プロローグ・了 宣戦布告

 中学二年のとき、朝谷さんは隣のクラスに転入してきた。 


 前は神奈川で暮らしていて、両親の仕事の関係で引っ越してきた。そんな噂が隣のクラスにまで届くくらいには、朝谷さんは初めから注目を浴びる存在だった。


 自己紹介をするだけで教室に歓声が起こる。他のクラスどころか、一年も三年もみんなが朝谷さんの姿をひと目見ようとやってくる。彼女はそんな、フィクションのような出来事が本当に起きてしまうほど、抜きん出て容姿が整っていた。 


 彼女をめぐって多くの部活で争奪戦になったが、朝谷さんは天文部に入った。その頃から劇団の養成所に所属していた彼女は、拘束される時間が少ない部活を選ぶしかなかったのだと後から聞いた。


 俺も学校の部活以外に放課後にやることがあったために、週に一度しか活動日のない読書部を選んだ。


 天文部は図書準備室、読書部は図書室が部室という体になっていて、俺たちの一つ上の代の部長同士が仲良くなり、部活ぐるみで交流するようになった。


 二つの部の部員はほとんどが女子だったので、朝谷さんも読書部の女子と話したりする関係になっても、俺と言葉を交わすことは無かった。


 ――初めて彼女と話したのは、天文部から提案された流星群の観測会でのことだった。


 俺は荷物持ちで駆り出されて、天文部の部長に頼まれて望遠鏡を観測場所の高台に運んだ。


 一人でも問題は無かったが、大きな荷物で重そうに見えたから、と手伝ってくれた天文部員がいた。


 それが、朝谷さんだった。学校が集合場所だからと制服を着ていた彼女は、当然のように私服で来ている他の部員たちに、ささやかに不満を言っていた。


 そんな朝谷さんが、俺に最初に興味を持ったのは――俺も彼女と同じように、制服を着て集合したからだった。


『ね、みんなも制服で来ると思ったよね。私とか部活休みがちなんだから、そういうとこちゃんと教えて欲しいっていうか……』


 もっと前から友達になっていたような、初めからそんな距離感だった。


 まだ肩にかかるくらいの長さだった髪。それを左右で短いおさげにして結んでいた彼女の姿が、今でもフラッシュバックのように蘇る。


『でも同じこと考えてる人がいて安心した。えっと、万田くんだっけ?』

『せ、千田……薙人だけど……』

『ナギトくんかー。ちょっと珍しい名前だね。私の名前は知ってる?』


 知っているというか、友人や周囲の噂で伝わってきていた。有名人の朝谷さんの名前を知っていても、驚かれたりはしないだろう。


『えっと……朝谷さん、だよね』

『そうそう、あってる。私ってもしかして結構有名人?』


 何も狙ってなんていない、素の反応。彼女は、自分が転校してきてすぐに学校の話題を席巻したことすら自覚していなかったのだ。


 下駄箱にラブレターが入っていたり、登下校中に男子から声をかけられることは珍しくない。そんな状況になるのは、夏休み明けになってからのことだった。春に転校してきてから夏までは、彼女は注目こそされても、同時に近づきがたいほどの美少女だとも思われていたからだ。


 だから俺も、朝谷さんが明るい人なのだとは知っていたが、こんなに人懐っこい表情を見せる人だとは思っていなくて――戸惑っていた。


『あ、でも私、そのうち本当に有名になっちゃうかもだよ』

『え……?』

『なーんて、まだ全然そういうんじゃないんだけどね。ごめんごめん、今の忘れて』


 彼女は小学校から劇団の養成所に通っていて、それと関係なく街頭でスカウトを受けることもあるくらいに、特別な雰囲気をすでに持っていた。


 俺はそのことを知らずに、望遠鏡の入ったバッグを担ぎ直し、高台に続く階段を上がりながら言った。


『え、ええと……朝谷さんだったら、そういうことも全然ありそうっていうか……』

『えー、ほんとに? ほんとにそう思ってる? 今話してたって全然普通でしょ?』


 自分のことを普通だと言う、それも朝谷さんは昔から今まで変わっていない。


 だからその才能は、彼女の努力によって芽吹いたものなのだろう。彼女が中学生のうちに全国区の人気を得たのは、整った容姿だけではなく、同時に持ち合わせた高い演技力によるものが大きい。


 けれど、まだその頃は、彼女にとってもそれは夢のような話だったのだろう。いつか有名になりたい、多くの人に認知されたい。そんな目標に向かって頑張っていて、周りの人にはその努力を決して明かさなかった。


