灼熱回廊(10)

 

 エンシェント・ファイアドラゴンは一旦炎を吐き尽くしたのか、すぐに火炎攻撃を再開する様子はなさそうだった。

 トバリは階段を降りて瓦礫の上に着地する。


(考えろ、考えろ。どうすれば〈竜印ドラグニカ〉によって伝播した感情を解除することができるんだ)


 目的はドラゴンの撃破ではない。独力では天地がひっくり返ろうと無理な話だ。

 ガルザリクが〈竜印ドラグニカ〉を通じて与えた悪意の感情を、即ち破壊の呪いを解く。それが自分の狙いだ。

 ドラゴンがトバリの姿を認めると、牙を剥き出し蛇のような舌をチラつかせた。


「聞いてくれ、古き炎竜よ! もう戦いは終わった! お前の敵はここにはいないんだ!」


 トバリは声を張り上げ、ドラゴンに言葉を伝える。

 しかし声は届かない。炎竜は構わずに両の腕をトバリに向けて叩きつけてきた。

 瓦礫が崩れ、地面がえぐれる。巨体ゆえか動きは冗長で、今の自分でもなんとかかわせる速さだ。

 だが、戦えるのはドラゴンが再び炎を吐けるようになるまでの間だろう。またあの熱線を放たれたら抗うすべはない。それまでに何らかの打開策を見つける。


(ただ声をかけても効果はなさそうだ。それとも声をかけ続けるべきなのか?)


 思考は、ドラゴンの次なる攻撃によって中断される。顎を大きく開き、喰らいにかかりにきたのだ。避けるごとに、牙と牙がかち合う甲高い音が鳴り響く。あの鋭利な牙にかかれば、自分の小さな体などあっという間に真っ二つだろう。


「っ!」


 踏ん張りがきかなくなった足が滑り、危うく丸呑みにされそうになった。体すれすれをドラゴンの頭が横切る。


 その時だ。

 ガルザリクの呪いが宿った箇所とも言えるドラゴンの黒の瞳と、自分の右手に刻まれた〈竜印ドラグニカ〉の間に火花が起きた。一瞬、黒色の煙が晴れて本来の色である金色の瞳が覗いた。

 しかし、それも一瞬のこと。すぐに目は漆黒に染まり、ドラゴンは怒りの咆哮を上げる。


(今の反応……まさか、〈竜印ドラグニカ〉が反発したのか?)


 トバリは驚きを持って、自分の右手の紋様を見た。

 この印は契約を交わした竜と人の間で意思や思いを伝達する力を持つ。自分が破壊や復讐とは真逆のことを思っていたから、今のような反発現象が起きたのではないだろうか。


 そうだ。そもそもエンシェント・ファイアドラゴンの契約対象であるガルザリクは亡くなっている。自分の〈竜印ドラグニカ〉でも介入が可能になっているのかもしれない。

 全ては仮定の話だ。だが、他に手段がない以上賭けてみる価値はある。


(そのためには、ドラゴンの頭に触れるくらい近づかなければならない)


 言葉だけを捉えれば、正気を疑う行為だ。暴れるドラゴンの顔に近づこうなど、自分から餌になりに行くようなものだ。

 牧場では、危険だから見学者はドラゴンに餌を上げてはならないと注意を促している側だというのに。


「全く、おかしな話だなあ!」


 トバリは炎竜を相手に初めて前に出た。

 立ち上がれば見上げるほど巨大なエンシェント・ファイアドラゴンだが、小さな自分を相手にしているためかエルーのように四足の状態になっている。手を伸ばせば届く高さでもないが、相手が頭を下げれば好機はある。


 しかし、ドラゴンはトバリの期待とは真逆、背中を向けて鋼鉄でできた鞭のような尻尾を振るってきた。トバリは横に転がり、尻尾の一撃を避ける。

 すぐに立ち上がろうと手をついた時、瓦礫の下に光る物が転がっているのを発見した。片手では引っ張り上げられない。両手で引き抜くと、それはガルザリクが振るっていた大剣だった。

