絶望の空と希望の種

 燃えている。

 火の粉を巻き上げ、天まで焦がさんばかりに、炎が燃えている。


 そこは辺境の地の、小さな集落だった。

 酪農と、畑作と、葡萄酒作り。外との交易などほとんどない、その内だけで全てが完結した小さな村。

 ある日その村に、《死》が訪れた。

 黒雲と共に顕れた、十一種の生物が混ぜ合わされた怪物モンスターが村を襲い、その燃える爪牙で家々を焼き始めたのだ。

 

 自然に発生ポップすることなど決してないはずの災厄。

 村の男たちは鍬や鋤を手に怪物に立ち向かい、当然の如くに蹴散らされた。

 もはや、この世に聞こえるは絶望の慟哭のみ。

 

「う……。ぐ。んぐ」

 その絶望の音色に耳を塞ぎ、がくがくと震えている子供が、一人いた。

 彼の腕には、古ぼけた焦げ茶色の鞘に収まった、一振りの剣が握り締められていた。

 それが何か、この村に住むものならば誰もが知っている。


『いいか坊主ども。この剣はなあ、かつてこの世の騒乱極まりし時、混沌の化身たる魔神王と戦いこれを討った勇ましき戦士の武器じゃった』


 初めて聞いた時は、誰しもがその御伽噺に眼を輝かせ、伝説の戦士に夢を膨らませた。


『これは、また相応しきときが来た時に、相応しきものが抜くよう、この地に封じられておる。何人たりと、資格なき者が抜くことは叶わんのじゃ』


 だが、何べんも村の長老にその話を聞かされる度、次第に子供たちも眉に唾をつけて聞くようになる。結局のところ、それは村人にとって、ただ昔からそこにあり、あるべくしてあるものなのだという、それだけの代物でしかないのだ。

 だが、この少年にとっては違った。

 彼は長老の聞かせる伝説の戦士たちの御伽噺に誰よりのめり込み、それを実際のものと信じて疑わなかった。


 村の者なら、みな一度はその剣の柄に手をかけ、鞘から抜こうと試みる。

 そしてみな、一様に現実を知り、現実を生きるようになる。

 しかし、この少年は夢を諦めていなかった。

 今抜けないのは、自分がまだ子供だからだ。

 なら、まだこれから――。

 彼は、自分の誕生日の度に夜な夜な家を抜け出し、こっそりと宝剣を持ち出してはそれを抜こうと試みていたのだ。


 そして、その日も。


「う……うぅ」


 誰にも見つからぬよう、森の中でこっそりとそれを行っていた少年は、怪物の襲撃から完璧に逃れていた。

 このままここに隠れていれば助かるかもしれない。

 村の方から聞こえる悲鳴と怒号。燃える空。焦げた匂い。

 その全てが、少年を凍えるような恐怖でその場に縫い付け、動けなくさせていた。


 両親と妹はどうなっただろう。逃げられただろうか。それとも、まだあの炎に包まれた村の中にいるのだろうか。助けにいかなければ。でも。自分が行ってどうなるというのだ。死にたくない。怖い。だけど――。


「ああ、こんな所にいたのか」


 その時、柔らかな声が頭の上から聞こえてきた。

「良かった、君だけでも無事でいてくれて」

 それは、この村の住人にしては背が高すぎていた。

 流れるような金色の髪と、長い耳。

 エルフの女だ。

「そうか。宝剣は君が持ち出してくれていたのか。ああ、良かった」


 それは、ここ数年村に出入りし、子供たちに読み書きを教えてくれていた、『先生』と呼ばれている女性だった。

「さあ、ここから離れよう」

 彼女はそのたおやかな手で少年を助け起こした。

 少年は問いかける。

 村はどうなったのか。自分の家族は。長老は。


 その質問に、彼女はただ黙って首を横に振った。

「いいかい、少年。その宝剣は、本物だ」

 そして、彼に目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

「それは、私にとっても所縁の深いものでね。友人の忘れ形見なんだよ。連中はきっとそれを狙って村を襲ったんだ。村のみなのことは残念だが、ここでその剣を失うわけにはいかない。君は早く、ここから離れなさい。その剣は、私が責任をもって奴らから護ろう。いいね?」


 さあ、と、『先生』は彼を促し、その小さな手に握られる宝剣に腕を伸ばした。


 そして、その手が空を切る。


「……?」


 少年は、後ずさった。

 全身が、がくがくと震える。指先が冷たい。それでも、これを手放すわけにはいかなかった。

 だって――。


「どうした? おいおい、落ち着けよ。いいか、重ねて言うが、やつらの狙いはその剣だ。君が持ってちゃ危ない。ほら、早く寄越しなよ。私なら大丈夫だから」


 少年は、踵を返し、逃げ出した。

 だって。

 彼女が、『子供に嘘をつく大人の顔』をしていたから。


「……ちっ。クソガキが」


 そんな声が、少年の背後から聞こえた。


 彼は逃げた。逃げて逃げて逃げ回った。

 生まれ育った村とその周りの森で追いかけっこを続ける限り、村の民である彼に負ける道理はなかった。

 ただ、それは彼に無限の体力と、鬼の側に時間制限があればの話だ。

 全身を汗みずくにし、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした少年は、とうとう足が縺れて転げてしまった。


