プロローグ・7 希の視点
◆◇◆
ピアノのレッスンを終えて、家族での夕食を終えたあと、お風呂までの時間に課題を終わらせる。そうしたら、いつも夜十時半までには寝るようにしていた。
「…………」
課題のノートを開いて、私はシャープペンシルを持ったまま、駅前通りでのことを思い返していた。
『鷹音さんっ!』
その声が聞こえたとき、私は今見ているものが現実なのか、夢なのか分からなくなった。
後ろから走ってきてくれた男の子が、私の知っている人だということは分かっても、彼が助けに来てくれたということに現実感がすぐに持てなくて、ただ見ていることしかできなかった。
『良かった、間に合った。今日クラスのみんなで集まってるんだけど、鷹音さんもできたら来てほしいって話になってて……』
彼が言っていることを、先輩たちよりも、最初は私が一番信じていたと思う。
そういうこともあるかもしれないと思った。彼がこんなに息を切らせてそう言うのなら、と。
けれど改めて考えてみると、彼が言うようなことはそうそう起こらないとも思った。
私の周りの人たちは、クラスで集まる話なんてしていなかった。ファーストフード店での勉強に誘ってくれたけれど、男子も含めて集まるということにはならないと思った。
クラスの中心にいる朝谷さんたちも、今日はこのあたりに出て寄り道をしていくと言っていた。
朝谷さんは有名な学生タレントで、テレビなどに疎い私も『霧谷乃亜』という名前は知っている。入学した当初から、彼女は男女問わず注目を集めて、クラスでも存在感が大きかった。
その朝谷さんが参加しないのに、クラスで集まることはありそうにない。彼は何か理由があって、事実とは違うことを言っている。
それなのに、彼は先輩たちに睨まれても、何も怖くないみたいに堂々としていた。
『あ、先輩方、何かご用事でした?』
私は先輩たちに囲まれてしまったとき、勧誘を受けるしかないと諦めそうになっていた。それがただの弱音だって言うみたいに、彼は
テニスは子供の頃からの習い事の一つで、中学三年間で部活動の一員としてできるだけ休まずに参加して、満足のいく結果を出すことができた。
けれどそれだけでは、選手としての私を知っている人たちにとっては、テニスを続けない理由として不十分に見えるのかもしれなかった。
でも、本当は。
自分たちだけで話したいというように言っていたのに、男子の上級生のところに私を連れていった女子の先輩たちに、言いたい気持ちでいっぱいだった。
――私を連れてくるように頼まれていたんですか。
――こんなふうに勧誘をするのは、ルール違反のはずです。
けれど、言葉にできなかった。感情は溢れそうなのに、怖がっていないように見せないと付け込まれるから、落ち着いているように見せようとしていた。
逃げ出したくても、足は動かなくて。先輩たちが、私の後ろから来た彼を睨んで――彼に迷惑はかけられないと、せめてそれだけでもと考えて。
『こっちも大事な用事なので。すみません、先輩方』
教室で見た時、彼は隣に座っている朝谷さんに、とても遠慮をしているみたいだった。
朝谷さんは魅力的な人だから、彼が意識しているのかもしれないと思った。
でも彼女に言われるがままになっているようにも見えて、気が優しい人なのだと思ったけれど、あまり良い印象は持っていなかった。
――もっと早く、気づくべきだったのに。
『彼』が朝谷さんに見せる態度が、特別なだけ。
本当の『彼』――千田薙人さんが、どんな人なのか。私はそれを、前に一度見せてもらっていた。
彼が先輩たちの前に出て、私の手を引いてくれたその瞬間に、頭の中が真っ白になりそうになった。
それは、茫然自失になったからじゃなかった。
胸がいっぱいになって、何も考えられなくなったから。
◆◇◆
彼のことを『千田くん』と呼ぶだけでも、勇気が必要だった。
彼は全然そういうことには気が付かなくて、一緒にいる時間のうちに、少しずつ緊張せずに話せるようになっていった。
何でもないことを話せるだけでも嬉しかった。助けに来てくれたことを何度もお礼を言いたくて、そんなことをしたら変だと思われるから、やっぱり私は落ち着いているふりをするしかなかった。
何度彼に気づかれないように深呼吸をしようとしたか分からない。過呼吸のようになったことは今までにもあったけれど、誰かを意識してそうなったのは生まれて初めてだった。
彼は先輩たちに転ばされてしまったように見えたのに、路地に入ったところで誰も見ていないことを確かめると、何事もなかったみたいに平気な顔をしていた。