『ねえねえ、ありそうっていうのは、どういうところで思ったの?』

『そ、それは……』


 めちゃくちゃ可愛いから、とはとても言えるわけもない、中学二年の俺。今でもあまり成長していない。


『千田くんの思ったところでいいから、何でもいいから言ってみて。大丈夫、怒ったりしないから。ね、ね』

『え、えっと……』


 どれだけ恥ずかしくても、そのとき言うことができていたら。


 ――そうしたらきっと、俺は彼女が次に見せる表情を見てはいなくて。


『……何か私、一方的にしゃべりすぎだね。ごめんね、うざ絡みしちゃって』 

『あ……い、いや、うざいとかそんなこと全然なくて。俺もまだ部活では浮いてるから、話しかけてくれて嬉しかったし……』

『あ、やっぱりそうなんだ。でもうちの部長は機材持ってくれて頼りになるって嬉しそうだったよ。みんなも男の子がいるといいねって』


 そういうのは言ってくれないと分からないのだが――と思いつつ。


 衒いなく教えてくれた朝谷さんが、そのとき、今までと少し違って見えた。


『そうだ、私千田くんのこと手伝うんだった。制服着てる者同士、頑張ろっか』

『俺一人でも大丈夫だけど……』

『あ、せっかくの共同作業なのにそういうこと言う? なんて、共同作業ってあれみたいだよね、ケーキ入刀みたいな』


 さっきまで喋りすぎたと言ってシュンとしていたのに、もう元気になっている。


 そんな彼女の冗談に、俺は今日初めて話したのに、結構大胆なことを言うんだなと思った。


『後でみんなに言ってあげよっか、共同作業で運んできました! って。そしたら千田くんも部活に溶け込めるかもだよ』



 結果から言うと、朝谷さんは本当に宣言を実行して、部活の皆にはやや受けたといったところだった。


 流星群が見えるというピークの時間まではその場にいられなくて、けれど少しだけ流れるところを見ることができた。その動画は今でも残っている。


 読書部と天文部に交流がなければ、俺と朝谷さんの接点はなかった。


 数週間に一度。それくらい少ない機会に、言葉を交わすだけで惹かれていった。


 ――でも、そう思っていたのは俺だけで。


 少しずつ気持ちが強くなって、卒業式の日に何も言えずに終わることを恐れて。


 最後に立ち寄った、読書部の部室代わりだった図書室で、朝谷さんに会って――仲間と一緒に卒業記念パーティに行くはずだっただろう彼女がここにいることを、巡り合わせだと思ってしまった。


