに、その相手にふられた理由を言わせるなんて、絶対してはいけないことだと思います。朝谷さんがどんなことを考えて『元カノ』と言ったのかは、私には分かりません。でも千田くんは朝谷さんのことを思って、自分から話したんじゃないですか……?」
こんなにも彼女が怒ってくれているのは、俺のためだった。
自分でも馬鹿だと思う。道化を演じれば、俺が本気で朝谷さんを好きだったことも、恋人らしいこともできずに別れたことも、重い事実ではなくなる。
そんな欺瞞では、鷹音さんの目をごまかすことはできなかった。
思い出す――彼女は俺がフラれた理由を話しているときも、ずっと真剣に聞いてくれていたことを。
「俺と朝谷さんは、付き合ってるって言えるようなことは何もしてないんだ。それでも付き合ったって事実は残ってしまう。朝谷さんが『元カノ』って言ったのは、多分義務感みたいなものなんだ」
「そんなのは……千田くんに、甘えているだけです。千田くんの隣に座っているときも、その後に千田くんに話しかけたときも、朝谷さんは嬉しそうでした。それが全部演技だったと、私は思えません」
――ごめんね、知り合いなんて言っちゃって。
――ナギ君の椅子、座り心地良かったよ。
そんな朝谷さんの言葉ひとつひとつに、今でも一喜一憂してしまう。
彼女が何を考えているのか分からない。けれど猫みたいに、気まぐれにこちらを顧みてくれるだけで嬉しいと思ってしまう――それは友達以前の、ただのファンでしかない。
「朝谷さんは、千田くんを振ったことを否定しませんでした。でも、否定をしなかっただけです。別れたのなら私がどう思うか、そう聞いただけ……そんなのは、ずるいと思います」
「……鷹音さん」
悔しいとも、怒ってもいない。これからも、朝谷さんのことを応援する。
本当にそれが俺の気持ちの全てだったら、何も悩んだりすることはなかった。
なぜ別れた後の方が、友達だと言ったあとの方が、絡んでくるのか。
二人で寄り道に誘うくらいなら、別れなくても良かったんじゃないのか。
俺はそんな疑問を朝谷さんにぶつけずに、胸の奥で燻ぶらせているだけだ。
「千田くんは、朝谷さんに怒ったりはしないんですか? 彼女のことが、今でも……」
「さっき言ったことの全部が、やせ我慢だったり、取り繕ってたっていうわけじゃない。プラスマイナスゼロにするのが一番いいっていうのは、本当にそう思ってることなんだ。すぐには難しくても、忘れなきゃいけないとも思ってる」
「そんなこと……朝谷さんが同じクラスにいて、あの距離感で接してきたら、難しいに決まっています」
「……でも、そのままじゃ駄目だから。俺にとっての『友達』と、朝谷さんが思うそれが違うんだとしたら、流されるままでいちゃいけないと思う」
鷹音さんに取られた手をそのままにして、彼女を連れて立ち去る。
当てつけるようなことは駄目だと思っていながら、俺のしたことも変わらない。鷹音さんならついてきてくれる、そんなふうに考えて――強引で、考えなしだった。
「今日は鷹音さんに助けてもらったけど、俺とのことで噂が立つようなことには絶対ならないようにするから」
「……噂、ですか?」
「だ、だからその……」
鷹音さんはまだ目を赤くしたままだが、なぜか不思議そうな顔をしている。
「え、ええと。さっき鷹音さんが言ったことが、まかり間違ってクラスに広がったりしたら、皆が誤解するっていうか……」
「朝谷さんは、噂を広めたりはしないと思います。千田くんが……その、好きになった人を、そんなに疑ったりはしたくありません」
『好き』という言葉に躊躇して、鷹音さんはまた赤くなる。
そして俺は気がつく。
さっきから俺は物凄く真剣で、鷹音さんも俺以上に真剣で、凛としていて。
――そんな彼女が、とても大きな見落としをしているんだということに。
「……その、俺の『今カノ』っていうことは、鷹音さんが俺のことをす……」
「す……?」
「す、好き……だということになるんだけど、それはやっぱりその、これから付き合うっていうのは俺のために言ってくれただけであって、そういう気持ちは本来ないってことで……」
「……あっ……」
その反応だけで分かりすぎるほどに分かってしまう。鷹音さんは、自分が言ったことがどういう意味を含んでいるのか自覚がなかった。
やっぱりそうか――当たり前だ、それはもう至極当然すぎて、勘違いの余地なんて本来一切なくて、俺は彼女が気遣ってくれたことが嬉しいとか、それでもちょっと光栄だとか思ってる場合じゃ勿論なくて。
「だ、大丈夫、絶対誤解が広まらないようにするから。だから何も……っ」
何が心配いらないのかと自分でも思う。すでに真っ赤だった鷹音さんが、これ以上なくいっぱいいっぱいになっている。
「あ、あの……私……」
「わ、分かってる。落ち着いて、俺はちゃんと……」
「……ごめんなさい……っ!」
長い髪を翻して、鷹音さんが走っていく――パタパタと階段を降りていく足音が響く。
一人残されて、どこかで安心していて。同時に、無性に笑えてきてしまう。
三十秒前の俺に言いたい。変な期待をするな、落ち着いて話せ、照れながら言うようなことじゃない。
鷹音さんはお礼をしてくれただけだ。缶コーヒーだけじゃ足りないと思っていた彼女は、その律儀さで、もう一つ勿体無いくらいのことをしてくれた。
俺が朝谷さんの言うがままになっていたから、見兼ねて助けてくれた。そういうのは嘘とは言わない、掛け値なしの優しさだ。