先輩たちは彼の動きの大きさに驚いてしまって、上手に受け身を取っていたことには気づいていなかった。
『……千田くん、本当に怪我はしていませんか?』
『そ、それは本当に大丈夫。見せられないけど、擦り傷とかもないから』
本当に傷一つないみたいで、でも制服が少し砂で汚れてしまっていた。とても申し訳なくて、私にできることなら何でもしてお詫びをしたいと思った。
でもそういう言い方をしたら、彼がきっと遠慮してしまうことも、顔を赤くしているところを見てなんとなく分かった。
千田くんはすごい人なのに、過剰なくらい謙遜している。
朝谷さんが千田くんのことを頼っているのは見ていてわかるのに、彼はそれでも遠慮してしまっている。だから、言われるがままに見えてしまっていたんだと気づいた。
流されてしまう人、押されると弱い人。そんなのは全部、私が思い込んで、偏った見方をしていただけだった。
『……じゃ、じゃあ俺、買い物して帰るから』
彼が急にそう言うので、待ってと言ってしまいそうになった。
私に引き止める権利はなかった。時間を取らせてしまって、彼に迷惑をかけて。
それなのに、手が動いてしまっていた。
そんなことをしては絶対にだめなのに、千田くんの制服の裾をつかんでしまった。
彼は行かないでくれて、立ち止まってくれた。顔が熱くなっているのが分かって、それでも彼が慌てて行ってしまおうとすることにどこか意地になって、彼の反応をうかがうようなことを言ってしまった。
『……千田くんは、お礼を言われたりするのは、照れてしまう性格なんですか?』
思い返しても恥ずかしくなる。落ち着いていられてないのは私も同じなのに、あんなことを言ってしまった。
『い、いやその、お礼を言われるようなことでもないというか……』
言葉で受け取ってくれないのなら、何か別の方法でお礼をさせてほしい。それくらいに思っていて、気持ちが前のめりになりすぎて、落ち着いたふりなんて全然できていなかったと思う。
それからのことは、今思い出しても――恥ずかしいより、嬉しさのほうが大きくて、いてもたってもいられなくなってしまう。
駅まで送ってくれて、手を振って別れることもできた。
電車のドアが閉まる前に、私が急に降りてしまったら、彼は困ってしまうだろうかと思った。
そんなこと絶対にできないのに、考える自分が可笑しくて――でも。
動き出した電車から見える、ホームの光景。時刻表の向こう側に見えた、碧桜学園の制服を着た人の姿。
どうしてそこにいたのかは分からない。私たちのことに気づいていたのかといえば、それも分からない――私が気づいたときには、向こうはこちらを見ていなかったから。
急に、胸がざわめき始める。こんなとき、電話やメール、SNSで連絡できたら、そう思って自分の行動力のなさと、彼との別れ際に飲み物を買って渡すことしか頭になかったことを思い出して、机の上でうずくまる。
(……あのときアドレスを教えてくださいって言ったら、これからも千田くんのお世話になりたいって言ってるみたいで……聞けなかった)
出会いの挨拶をしたあとに、自然にアドレス交換をする人たちを、こんなに羨ましいと思ったことはなかった。必要があるときに、聞かれたら交換すればいいと思っていた私は、人との付き合い方にきっと大きな欠陥があった。
本当にアドレスを聞きたい人には、自分で聞かないといけない。でも、千田くんに断られたら――想像しただけで胸が苦しくなって、明日学校に行くのも怖くなる。
気がついたらもう一時間も机の前にいて、課題のノートを開いていても半分も進められていなかった。もうすぐお風呂に入らないといけない時間なのに。
すぐ近くの席にいる千田くんに、恥ずかしいところは見せられない。
こんなに席が近かったら、また話したりすることはあるかもしれない。
そういえば、私の後ろの席になった渡辺さんは、私が前にいても黒板が見えるだろうか。私は中学に入ってから身長が伸び始めて、いつもできるだけ後ろの席に座るようにと言われていた。
(後ろの……渡辺さんと席を変わることになったりしたら、千田くんと……)
胸に浮かんだ考えに、私は思わず首を振る。
渡辺さんが黒板を見られなかったら、席を替わる。私自身にそうしたい気持ちがあるのに期待してしまうのは、都合がいい考えだと思う。
けれど一度考えてしまうと、もし千田くんと隣になれたら、そのことばかりが頭に浮かんできてしまう。