 告白するまで、彼氏彼女で同じ高校に通える幸せばかりを思い描いていた。


 もし受け入れられたら、クラスが違って話すことが極端に少なくなっても『彼氏』という位置を占めていられる。


 それは全部、俺自身のことだけ考えた行動だった。


 いつか朝谷さんと他の誰かが並んで歩くところを見たくなかった。そんな独占欲で、焦って、これから彼女が出会う誰かより先んじていたいというだけで――。


『俺、朝谷さんのことが好きなんだ』


 図書室で何気ない話をして、もうその話も終わりかけていたところで、俺は不意打ちのようにそう言った。


 朝谷さんは驚いていた。ぽかんとしているのとも違う、何を突然言い出すのかという顔でもない。


 彼女はいつものように微笑む。それが『友達』に向けられたものだと気づかないままで、ただ眩しいと思った。


『知ってたよ』


 それが、答えだった。


 俺のことが好きだから付き合う。そんなことは、朝谷さんは一言も言わなかった。


 俺の気持ちに前から気がついていて、それを伝えられて、頷いてくれただけだ。


『高校も一緒だね。これからもよろしく』


 そう言って、朝谷さんは俺とLINE交換をしたあと、恥ずかしそうに図書室を出ていった。


 遅れてやってきた嬉しさに、一人で声にならない叫びを上げた。


 こんなに幸せでいいのかと思った。自分は明日死んでもおかしくないんじゃないかと。


 無駄な想いなんてものはない。恋心は報われるものだ。


 けれどそんな思いも何もかも、全部。


 今にして思えば。朝谷さんと、何事もないままに別れた今となっては――。


 ◆◇◆


 鷹音さんが、俺に今は一人なのかと聞いている。


 もう一度朝谷さんを見ることはできない。鷹音さんから目を逸らすことができないから。


 付き合っている短い時間、俺は朝谷さんに考えていることの一部しか言えなかった。


 フラれたそのときにさえ、自己完結してそれで終わりにしようとしていた。


 理由を知ることで、これ以上惨めになりたくなくて。


 彼女に対する恋が意味を無くしたんだと、分かっていながら向き合わなかった。


 もう、それは終わりにしなければいけない。


 自分が彼氏として失格だった理由を話すことが、どれだけ格好悪いことでも。


「今は、一人だよ。朝谷さんに告白して、一度はOKしてもらえたんだけど……俺、一人で舞い上がっちゃってたんだ」


 忘れられてなんていなかった。声が震えないようにするのがやっとだった。


「朝谷さんは、彼氏としては俺のことを見られなかったっていうか……そうだよな、いつまでも敬語の彼氏なんて変だしさ」


 とんだ勘違いをしていたんだと、冗談めかせて笑ってもらいたかった。


 けれど二人とも、笑いはしなかった。可哀想なものを見る目でもなく、鷹音さんは俺の目を見ながら聞いてくれていた。


「彼氏は無理だけど、友達ならOKってことで……中学の頃と同じに戻っただけなんだ。だから、プラスマイナスゼロって感じかな」


 一度は付き合ったことを、無かったことにする。


 恋をしていたことも忘れて、全部をゼロにする。


 朝谷さんにとって、そして尋ねてきた鷹音さんにとっても、重くならなくて済むように。


「……それが理由で、二人は別れてしまったんですか?」


 鷹音さんが朝谷さんを見る。朝谷さんは表情を変えずに、ただ鷹音さんと向き合っていた。


「そうだったら、鷹音さんはどう思う?」

「……私は……」


 鷹音さんはすぐに答えられない。朝谷さんはそんな彼女を見て微笑むと、俺の方に向かって歩いてきた。


「私は鷹音さんよりはナギ君のことよく知ってるし、仲良くしてると思うよ。ふっちゃったからって、私のこと見たくないくらい嫌いになったりしないよね?」

「……そんなことは全然思ってないよ」

「あ、ちょっと迷ってる。こいつー、って思ってるよね、やっぱり」


 俺に対して負い目がなければ、そんなふうに思ったりはしない。


 できるだけ自然に、『友達』に戻ろうとした。そんな彼女を、俺がどう思っているか。


 少なくとも、憎んでなんていない。怒ってさえもいない。


「そんなことは全然ない。本当に、思ってないよ」

「……そっか。ナギ君って優しいよね、やっぱり」


 朝谷さんはそう言って笑う。そして、鷹音さんよりも俺に近づく――それが『友達』の距離だというように。


「それなら、私がこれからナギ君を借りていってもいいよね」


 まだ鷹音さんと俺は、友達にもなっていないような関係だ。


 同じクラスで、昨日初めて話したばかりで。まだそんな関係でしかない彼女に当てつけるみたいにするのは、絶対してはいけないことだ。


 だから一緒には行けない。俺と朝谷さんは、放課後に二人でどこかに行くような関係じゃない。


「朝谷さん、俺……」

「――駄目です」


 俺の言葉を遮って、鷹音さんが言った。


 朝谷さんが問いかけていたのは、鷹音さんだ。彼女が答えるのは間違いじゃない。


 けれどその答えは俺にとっても、きっと朝谷さんにとっても、想像もしないものだった。


 すぅ、と鷹音さんが息を吸い込む。


(っ……!)


 そして――彼女は俺の手を取って。朝谷さんに向かって言った。


「朝谷さんは、千田くんの『元カノ』ということでいいんですね」

「……うん。それで?」


 朝谷さんは微笑んだまま。けれどその短い返事には、わずかに違和感があった。


 まるで焦れているような――そんなふうに聞こえて。


 鷹音さんは俺を見る。俺は手を取られたままで、彼女を見返す。


 一瞬、彼女が迷ったように見えた。


 その次に、手を握る力が強くなって。


 俺がかけらも想像しなかったようなことを、彼女は言った。


「今からは私が千田くんとお付き合いをするので、私が『今カノ』です」


 窓の外から聞こえてくる、運動部の喧騒。時刻を告げるチャイムの音が、今は遠く聞こえる。


「…………」


 朝谷さんが、鷹音さんから目を逸らす。唇が動いたように見えたが、何かを言ったのかは分からなかった。


 彼女が道を開けるように横に動く。鷹音さんは俺を見る――恐る恐ると言うように。


 俺の後ろをついてきて、裾をつかんで歩いていたときと同じ。『今カノ』なんてことを言うには、相応の勇気が必要で――けれど、本当はきっと不安だった。


 その不安を、今は少しでも軽くしてあげたかった。


「行こう、鷹音さん。朝谷さん、また」

「っ……せ、千田くんっ……」


 鷹音さんを連れて、俺は図書室を出ていく。


 すれ違うとき、朝谷さんは確かに笑顔で――何も言わずに、小さく手を振っていた。


 

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