 熱であちこちが溶けて変形しているが、剣の形は保っている。あの炎の中で壊れずに残ったということは、かなり丈夫な剣だったのだろう。持ち主と同じで。


(これは、もしかしたら使えるかもしれない)


 武器としては使い物にならないだろう。だが、別のやり方で活用できるかもしれない。

 いつだって自分を救ってきたのは、土壇場のひらめきだったのだから。

 エンシェント・ファイアドラゴンが四足で駆け、顎を開いてトバリを喰らいにかかる。


(今だ、やるしかない!)


 覚悟を決めたトバリは、大剣を土が露出している地面に思い切り突き刺した。そして全身を大剣の腹に預けて支える。

 ドラゴンの巨体が迫り——大剣の盾に真正面から激突した!


「おぉおおおおおおおおおおおお!!!!」


 トバリは四肢に力を込めて、潰されそうな衝撃に必死に耐える。

 体が砕けそうだ。いや、すでにどこかの部位は砕けているのかもしれない。肉がちぎれるような、骨が折れるような、肉体が壊れる音が聞こえてくる。

 それでもまだ、手は動く——!


「太古の世界の炎竜よ!」


 トバリは叫び、右手を〈古代炎竜〉エンシェント・ファイアドラゴンの顔先に伸ばした。〈竜印ドラグニカ〉が青白い光を放ち、激しい火花が散った。


「お前を傷つける者はここにはいない! お前を閉じ込めようとする者も、お前に復讐を託そうとする者も、ここにはいないんだ!」


 巨竜に言葉を伝えながら、トバリはかつてのエルーに話しかけているような気持ちがした。

 檻の中で震えていたエルーに声をかけ続けていたのはシオンだ。今にして思えば、彼女が当たり前のようにしてきたことに、自分はようやく近づくことができたのだ。


 ドラゴンの瞳に宿る禍々しい漆黒の光が、抗うように膨れ上がった。破壊衝動に促され、ドラゴンの口の中で火球が生まれ膨らんでいく。

 トバリは逃げなかった。

 ドラゴンから目を逸らさず、かざした手を下げることもない。


 踏ん張れと、戦えと。

 燃え尽きかけた炎が一瞬の輝きを放つように、消えかけの魂が轟き叫ぶ!


「苦しかったのだろう、お前も! もうお前は自由だ。自由なんだ! 空を飛び、大地を駆けて、お前が自由に生きられる場所が、この世界にもきっとある! だから、だから——」


 言葉を言い切れないまま、膨らんだ火球が小爆発を起こした。

 大剣が盾代わりになって衝撃の大部分を防いだが、トバリの体は後方に吹き飛ぶ。一体この日何度目だろうか、背中から地面に叩きつけられ息が漏れた。


(ドラゴンは、あいつはどうなった……?)


 上半身を持ち上げドラゴンを見ると、炎竜の瞳は金色に変わっていた。凶暴さは鳴りを潜め、自分が起こした爆発で生じた破壊の跡をじっと見つめている。

 トバリが成功を確信した直後——炎が再点火するように、漆黒の光が復活した。


『ギィィイイイイイイアァアアアアアアアアア!!!!』


 狂気の咆哮が轟く。

 手応えはあった。だが、途中で中断されてしまったせいで完全には呪いを解くことができなかったのだ。


(あと一度、もう一度だ! もがき続けることは恥ではない!)