 彼の脳裏に、一言一句違わずに覚えきった長老の言葉が蘇る。


『相応しき時に、相応しきものがそれを抜く』


 今以上に、相応しき時などあるはずがない。

 ならば。

 ならば、


 その答えは、彼の眼の奥から更なる涙を呼び起こした。

 自分には、この村を救う方法はない。

 あの怪物を、あの女をやっつけることなど出来ない。


「そろそろ観念したまえよ、少年」


 しゃなり、しゃなりと、その豊満な体をくねらせて女エルフが迫る。

 その手には、櫟で出来た杖。

 その顔には、歪な三日月形の笑み。


 ああ。自分は、きっとここで死ぬ。

 今さらこの剣を差し出して、あの女は自分を見逃してくれるだろうか。

 戦う方法なんてない。

 あったって、勝てるわけがない。


「手間を取らせるんじゃないよ。その剣は、何も秩序の側にだけ力を与える物じゃない。平等なのさ。悪しきものが持てば悪しき力に染まる。それさえあれば、魔神王の復活も夢じゃない。世界は再び、混沌に傾くだろう」


 怖い。


 でも。


 死にたくない。


 だけど。


「さあ――」


 それが、立ち上がらなくていい理由にはならないんだ。


 彼は、最後の力を込めて、大きく息を吸った。

 

 ぴゅいぃぃぃぃぃ。


 指笛だ。

 小さな手と口が、甲高い、どこまでも突き抜けていくような澄んだ音を響かせた。


『お前は指笛が上手いね』

『ああ、いい酪農家になれるぞ』


 そんな両親の言葉が、脳裏によぎる。


「な、にを、してる……? やめろ、よせ!」

 女エルフが、血の気の引いた顔で彼の元に走った。


 その声をかき消すように、地響きが鳴る。

 村を蹂躙していた異形の怪物が、新たな贄を求めて、その歩みを進め始めた。


 少年も膝を奮い立たせ、再び走り出す。今度は、逃げるためではなかった。

 目的の場所には、すぐに辿り着いた。


 怪物の声が迫る。


 村の片隅に捨て置かれた古井戸。

 少年は恐怖に引き攣った顔で、無理やり笑みを作った。


『相応しきときに、相応しきものがそれを抜く』


 ――なら、その時がくるまで、ここで待ってて。必ず、相応しきものが、迎えにいくから。


 井戸の中に剣を投げ捨て、その上でもう一度、指笛を鳴らした。

 見上げた空には、星が一つ。

 絶望の暗雲に覆われてなお、力強く光る一番星。


 咆哮。

 

「やめろ! 止まれ! よせぇぇえ!!」


 劫火が、全てを焼き尽くした。




 その日、小さな勇ましき者が、世界を救った。

 剣の投げ込まれた古井戸は怪物の一撃で崩落し、かの怪物を召喚したエルフはその巻き添えを受け、彼女の死と共に怪物もまた混沌の世界へと帰って行った。

 村は消滅し、地図から消え失せた。


 たった一つ、小さな希望の種をこの世に残して。


 そして、数百年の時が流れた。




「くっそ、離せ! 離せよ!」

「ジタバタするなよ、少年。人の者を盗ったら駄目って、ママに教わらなかったのかい?」


 様々な種族でごった返す大通りで、エルフの女性が、ヒューマンの少年の首根っこを掴んでいた。彼の手には、古ぼけた一振りの剣が握られている。

「ありがとね、お姉さん。助かっちゃった」

「あの、どうか穏便に……」

 その前で、露店の主らしきホビットの少女が朗らかに笑って礼を言い、それを、神官姿のヒューマンの少女と、農夫らしき姿の青年がおどおどと見守っている。


「がっはっは。小僧。ちんけな盗みぃ働いちまったな。そりゃ剣は剣でも、抜けぬ剣よ」

「ああ!?」

 呵々と笑うドワーフの男が、店の奥から少年の顔を面白そうに覗き込んで言う。

「そりゃあエドラス森の集落跡地で発掘された骨董品でなぁ。相当な年代物なのは確かだが、どうしたことか鞘から抜けん。抜けん剣なぞ飾りにしかならんでな。こんなトコまで流れついてきた所を、そこのお上りさんが都に来た記念にと、銭貨五枚で贖っていったところよ」

「せ、銭貨五枚ぃ?」


 苦笑するのは、いかにも優し気な顔をしたヒューマンの青年だ。

 しかし、それを聞いて顔色を変えたのは、いまだに少年の首を抑えたままのエルフの女性だった。

「エドラス森というと、かつてホビットの集落があったという場所かい?」

「儂はそこまでは知らんの」

「いやなに、昔、私の叔母がそこで死んだんだよ」


 それを聞いた神官姿の少女がはっと息を呑んだのを、エルフの女性は苦笑して見返した。

「悼んでもらうには及ばない。彼女は中々の悪人でね。混沌の勢力と通じていたんだ。おかげで親族全員故郷の森から追い出されて、私はこうして流浪の旅をしているわけさ。しかし、抜けない剣か。何か魔法でも仕掛けてあるのかな」

「さてな。少なくとも、ドワーフ二人掛かりの力でも抜けんかったのは確かだぜ」


「まあいいじゃない。さあさ、その子、さっさと衛兵んとこ連れてこ。ほら、一応アタシが売った商品なんだから。持ち主に返してね」

「待って、待ってくれ。謝るよ! 俺、どうしても金が要り用で――」

「はいはい。そういうのは衛兵さんに言ってね~」


 そして、ホビットの少女の手から、困った顔を浮かべる青年に剣が手渡されたとき。


 ずるり。


 鈍い煌きを放つ剣身が、顕れた。


「「「……え?」」」



 かくて、希望の種は芽吹く。

 やがてその光は世界へと散らばり、混沌の勢い増す大陸を、眩く照らし出す。


 けれどもそれは、また別の物語シナリオだ。

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