灼熱回廊(9)


 トバリは炎に包まれ全身を焼かれる痛みを覚悟していた。

 この炎が自分の罪を洗い清めてくれたらいいな、などと殊勝なことを考えてる余裕さえあった。

 しかし、目を閉じて待っていても、一向に炎熱による裁きの時は訪れない。


「いつまで寝ているんですか、トバリさん」


 聞き慣れた声が聞こえ、トバリはばっと顔を上げた。

 そこには精霊族エルフの青年、クリスロアがいつもと変わらぬ笑みを浮かべてこちらを見ていた。


 一瞬、自分は夢を見ているかと錯覚する。

 牧場で過ごしたあの日々の夢を。


 だが、周囲は崩れた瓦礫と燃え盛る火炎に覆われた地獄と見間違う光景に変わりはない。では、なぜ自分は炎に焼かれていないとかと言えば、半円状の光の壁が周囲に張られドラゴンの熱戦を防いでいるからだった。


 クリスロアの絶対防御術——〈障壁ベリロア〉だ。

 それが何を意味するか、トバリにも瞬時に理解できた。


「なんで……なんで自分を助けてくれたんだ、クリスロアさん……!」


 トバリの問いに、クリスロアは苦笑する。


「なぜって……深い理由はありませんよ。ただ、君がなにやら必死に頑張っていたので、少し手を貸そうかなと思っただけです。要はただの気まぐれですね」


 クリスロアはすぐ上の神殿にいた。異変があれば、すぐに気がつくことができただろう。

 だが、それは自分の身を危険に晒してまで助けに来てくれる理由にはならない。

 では、一体なぜ——?


「僕の防御術はドラゴンの熱戦にも耐えられていますが、困ったことに術の発動中は僕は動くことができません。そこでどうです、少しお話でもしませんか? トバリさん」


 トバリの頭に渦巻く疑問をよそに、クリスロアが平常時のようなのんびりとした口調で話しかけてきた。


「誰にも言っていませんでしたが、僕は人間の父と精霊族エルフの母の間に生まれた半血ハーフブラッドです。見た目は精霊族エルフと変わりがありませんがね。逆に兄は人間寄りの外見をしていました」


 さらっと明かされたクリスロアの身の上に、トバリは驚愕した。

 異種族同士の結婚は珍しいことではないが、その間に子供は生まれにくい。半血ハーフブラッドの子を「忌み子」として嫌う風習も根強く残っている。

 まさかクリスロアが半血ハーフブラッドだったとは。外見からでは全くわからなかった。


「病弱だった母は僕が小さい頃に病で亡くなりました。そして僕たち家族は開拓の村に移り住んだんです。父も狩りの最中に魔物に遭って殺されましたが、兄と僕は助け合いながら生きてきました」


 クリスロアは、兄の話をしている。

 神殿の内部で戦った後に、自分が彼にいつか話してほしいと告げた内容を、今まさに語っているのだ。

 なんだか嫌な予感がした。青年から最後に何かを言い残そうとしているかのような、死に向かう雰囲気を感じたからだ。


「開拓の村は村人みんなの協力で大きくなり、豊かになりました。僕は魔物の脅威から人々を守ろうと兵士団に入り、誰からも慕われていた兄は村に残って皆をまとめていました。全ては順調に進んでいた……そのはずでした」


 そこまで話したところで、クリスロアの顔が曇る。

 口を二度、三度開け、ようやく声を出した。


「ある時、村に疫病が流行りました。薬を持って村に帰った僕が見たのは、吊るされて絶命した兄に石を投げつける村人達の姿でした。一緒に荒地を耕した友達も、いつも笑顔で面倒を見てくれた近所のおばさんも、人間ヒューマ達は皆狂ったような表情で石を投げていました。悪魔め、お前が疫病を持ち込んだんだろうと叫びながらね」


 クリスロアが浮かべる表情から、兄はすでに亡くなっているだろうとは察していた。しかし、それは半分当たっていて半分間違っていた。

 彼の兄は殺されていたのだ。しかも、共に苦労を分かち合った村人達と。


「疫病の流行下など極限の状況では、集団的にあらぬ妄想の流布や混乱が引き起こることは理解しています。そしてかつての魔女狩りがそうだったように、集団の少数派マイノリティが狙われることも。しかし頭の中でわかっていることと、心で感じることは別です。その夜、。兄さんや皆と一緒に作り上げた村が燃えて消えていく様を見るのは……本当に気持ちがいいものでした」


 クリスロアが壊れたような笑い声を上げる。半血ハーフブラッドの青年は、火炎が広がる光景を背に楽しそうに笑っていた。

 笑いながら、泣いていた。

 いくつもの矛盾と不条理を無理やり詰め込んで、壊れてしまった男の姿がそこにはあった。


「わかったでしょう? 僕はもう——人間を、この世界を愛せない」


 トバリは答えることができずにいた。

 何かを口に出そうとしても、薄っぺらい言葉しか頭には浮かんでこない。

 クリスロアは笑みを止めると、真面目な顔でトバリを見た。


「話している間に熱線がやめばよかったんですがね。そろそろ僕の術の限界のようです。さぁ、トバリさん。ほんのわずかな時だけ術の範囲を広げるので、その間に脱出をしてください」