 トバリは折れた左腕をだらりと垂らしながら、どうにか立ち上がる。

 倒れても倒れても立ち上がり、どうしても壊れない扉を叩き続ける行為。ある者はそれを悪足掻きと呼び、ある者は熱血と呼ぶ。言うまでもなく、トバリは後者だった。


 四足形態のエンシェント・ファイアドラゴンがトバリを狙って動き出した時——


『きゅうううぅぅぅぅうううううううう!!!!!!』


 間の抜けた鳴き声が勇壮に響いた。

 小さな影が瓦礫の間を疾走し、トバリと炎竜との間に割って入る。トバリはその影を見て目を見開き、そして泣きそうな表情になった


 エルーだ。

 空のような青い鱗に覆われた仔竜が、不慣れな咆哮を上げた。


「エルー。どうして、お前が……」


 この幼い竜の子供は、炎竜の巨体と圧倒的な存在感を前にして震えて動けなかったはずだ。なのに、今は勇敢にもドラゴンの前に立ちはだかっている。

 まるで、自分を庇ってくれているかのように。


 不思議なことに、エンシェント・ファイアドラゴンはエルーの姿を見ると足を止めた。上半身を起こして二足で立つと、観察するようにじっと仔竜の目を見つめる。


 〈古代竜王〉エンシェントドラゴン

 〈古代炎竜〉エンシェント・ファイアドラゴン


 2匹の古代竜は、戦場で古き知人に出会ったような懐かしさと困惑が入り混じった感情でお互いを見ていた。


「——その子がどうしてもあなたを助けたいみたいだったから、引き返してきたの」


 不意に、凛とした少女の声が響いた。

 その声が聞こえた瞬間、トバリは喜びが込み上げてくるのを感じた。


「私も同じ気持ちだったけどね」


 エルーの隣に立った銀髪の少女が振り向き、微笑を浮かべる。


「シオン!」


 トバリは我慢していた涙をついにこぼし、愛しい少女の名を呼んだ。

 歩み寄ったシオンは、傷だらけのトバリの体をそっと撫でた。


「ひどい怪我。あなたはこんなになるまで、ずっと1人で戦い続けていたんだね」


 シオンの言葉に、トバリは首をゆっくり横に振る。


「違う、1人ではない。多くの人に、多くの仲間に助けられてきたんだ。1人だけの力では、自分はここに立っていない」


 牧場ではラキが小さな体で自分を庇ってくれた。イグルカが〈解放団〉の足止めをして、クリスロアが灼熱の炎から命を賭して守ってくれた。そして今はエルーが勇気を奮い起こし、エンシェント・ファイアドラゴンの進行を止めてくれた。

 ここにいない者も、すでに逝ってしまった者も、戦い続けている者も、自分に関わった全ての者の顔を思い浮かべた。


「それでもいいの。本当にありがとう、トバリ。あなたのおかげで、私は今こうして生きて、話をしている。それがとても、嬉しい」


 シオンが両手でトバリの右手を包み込んだ。


「お、お礼なんていいって……! 仲間を助けるのは、あ、当たり前だからなっ」


 トバリは思わず赤面し、顔を逸らす。ドラゴン相手にも真正面から視線を外さなかったトバリだが、女の子相手には無力であった。


「でも、どうして無事でいるんだ。ガルザリクは霊薬でシオンの心を壊したと言っていたが」


 もちろん、シオンが無事でいるのは喜ばしい。だが、ガルザリクが自然治癒するような効果が薄い霊薬を使ったとは思えないのだ。

 シオンはトバリの手を離すと、エルーを見た。


「エルーが残った力を全て使って私を治癒してくれたの。あの子は本当にすごい」


 どうやらエルーが〈治癒ティオ〉の魔術でシオンを治したようだ。これほど短期間に治癒の力を使いこなすことができるようになったのは、自分にとっての〈感覚強化エトランジュ〉のように適正があったからなのだろうか。


「トバリ、エルー。あなた達は本当によく戦った。だから、あとは私に任せて」


 一歩下がったシオンが、トバリと仔竜を見渡して言った。


「私は、赤の結界の中に閉じ込められている間に、あのドラゴンとずっと話をしていた。あの子は幼い頃に人と一緒に過ごしていたけれど、成長して強大な力を持つようになってからは恐れられて、この場所に封印されていたの」