でも、やっぱり『今カノ』は少し勇み足だった。しばらくはどんな顔をして話せばいいか分からなくなるかもしれないが、それは仕方ない。
鷹音さんは文字通りの高嶺の花で。俺は彼女の斜め後ろに座っている、それだけの関係だ。
「……はは。何考えてんだろうな、俺……」
彼女から少しでも特別に見られているかもしれない。だから彼女が言ってくれたことはその場限りの言葉じゃない――なんて、あまりに都合がいい考えだ。
困っていた鷹音さんを通りがかりで助けただけ。それは好きとか嫌いとか、付き合うとか、そういうのとは無関係だ。
そうやって自分に言い聞かせているのも、少なからずショックだからなのだろう。なぜか告白もしていないのに鷹音さんに振られたような状況で、実際そんなようなものだ。
しかしそうなると、鷹音さんと会ってから今までの出来事が一つずつ思い出されてきて。
「だから勘違いしてもおかしくない……ってのは、甘えだよな」
振られたばかりで違う女の子と親しくなり、何か期待してしまうとか、改めて考えなくたって論外もいいところだ。
せめてもの償いとして、これから恋とかそういうものからは距離を置きたい。今の俺にはそんなことを考える資格すらないと思い知ったから。
◆◇◆
「はい。これから出ますので……すみません。
マネージャーの
すぐに帰れば養成所のレッスンに間に合う時間だった。それを、私は自分の都合で遅らせてしまって、やんわりと絞られた。
演技講師の飯田先生は私に目をかけてくれていて、養成所を休めばきっと心配する。今からでも顔を出さないといけないのに、私はナギ君たちと別れたあと、しばらくその場から動けなかった。
「……あーあ。何やってるんだろ」
二人のことを邪魔したかったわけじゃない。渡辺さんに会いに来たのは本当で、でもタイミングが会わなかったらまた明日にするっていうことにもなっていた。
だから私は、ナギ君と、鷹音さんが一緒にいると思って図書室に来た。それで間違ってなくて、二人がそう気づいたって仕方がないと思う。
もっと素直に言えたらいいのに、私は二人を試すみたいなことを言ってしまった。私が何を考えてるか分からないっていうナギ君の顔を見て、そんな目で見ないで欲しくて、でもそれでいいんだって思っている私もいて、頭の中が矛盾ばかりだった。
「教えてって言ったの、私なのにね。わけわかんないよね……」
こんなに早いなんて思ってなかった。
それと同じくらいに、ナギ君のいいところに誰かが気づいたら、そうなってもおかしくないと思ってた。
それでも私は、おめでとうって言うこともできないで、チャイムに消されてしまうくらいの声で呟いただけ。
――どうして私に怒らないの?
聞こえてたら、それで全部終わってしまうようなこと。
ナギ君と付き合い始めてから、私はナギ君が怒るようなことをしたのに、それでも彼は笑って許してくれた。私が、怒るようなことをしたとも思ってなかった。
『友達』って言っても、ナギ君は怒らなかった。彼が傷ついているのが分かっていて、私は無神経にメッセージを送って、それでも――。
そんな私と比べたら、鷹音さんはまだナギ君と一緒に過ごす時間が短いはずなのに、ずっと彼のことを大事に思っていて。
ナギ君を守るためにあんなことまで言って――私に、宣戦布告をしてきた。
でも、勝負なんてしてあげない。
私は『元カノ』だから。ただの友達は、『今カノ』と張り合ったりなんてしない。
だからナギ君に何を考えてるか分からないと思われても、それで構わない。
「……仲良くできるかな。難しいかな」
明日の体力テストで、鷹音さんと一緒に回ると約束した。
私は、彼女のことが嫌いじゃない。新入生代表として挨拶をしたときから、私にないものをいっぱい持っていて凄いと思った。
でも今は、少しだけ。鷹音さんに、憧れるだけじゃいられなくなってる。
ナギ君と付き合うっていうのが本当だとは思えない。ナギ君は驚いていて、それでも私と鷹音さんを一度引き離そうとして、彼女を連れていった。
それなら、私の目が届かなくなったところで話し合って、二人で別々に帰るはず。
私は廊下の窓から、外の自転車置場を見る。
――ナギ君が一人でいる。
やっぱり私の思った通りだった。私と別れて、すぐに鷹音さんと付き合い始めるなんて、いくら何でも急過ぎるから。
ナギ君が自転車に乗って帰っていくまで、見ていようと思った。ここは二階だけど、ナギ君は私がいることには気づかないままで――。
「……そっか……そうするんだ……」
すらりと背が高い、驚くくらいスタイルのいい女の子。鷹音さんが校舎の角から姿を見せて、ナギ君のほうに向かって歩いていく。
自転車通学じゃないのに、鷹音さんは一度ナギ君と別行動になったのに、また戻ってきた。その理由は色々想像できて、でも私は一つしかないと思った。
長い髪が、オレンジの光を浴びて輝いて見える。まるで映画のワンシーンみたいに。
いつもサラサラの真っ直ぐな髪なのに、今日は少しアレンジしていることに、どれだけの人が気づいていただろう。それはきっと、ナギ君に見てもらうためだったんだと思う。
ナギ君が、鷹音さんが来たことに気がつく。二人が、何か言葉を交わしている。
「……っ」
私はそれより先を見ないで、窓から離れた。
窓に映った自分が、とても人には見せられない顔をしていたから。
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