プロローグ・9 静かな火花

 席替えをしたときに同時に班が決まり、俺は鷹音さんと同じ班になった。


 放課後に掃除当番が当たっていて、図書室の掃除を割り当てられたのだが、広いので三学年から一班ずつやってきて、別のエリアを掃除している。俺たちが掃除しているのは、文芸書などが入っているエリアだった。


 読書部もここで活動しているようなので、中学から引き続き入部するというのも良いかもしれない。運動部のスカウトはあったが、どうも入部希望者が少ない部のようで、高校から新しい競技に飛び込むのは気が引けた。


 何より学校が終わった後もジムに行く日課があるので、それが俺にとっては運動部の代わりになっている。行かなくなると流々姉が拗ねるので、週に二度くらいは顔を出さないといけない。


「そんなに汚れてないし、そろそろ上がってもいんじゃね?」

「もう少しやったら帰ろうぜ。千田君もそうしなよ」

「俺はちょっと図書室に用があるから、時間まではやってくよ」

「そっかー、頑張ってな」


 同じ班の男子二人は部活の方に気が向いているようだ。しばらく掃除をすると、グループの他の女子に一声かけて出ていった。


 俺は読書部の活動をするときにやっていたように、本の並びを整え、棚の埃を丁寧に拭き取る。そして、その書架に入っている一冊を手に取った。


「千田君は、ミステリーの本が好きなんですか?」

「っ……た、鷹音さん……」


 いきなり声をかけられて驚いてしまう。同じ班の女子は渡辺さんともう一人いるのだが、鷹音さんも二人とは別行動になったようだ。


 俺が手に取ったのは『緋色の研究』という本で、シャーロック・ホームズシリーズの一冊だった。


「どんな本があるか見てただけだよ。後で借りようかと思って」

「そうなんですね。私は、このあたりの本は読んだことがあります」


 鷹音さんが指し示すのはアガサ・クリスティの作品が並んでいるあたりだった。中学の図書室に入っていたので、俺も何冊かは読んだことがある。


「まあ、普段は漫画ばっかりなんだけど。こういう本に興味を持ったのも、漫画に出てきたからだったりするし」

「私は漫画を読まないので、一度見てみたいです」


 家の決まりで漫画を見ないとか、テレビを見ないという人には今までも会ったことがある。


 鷹音さんの雰囲気や振る舞い、話し方から、厳格な家なのかもしれないと想像してはいた。漫画を読んだことがないというのも、彼女が言うと説得力がある。


「漫画が元になったドラマを見ると、原作が気になることはあるんですが……」

「ああ、うちの姉さんも同じ理由で漫画を買ってきたりするよ」

「お姉さんと漫画の貸し借りをしているんですね。羨ましいです……お姉さんとはいくつ離れているんですか?」

「俺の二つ上で、別の高校に通ってるよ。鷹音さんと同じ駅を使ってるから、すれ違うこともあるかもしれない」

「もし見かけたら、千田くんのお姉さんだと分かるでしょうか?」

「それはどうだろう、似てない姉弟ってよく言われるから」


 流々るる姉とは中学の時、一年だけ通う期間が被っていた。容姿は弟の俺が言うのもなんだが抜群に整っているし、人当たりがいいので、弟の俺に姉を紹介してくれ、なんてことを急に言われたこともあったりした。しかし不思議な話だが、それだけモテるのに彼氏ができたことが無いらしい。


 貴重な休日に俺を外に連れ出して遊びたがるような姉なので、まだ彼氏とかに興味がない可能性も――いや、さすがに年齢的にそれはないだろうか。家族間にも礼儀ありということで、なかなか触れることがない話題だ。


「……あ、あの」

「あ、ああ、ごめん。話してる時に考え事したりして、悪い癖だな」

「い、いえ、そんなことは……」


 鷹音さんは何かを言いたそうにしている。肩にかかる髪に指で触れて、俺の方を控えめにうかがっている――健気というか、いじらしいというか、そんな仕草だ。


 こうして見て、改めて思う。昨日と少し雰囲気が違うのは、やっぱり気のせいじゃない。


「……鷹音さん、今日はちょっと感じが変わった?」

「っ……い、いえ……」


 鷹音さんは驚いたようにビクッとすると、髪から手を離す。やはり、昨日とはスタイリングの仕方が違っている。


「……昨日、あんなことがあったのに、こんなことに気を使うのは良くないでしょうか」

「あ……」


 テニス部からの強引な勧誘。その一因として、鷹音さんの容姿が目立つことも含まれていただろう。


「良くないってことはなくて……その、いいと思う。髪型を少し変えたのかな、少しふわっとさせてるっていうか」

「……はい」


 短い返事をする鷹音さん。ふわっとさせてるとか、そんなファッションについて無知もいいところの表現じゃなくて、的確に表現できない自分がもどかしい。


 しかし鷹音さんは機嫌を悪くしてはいないようで、周囲をうかがったあとで尋ねてきた。


「……千田くんは、いつ気がついていたんですか?」

「そ、それは……」


 朝、顔を合わせた時から。しかしそう言うと、何か狙ってるように聞こえてしまいそうで。


 女の子の容姿の変化に気づくというのは、好感を得る上で重要なことだという。男女関係なく、気づいてもらえるのは嬉しいものだろうが、気づいても言えないことも多いんじゃないだろうか――今の俺がそうであるように。