 赤い光を放つ球体の中で、眠るように浮かんでいた時のことだろうか。ガルザリクはドラゴンとの意識を結ぶ媒介になったと言っていたが、どうやら精神の部分で繋がっていたようだ。


「あの子が完全に黒い復讐心に囚われてしまっている時は、私の力ではどうにもできなかった。だけど、あなたとエルーが道を切り開いてくれた。だから、大丈夫。ここから先は、私の役割。そうでしょう? トバリ」


 シオンは己の顔の左半分に刻まれた〈竜の巫女〉の紋様を手でなぞった。

 思い出すのは、牧場の近くの街に一緒に買い物に行った日。彼女に紋様を見た率直な感想を聞かれ、「特別な役割を持った人なのだと思った」と答えたことだ。シオンはあの言葉を覚えていてくれたのだろうか。


「うん。シオンがそう言うのならば、自分は君を信じる」


 トバリは大きく頷き、笑顔を向ける。

 シオンは身を翻し、颯爽とエンシェント・ファイアドラゴンのもとへ歩き出した。その背中は小さいのに頼もしく、なんだか物語に出てくる英雄のようにも見える。


 彼女は語るべき言葉を知っているようだった。呪いに囚われ、自我を失ったドラゴンに掛ける言葉を、彼女はすでに持っているようだった。

 その言葉は——



自由メイヴァ



 シオンは炎竜の巨体を見上げ、優しい声で呼びかけた。


「思い出して、あなたの名前はメイヴァ。最初にあなたを拾った人が、まだ小さなあなたに向けて付けた名前。あなたもその名前が好きだったでしょう? もうあなたを縛る鎖も、閉じ込める檻もないの。だから安心して。目覚めて、メイヴァ!」


 シオンは高らかに炎竜の名を呼んだ。

 呼びかけに反応し、ドラゴンが天井に向けて唸り声を上げた。その目から漆黒の光が涙のようにこぼれ落ちていく。


 金色の瞳に戻った炎竜からは悪意や破壊の意志は感じられない。

 破壊の呪いをかけられたドラゴンは、〈竜の巫女〉の言葉によって解き放たれたのだ。


(ああ、敵わないな)


 トバリは目の前で繰り広げられる光景を見て、素直にそう感じた。

 〈古代炎竜〉エンシェント・ファイアドラゴン——メイヴァが首を垂れて、甘えるようにシオンに頭を擦り付ける。シオンは慈しむように、両手でメイヴァを抱く。

 戦いは、終わったのだ。



 そこには人がいて、竜がいた。


 異なるもの達はすれ違い、食い違い、傷つけ合い、憎み合い、どうしようもなく亀裂は生まれ、如何ともし難く争いは起きて。


 けれどもどこかで手を取り合うもの達も確かにいる。


 それは千に一つとか、万に一つとか、あるいはもっと稀有な可能性かもしれない。分かり合おうとして道を違え、手を差し伸べてそれを叩かれ、余計に傷ついてしまうことの方が当たり前なのかもしれない。


 だけど気持ちを強く持ち続ければ、いつかきっと、異なるものと手を取り合える日がやってくる。


 声なき声を聞く

 思いを届けようとする

 その気持ちがきっと道を開くのだと、トバリは心の中で何度も唱えた。





『きゅう』


 エルーが小さく鳴き、トバリは顔を上げた。

 崩れた天井の隙間から朝日が差し込み、よく晴れた青空が顔を覗かせていた。どうやら戦っている間に夜が明けたらしい。


 ずいぶん長い夜だった。


 だけどこれでようやく一日を始めることができるのだ。ドラゴン達の食事の準備をして、竜舎を掃除して寝藁を取り替える、牧場のいつもの一日が。


「おーい。トバリ、シオン、エルー」


 自分達の名前を呼ぶイグルカの声が聞こえた。トバリは大きく手を振って、牧場長に応えた。

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