プロローグ・8 翻弄

 午前最後の授業は体育だった。先生が早めに切り上げてくれたおかげで、学食で食事をしても昼休みが終わるまで余裕があった。


 学食で鷹音さんの姿を見たが、彼女は女子グループで談笑していて、ちょっかいを出そうとする高寺を荻島がブロックしてくれたおかげで、面倒をかけずに済んだ。


「千田も鷹音さんとお話したかったよな? なんか気にしてるみたいだったし」

「え、そうなの?」


 しかし高寺は微妙に心残りがあったようで、教室に向かう途中でそんなことを言ってきた。


 朝谷さんと彼女の友達の数人、そしてクラスの何人かは、今朝俺と鷹音さんが一緒に教室に来たことを知っている――さすがに教室に入るときには微妙にタイミングをずらしたが、俺も鷹音さんの誘いを受けた以上は、廊下にいる段階から縦に並んで適切な距離を保とうとは提案できなかった。


「朝谷さんみたいなキラキラ系だけじゃなくて、お淑やか系の鷹音さんも守備範囲なんだね」


 そう言って爽やかに笑う荻島に、人を節操がないみたいに言わないでくれと言いかけて、ぐっと言葉に詰まる。


「あの霧谷乃亜と普通に会話できるってだけですげえのに、俺たちの『ザ・高嶺の花』鷹音さんとも仲良くなりやがったら……」


 できたばかりの友人と、これで断交となるのか――と心配したが、そんなことは全くないようで、ガッと肩を組まれた。


「な、なんだ……歩きにくいんだが」

「こうしとけばご利益があるかと思って。せめて女子と話すくらいしないと、何のために高校に来たんだって話だしな」

「勉強するためじゃないの? あ、そんな怖い顔しないでよ」

「おまえは女子にも自然に話しかけられるからいいよな。俺は顔がこえーって言われてんの聞いちまったよ……俺ほどの内弁慶もそうそういねえってのな」

「俺も女子からは結構酷いこと言われてるから、気にするなよ」

「んなこと言って、今日のランニングもかなり速かったじゃん。足が速いって女子には高ポイントじゃん」

「やるときはやるタイプなんだね、千田くんは。授業で当てられても落ち着いてるし」


 それは格好悪いところを見せられない相手がいるからというのが本当のところだ。


 朝谷さんのことを意識しなくなったかといえば、一日では到底無理だった。なぜ電話をかけてきたのかが未だに気になってしまっている。彼女が理由を言いたくなければそれまでで、しつこく聞いたりはできないが。


 そして、こんなことを思うのは明らかに自意識過剰で、自分で自分が気持ち悪いと思ってしまうのだが。


 左斜め前の席に座っている鷹音さんのことも、ふとした拍子に気にしてしまうようになった。昨日の席替えのときから目を惹かれてしまっていたが、今日はそれともまた違っている。


(昨日みたいなこともあるから、鷹音さんとはいつでも連絡できた方がいい。そうすればいつでも俺は助けに行けるし……いや、今朝のことでテニス部が退いてくれればそれに越したことはないし、連絡のためにスマホのアドレスを交換したいとか、下心があるって思われないか……?)


 俺に少しでも不純な考えがあると感じたら、鷹音さんは良く思わないだろう。


 ――私は、周りの人の言うことは気にしません。


 鷹音さんはそう言ってくれたとき、俺の方を見ずに、ずっと前を向いて歩いていた。


 あのとき俺は周りにどう見られるか考えることも忘れて、ただ彼女の言葉に耳を傾けた。


 ――千田くんは、とても素敵な人です。


 その言葉に救われて、俺みたいな奴に話しかけてくれるだけでも天使みたいだと思って――そんな人の信頼を、絶対に裏切りたくはない。


「……んんんんんん?」

「っ……ど、どうした? 高寺」


 教室に入るところで、高寺が急に妙な声を出す。荻島は「おお」と言って、目を丸くしている――俺の席がある方向を見て。


「のあり……霧ちゃん見て、これ昨日撮ったやつ」

「あ、見る見る。SNSにはあげないの?」

「無理無理、うちらは見る専だから。霧ちゃんが見切れる感じで映ってくれたらバズりそうだけど。その場にいる気配だけで再生伸びそうだよね」

「そう? 山口さんの動画、可愛くていいと思うよ。私もやってみたい」

「ほんと? めっちゃ嬉しいー。じゃあ今度また誘うね」


 話は断片的にしか聞こえないが、昨日朝谷さんのグループは、部活見学をしたあとに遊びに行ったということらしい。それで、朝谷さんは途中で別行動になったということのようだ。


 山口さんは髪の色も明るく、高校デビューなのかどうかは分からないが、いわゆるギャル的なイメージの女子だ。中学は俺や朝谷さんとは別だったので、高校に来てから朝谷さんと仲良くなったことになるが、もともと朝谷さんに憧れていたのだろうか。