「今じゃない……ということだったら……」

「あ、ああ……その、本当は朝から気がついてたんだ。でも急にそんなこと言ったら、鷹音さんも驚くかと思って」

「驚く……どうしてですか?」


 いつの間にか、質問攻めみたいになっている。俺がそうさせてしまっているのだが、素直に言って追い詰められている気分だ。


 しかし鷹音さんは、俺をじっと見つめる目の力をふわりと和らげる。そして、優しく諭すような声で言った。


「……驚いたりしません。いえ、少し驚きましたが……気づいていてくれて、嬉しい気持ちの方が大きかったです」


 鷹音さんが微笑む――はにかんだその表情を見て、安堵が胸に広がる。


 思っていることを伝えられた。『キモい』と切り捨てられかねないと心配していたと知ったら、鷹音さんにきっと困った顔をさせてしまうだろう。


 まだ話すようになって二日目だ。今日は朝から彼女に話しかけてもらって、そして今も、きっかけは彼女から作ってくれた。


 同じ班でいるうちは、一緒に行動することも増える。けれどどちらかがそうしたいと思わなければ、こうして話す時間は存在していない。


「その……何て言えばいいのか。鷹音さん、ありがとう」

「い、いえ……っ、今は、私がありがとうと言うところです。昨日のことだって……」

「そ、それなんだけど……昨日は缶コーヒーだって貰ったし、貸し借りとかでも考えてないっていうか……あまり、重く考えないで欲しいんだ」

「……それは……」


 鷹音さんに伝えておきたいと思っていたことがある。


 今言わずして、いつ言うのか。今を逃したら、同じように二人で話せる機会が次にいつ来るか分からない。


「昨日みたいなことは起こらないに越したことはないけど、鷹音さんは人気があるから……もし困ったことになったら、その……え、遠慮とかはしないでほしいっていうか……」


 彼女の力になりたいと思っているのに、そのまま言葉にできない。


 耐性がないとか、そんな言い訳はもうしていられない。彼女から話しかけてくれているのに、それでいつまでも緊張しているのは失礼だ。 


 しかし、髪のことを伝えた時から、鷹音さんのことを直視できない。


 彼女が照れていることが伝わってくる。それでも俺の話を聞こうとしてくれていることも。


「……千田くんに頼ってしまうのは、いけないことだと思っていました」


 やはり、鷹音さんには遠慮する気持ちがあった。


 けれど、彼女が望まないことを強いられてしまったときは、そんな遠慮は一切しなくていい。


 俺がそう言う前に、鷹音さんは決意したように、胸に手を当てて言葉を続ける。


「でも……今日の朝、一緒に教室に行くときに思ったんです。千田くんと一緒だと、すごく安心するって」

「……俺、緊張して全然鷹音さんのことを見られてなかったけど、それでも?」


 鷹音さんはくすっと笑って、そして頷く。


 いつも落ち着いた表情の彼女が見せる笑顔には、思わず目を奪われる魅力があった。


「私も千田くんのことを見るのに、思いきらないといけないんです。でも、どうしても千田くんがそこにいるって確かめたくなって……」


 朝、教室に入って席に着いたとき。鷹音さんが振り返ったときの、はにかんだ笑顔を思い出す。


 俺と席が近いことを、喜んでくれているんじゃないか。そう思ったのは間違いじゃなかったと、鷹音さん自身が伝えてくれた。


「さっき、昼休みの終わりに……それだけじゃなくて、五限と六限の間も、鷹音さんに相談したいことがあったんだ」

「……相談したいこと……ですか?」


 渡辺さんの席からでは、少し黒板が見えにくいこと――朝谷さんもそれを心配していたこと。


 しかしそれを言うと、今でも朝谷さんの機嫌をうかがっている自分から、変われていないというようなもので。


 そして、今相談することで、渡辺さんと鷹音さんがもし席を変わったとしたら。それは俺が、鷹音さんに隣に座って欲しいと言ってるのと同じで。


 この期に及んで迷っているうちに、緊張している様子だった鷹音さんがふぅ、と小さく息をつき、肩の力を抜く。心なしか、図書室に差し込む西日の中で、頬に朱がさしているように見えた。