お母さんがお風呂に入るようにと呼んでくれるまで、私は結局課題を進められないままで、ずっと彼のことばかり考えてしまっていた。
◆◇◆
千田くんは登校時間がいつも早いけれど、私より先に来ていることは無かった。
学校には始業の三十分前に行くようにしていて、その時間に絶対彼の姿を見ることはないと思っていて――自転車に乗って校門をくぐっていく彼の姿を見たとき、私は走り出してしまっていた。
自転車置場まで追いかけてきたなんて、千田くんに特別な気持ちがあると思われてもおかしくない。けれど彼は、最初は驚いたけれど、私のことを
部活の話が出て、入る部活が決まったら教えてくれるようにお願いすることができた。
そして、自転車置場から昇降口に行く時に――私は、勇気を出して彼を誘った。
『……そろそろ、行きましょうか』
『そ、それは……俺と一緒だと……』
まだアドレスも聞けていなくて、一緒に教室に行くことも拒否されてしまったら。そう思ったら、自分でも情けないくらいに落ち込んでしまいそうになった。
昨日が特別だっただけ。駅まで送ってくれたのは千田くんが優しいから。
そう自分を納得させようとして――できなかった。
『……行きませんか?』
家で飼っているシーズーのココアは、私が出かけるときにいつも寂しそうにお見送りをしてくれる。私もきっと同じくらい、寂しさが顔に出てしまっていたと思う。
少しでも一緒にいたい、そうやって言ってしまっているのと同じ。こんなお願いをしたら、千田くんに迷惑をかけてしまうかもしれないのに。
千田くんはいろいろなことを考えているみたいだった。彼が困るなら、別々に教室に行った方がいいと思って、あきらめそうになった。
――けれど、千田くんがふっと笑ってくれて。
『うん、行こう』
そのとき私は、今日は帰ったらココアのことをいっぱいかまってあげたいと思った。
一緒にいてほしいと思った人が、その気持ちに答えてくれる。それがどんなに嬉しいことなのか、私は今まで知らなかった。
テニス部の先輩たちが昇降口の近くで待っているのが見えても、千田くんと話していれば不安にはならなかった。
でも――中学校の時にも、皆の前で男子と話したりしていると、どうしても噂をされてしまうことはあった。
『あの二人って、付き合ってるの?』
同じクラスの山口さんの声。彼女が思ったことを遠慮せずに言える人だというのは、見ていてわかった。
それを悪いこととは思わないけれど、千田くんが一緒に教室に行ってくれると言ったのは彼が優しいからなのに、茶化すような言い方をされてしまった。
そのとき、山口さんと一緒にいる女子のひとりが、こちらを見ていることに気づいた。
――朝谷霧さん。いつも教室でみんなの中心にいて、そこにいるだけで空気を明るくする、天性の輝きを持つ人。
彼女が私に向けた目は、温かくも冷たくもない、温度のない瞳だった。
千田くんと話しているときは、彼女はいつも笑顔で、表情は明るかった。それを眩しいと思うくらいだったのに、今は何かが違っていた。
『あんまり噂とかよくないよ、本人に聞こえちゃうでしょ』
私の思い込みかもしれない。私が、千田くんと一緒にいることで自意識過剰になっているのかもしれない。
でも、気のせいじゃなかったとしたら。
昨日、私が電車の中から見たのは。あのとき、ホームで千田くんがいる方を見つめていたのは――。
『…………』
『鷹音さん?』
心配して話しかけてくれる千田くんに、私は――まだ、このことを言ってはいけないと思った。朝谷さんがそれを望んでいるかが分からないから。
『いえ……少し、気になっただけです』
そう言っても、千田くんは少し元気がなくて。
校舎に入ってから、教室に着くまでに、私はどうしても伝えたいことを考えて――そして、言った。
「私は、周りの人の言うことは気にしません。千田くんは、とても素敵な人です」
千田くんは、少し驚いたような顔をして。
恥ずかしそうに笑うその顔を見て、私は自分の席に座ってからも、振り返ってしまいたくなって。
右斜め後ろに座っている千田くんをうかがって、目が合って――お互いに笑い合った。
朝谷さんと千田くんの間に何があったのか、私にはまだ分からない。
けれど、それが分かるのは、遠くない。朝谷さんが私を見ていたときの目を思い出すと、そう思わずにはいられなかった。
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