 どんな相手とでもすぐに仲良くなれる、それが中学時代の朝谷さんのイメージだ。目立つ女子の中にいても一際存在感があって、いつも中心人物になっていた。


 多くの人に好かれるということは、それだけの魅力があるということだ。今もクラスの男の何人かが、いつ朝谷さんに話しかけようかと機会をうかがっているのがわかる。


「ま、うちの学校のアイドルに席を献上するってのも光栄な話だーな」

「アイドルじゃなくて女優だよ。時々バラエティにも出てるから、マルチタレントっていうのかな?」


(お、おい……っ)


 高寺と荻島は席が近く、教室の前の方なので、ふたり連れ立って行ってしまう。


 そう――朝谷さんのグループに近づきがたくて、それでも遠巻きに見ているのは、朝谷さんが座っているのが俺の席だからだ。教室に入ったところで高寺が変な声を出していたのは、朝谷さんが俺の席に座っていることに対してだろう。


 左隣の席に座っている渡辺さんのところに女子三人が集まっていて、そのうちの一人が朝谷さんだ。渡辺さんと話すために俺の席に座ること自体は、何も不自然なことではないのだが――よりによってと思ってしまうのは、俺が小心者だからだろうか。


「それでさー、部活結局どうする?」

「霧ちゃんは演劇部に熱心に誘われてたけど、保留にしてたね。やっぱり忙しいから?」

「興味はあるけど、今のところは軽音部がいいかなって」

「霧ちゃんって家でギター弾いてるんだよね。弾き語りの動画、再生数やばくなかった?」

「朝谷さんほんとに上手だった。インスタのストーリーでアップするだけじゃ勿体ないよ、絶対メジャーデビューすべきだよ」

「あはは……なべゆかが二人目だね、私の歌を面と向かって褒めてくれたのは」

「えー、その言い方だと一人目がめっちゃ気になるんだけど」


 なべゆかというのは渡辺さんのことだろう――確か下の名前は由香里だったはずだ。朝谷さんのインスタというのが霧谷乃亜名義のものなら、彼女も芸能人としての霧谷さんを応援しているということになる。


「あ、やば……五限のコミュ英の発表準備しなきゃ。霧ちゃーん……」

「んー? 私に聞いてもあまり頼りにならないよ。伊名川さんは英語得意?」

「うちも自信なーい。慣れるまでは様子見で行こうと思ってたから」


 コミュニケーション英語の授業でスピーチの発表があるのだが、事前に当てられていた山口さんは少し自信がないようだ。


 授業に慣れるまでは仕方ないことなので、発表が上手くいくといいが、そうでなくても最初なので、先生も寛大に見てくれるだろうと思いたい。


 しかし――朝谷さんは、ふと何かに気づいたように、後ろを振り返って。


 俺と朝谷さんの目が合ってしまう。朝に見た彼女の目を思い出して――けれど、今の朝谷さんは、まるで別人のように表情豊かで、笑顔も朗らかだった。


 勉強のことで、これからも俺に頼ることがあるかもしれないと朝谷さんは言っていた。それで俺がいることに気づいて声をかけようとしたのか――そんな考えが過ぎって。


「――そうだ、鷹音さんに教えてもらえばよくない?」


 山口さんがその名前を出すと、朝谷さんは俺と目を合わせても何事もなかったかのように、もう一度前を向く。


「それがいいかも。鷹音さん、一年生で一番成績いいしね」


 朝谷さんの話す声はいつも通りだった。


 変わったりする理由はないのだから、当然だ。今日の朝、鷹音さんと俺が一緒にいるところを見られたが、それを朝谷さんが気にすることはないだろう。


 ――しかし、もしかしたらと考えずにはいられない。


 フラれた翌日に別の女子と親しくしている俺を見て、朝谷さんが何を感じたか。


『ちょっとした用事だから気にしないで。ナギくん忙しかったんだよね』


 あの文面を見る限りでは、朝谷さんはいつも通りだった。


 『友達』が他の女子と歩いていても、そこまで気にすることはない。少なくとも俺が知っている朝谷さんは、そういう人だ。


(……俺が何を知ってるっていうんだ? 何も知らないから、ああなったんじゃないのか)