「実は、私も相談したいと思っていたことがあるんです。もし、私の席が……」


 鷹音さんが、そう言いかけたとき。


 書棚に挟まれた通路。その向こうに、見間違えようもない女子生徒が姿を見せる。


 光が滑るようなサイドテール。肩にかかるそれを後ろに送りながら、俺たちを見た彼女は、口に手を当てて笑った。


 見つけた、とそう言われているみたいで。


 掃除当番を割り当てられていない彼女が、なぜここにいるのか。ここに来るということは、俺たちを探しに来たのか――そんな考えが次々と過ぎる。


「もう掃除は終わったんだよね? お疲れ様、ナギ君。鷹音さんも」

「お疲れ様です。朝谷さんは、図書室に何か用事ですか?」

「うん、渡辺さんと話しに来たんだけど、入れ違いになっちゃったかな」


 渡辺さんが鷹音さんと席の話をしたいなら、図書室にいるうちにできたはずだ。それをしなかったということは、渡辺さんはそんなに席を代わりたいと思っていないか、あるいは今日でなくても良いと思ったか。いずれにせよ、先に帰ったことにそこまで深い理由はないように思える。


 しかしそれは、ここに朝谷さんが来なかったらの話だ。


 渡辺さんがいると思って朝谷さんがここに来たのなら、LINEで待っていてほしいと伝えることはできるだろう。


 あえてそうせずに、ここに来た。それは、俺と鷹音さんがここにいると思ったから――考えすぎかもしれないが、昼休みからずっと、俺は朝谷さんの言動に振り回されている。


「あ、後で渡辺さんには連絡しておくから大丈夫だよ。それでナギ君、これから暇?」

「え……い、いや……」


 話の流れが急すぎて理解が追いつかない。渡辺さんと話したいのなら今から追いかければいいんじゃないか、それすら言わせてもらえない。


「もし予定なかったら、少しお茶でもしない? ナギくんには日頃からお世話になってるし、お礼したいなって」


 頭の中には疑問しかなかった。鷹音さんの前でも『ナギくん』と呼び続けていること、『日頃から』の部分に含みを持たせるような言い方をしたこと。


 そんなふうに思う自分が、まだ朝谷さんに対して未練があるのだと感じてしまったこと。


 いくらお互いに友達だと言ったって、朝谷さんと放課後に学校外で一緒にいれば、誰かに見られれば必ず噂になる。


 それを朝谷さんも分かっているはずなのに、何も気にしていないように、あっけらかんとしている。


 そして何より朝谷さんは、目の前に鷹音さんがいても、俺を連れ出すことに躊躇していない。


「日頃からお世話にというのは、教室で千田くんに勉強を教わっていることですか?」

「それもなんだけど、色々だよね。私とナギ君って中学二年から同じ学校だし」

「あ、朝谷さん。まだ、二年で会ったばかりの頃は、俺たちそんなに……」

「あんまり話してなかったね。でも私は、ナギ君のこと知ってたよ?」


 中学二年のときは、朝谷さんとの接点は数えるほどしかなかった。


 俺しか覚えていないような些細な出来事ばかりだと思っていた。今になって覚えているなんて言われても、彼女の考えが全くわからない。


「あ、そうだ。鷹音さんも一緒に行く? 二人とも、最近仲良くなったみたいだし。今日の朝も一緒に歩いてたよね」


 鷹音さんが誤解を受けることを避けたいなら、俺も彼女も、そんなでもないよ、普通だよと言って笑っていればいい。


 けれど、彼女は周りの人の言うことは気にしないと言ってくれた。


 ――だから。


 鷹音さんが朝谷さんにその質問をすることは、きっとどうやっても変えられないことだった。


「朝谷さんは、千田くんとどんな関係なんですか?」


 抑制された静かな声。けれど鷹音さんの目には、誤魔化さないでほしいという意志が感じられた。


 それを見ても朝谷さんは動じなかった。


 鷹音さんと同じくらいに抑えた声で、はっきりと彼女は言った。


「一応、ナギ君の元カノ……でいいんだよね?」


 質問が向けられたのは、俺のほうだった。


 鷹音さんがこちらを見る。前から感じていたのか、それとも今気づいたのか、その表情からは分からない。


 朝谷さんは微笑んでいる。本当のことだから、言っていいよね? というように。


 何も言わないでいれば、それが肯定になる。俺が朝谷さんとのことを言わなかったことを、鷹音さんがどう捉えるのか。


 『元カノ』の朝谷さんが俺を誘うことを、どう思うのか。普通のことだと思うのか、それとも中途半端な関係だと呆れてしまうか――そのどちらでもないのか。


「……それなら……」


 鷹音さんが口を開く。朝谷さんは微笑んだままで、それを聞いている。


「千田君は、今はひとりだということでいいんですね」


 朝谷さんを見て言ったあと、鷹音さんは俺の方を見る。


 今、朝谷さんの前で答えて欲しいというように、彼女は俺の言葉を待っていた。


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