 今もこうして、俺の席に座っている彼女に気を使って、自分から席を立ってくれるまで待っているだけ。


 教室で、皆の前で話しかけることもできない。


 俺と朝谷さんは、友達という関係よりも遠かった。朝谷さんが友達と言ったことで、むしろ近づいたんじゃないかとさえ思う。


 それも自虐でしかない。ここで立ったまま、彼女たちが俺の存在に気づいて気まずくなるよりは、用事を思い出したふりでもして、外で時間を稼いだ方がいい。


 しかし、踵を返そうとしたそのときに。


 教室に入ってきた、長身の女生徒――鷹音さんが、俺の横を通り過ぎて、朝谷さんたちの方に近づいていった。


「あ、鷹音さん。ごめんなんだけど、次のコミュ英の準備ってしてある?」


 話しかけたのは、朝谷さんの方だった。座っている朝谷さんが見上げるような形で、鷹音さんと向き合う。


「私は、発表がないので……予習はしていますが。ノートを見ますか?」

「あ……わ、私……」


 山口さんは、朝言っていたことを鷹音さんに聞かれていたと思っているようで、噂をしていた相手にノートを見せてもらうというのは気が引けたようだった。


「私も席に着きたいので、ノートは自分の席で見てもらってもいいですか?」

「う、うん……ごめん、鷹音さん。ありがとう」


 山口さんともう一人の女子――伊名川さんは、鷹音さんのノートを受け取って自分の席に戻っていく。


 そして鷹音さんも自分の席に戻る――その前に、もう一度朝谷さんを見る。


「ねえ、鷹音さんって、飲み物は何が好き?」


 朝谷さんは全く予想もしない質問をする。世間話にしても、それは急な振り方のように思えた。


「……強いて言うなら、紅茶は好きなほうだと思います」

「あはは……そういう好みの話でも真面目なんだ、鷹音さんって」


 朝谷さんと鷹音さんの会話を聞いて、美少女二人がお茶に行く約束をしようとしている――クラスメイトはそんな解釈をしている。


 俺もその解釈に乗りたい。乗りたいが、とてもじゃないが、俺の立ち位置ではそんなふうには考えられない。


「朝谷さんは、どういった飲み物が好きなんですか?」


 朝谷さんはSNSで、寝る前に水を飲んでいるという話をしていたことがあった。モデルや女優がよくやっている、身体を整える方法の一つだ。


 彼女はジュースの類も、お茶などの嗜好品も、常日頃から飲むことはしない。


 ――しない、はずなのに。


「コーヒーとか、結構好きかな」


 コーヒーは眠れなくなるから、滅多に飲まない。朝谷さんはそう言っていたことがあった。


 眠れなくなるだけで好きだということか。急に飲み物の話をしたこと自体に、何かの意図があるのか。


 ――立ち聞きをしているわけにもいかない。しかし朝谷さんは、俺がその場を離れる前に席を立った。


「サユちゃんにノート貸してくれてありがとう。鷹音さん、明日は一緒に体力テスト回ろうね。もっと色々話したいから」

「分かりました。明日は、よろしくお願いします」


 鷹音さんの答えに嬉しそうに応じたあと、朝谷さんは自分の席に戻る――廊下側の前の方の席。だから、教室の後ろにいる俺の方に寄る必要はない。


 ないのに、彼女は俺の前までやってきて、そして言った。


「ごめんね、ずっと席借りちゃって」

「っ……い、いや、それは全く……」


 気にしなくていいよ、とか。全く落ち着いて言うことができない俺は、なぜこうも朝谷さんの前では成長どころか退化してしまうのだろう。


 そんな俺の心中など露知らず、朝谷さんはすれ違いざまに、囁くような小さな声で言う。


「ナギ君の椅子、座り心地良かったよ」

「っ……」


 意識しないようにしていたのに――これじゃ、どうしたって意識するしかなくなる。


「お、おい。朝谷さん、今、なんか千田のこと別の感じで呼んでなかった?」

「な、なんかあだ名でもついてたんだろ、同中だしな……」 


 そんな声が聞こえてきて、俺も遅れて気がつく。皆の前であだ名を呼ばれるのはまずい――今までは朝谷さんも、人前では『千田君』と言っていたのに。


「…………」


 鷹音さんがこちらを見ている――その視線は冷ややかなものではないが、見られていると落ち着かない種類のものだった。


 彼女が席に着いたあと、俺も自分の席に着く。授業の準備をしようと何気なく机に手を入れると――そこには、折りたたんだ紙が入っていた。


『新しい席は気に入った? 渡辺さんが黒板見にくかったら、できれば助けてあげてね。大人しい子だから、いろいろ遠慮しちゃうかもだし』


 SNSではなく、メモで伝えてくる――もしかして、電話の用事はこれだったのだろうか。


 小柄な渡辺さんは、授業で真正面の位置に板書をされると見えにくいようだった。前の席の鷹音さんと話したそうにしていたのは、たぶんそれが理由だろう。


「「……っ」」


 鷹音さんに相談してみようか――と斜め前を見たところで、思い切り目が合ってしまった。


 話しかける間もなく前を向いてしまう鷹音さん。そうこうしているうちに予鈴が鳴って、完全に声をかけるタイミングを逸してしまう。



 そして次の休み時間も鷹音さんに話しかけることはできず、放課後に望みを託すことになった。


 この距離に座っているのに、スマホで連絡できたらとこれほど思うことになるとは――全く後ろを向かなくなった鷹音さんの背中を見てしまうのも申し訳なくて、一分一秒が経つのが遅く、もどかしくてならなかった。


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