 自分達を守っている〈障壁ベリロア〉の光の壁に亀裂が走り始めている。ここも長くは持たないだろう。

 術の範囲を瞬間的に広げている間に、自分だけが炎の外に出ることはできるかもしれない。だが、そうなれば動くことができない術者のクリスロアは——


「僕のことは気にしないでください。イグルカさんから始末書を書けとの伝言を受けた時は嬉しかった。でも、もう僕は疲れてしまったんです……偽りの自分を演じ続けることに」


「偽りじゃ、ない!」


 それまで何も言うことができなかったトバリが、反射的に叫んでいた。


「そうさ、確かに自分はあんたのことを何も知らなかった! だけど……だけど、自分が牧場で会ったクリスロアさんの全てが偽りだったとは思えない。だって、あんたは一番最初に自分にを言ってくれたじゃないか……って!」


 ブルートドラゴンに乗って牧場に来た時、未知の職場と未知の仕事を前にして震え上がっている自分にクリスロアは言ってくれたのだ、『今は不安が大きいかもしれませんが、きっと分かり合えると思いますよ』と。


 あの言葉は、牧場で得た出会いの全ての原点だった。

 反抗的な態度を取ってしまっていたイグルカとも、すぐにいなくなると期待すらされていなかったシオンとも、辛い過去を隠して笑顔で振る舞うラキとも、監獄のような檻の中で威嚇ばかりしていたエルーとも。

 ちょっとずつ

 ちょっとずつ

 ちょっとずつ

 不器用なりに分かり合ってきたのだ。


「……へぇ、僕がそんなことを言っていたんですか」


 クリスロアは不意を突かれたような表情をした後、かすかに含み笑いをした。それは先ほどの狂気を感じる笑みではなく、優しさを感じるものだった。


「きっと兄さんの口癖が移ってしまっていたんですね。分かり合える、分かり合えるって。ははっ、どうして今になって思い出したんだろう……ずっと、ずっと聞いてきた言葉だったのに」


 軋むような不穏な音がして、光の幕の亀裂が広がった。

 炎は止まらない。熱線と爆発が空間に破壊を撒き散らしている。


「……さぁ、早く行ってください、トバリさん。君もわかっているでしょう、ここにいたって共倒れになってしまうことくらい。僕のことを案じてくれているのならば、君は先に進んでください。僕はそれで……満足です」


 クリスロアの目は確固たる意志の光が浮かんでいた。もう何を伝えても彼が考えを変えることはない、トバリはそう直感した。

 自分もそうだったのだ。シオンとエルーが無事に脱出していく姿を見て、それだけで全てが報われた気がした。


「わかった。自分はもう、行くよ」


 トバリは立ち上がり、クリスロアに背を向けた。

 結局、この青年と本当の意味で分かり合えることはついぞなかった。かけるべき言葉が見つからないまま、自分はこの場を去っていく。

 例えば一緒に釣りをしたり朝まで酒を飲んだりして過ごす時間があれば、何かが変わったのだろうか。わからない。わからないが、そうした時間を一緒に過ごしてみたかったと後悔が募る。


 一歩目を踏み出した時、トバリは自分の中にも一つだけ伝える言葉があることに気がついた。


「クリスロアさん」


 振り向かないまま名前を呼ぶと、青年が顔を上げる気配がした。


「あんたの作るご飯は、おいしかった。いつも食事が楽しみだった」


 それだけだ。

 自分が本心から伝えられることはそれだけだ。

 それだけで、全てが伝わってほしかった。


「……そうですか。そう言っていただけると、料理人冥利に尽きると言うものです」


 顔を見なくても、クリスロアが微笑んでいることがわかった。

 トバリは歯を食いしばり走りだす。休んだからか、少し動ける程度には回復した。

 〈障壁ベリロア〉の光の幕が楕円状に細長く変形し、燃え盛る炎の中に道を作った。

 トバリは駆ける。灼熱が包む一筋の光の道を。




「声なき声を聞き、思いを届けようとする気持ちを忘れないでください。その先にあなたの道が開けることを、心から願っています」




 光の道から飛び出そうとする刹那、最後にクリスロアの声が聞こえた。


 トバリは光の幕を内側から抜け、炎が届いていない階段にたどり着いた。直後にガラスが割れたような音が響き、〈障壁ベリロア〉が砕け散っていく。


 うねり続ける炎の海に、光の幕の残骸が雪のように降り注ぐ。この世のものとは思えない、美しい光景だった。


 喜びも、怒りも、悲しみも、恐怖も、感謝も、後悔も、この戦いで得た全ての感情が降り注ぐ光の粒子によって浄化されていく。


 自分は生きている。


 繋がれた命はここにある。


(クリスロアさん……せめて、あなたの魂がお兄さんがいる場所にたどり着くことを願いたい。どうか、平和の中で眠れますように)


 トバリは目を伏せ、心の中で祈りを捧げた。


 やがて潮が引いていくように、炎の海が勢いを失い消えた。

 瓦礫の山が積み重なった廃墟の空間に、地響きと共に重い足音が聞こえてくる。

 〈古代炎竜〉エンシェント・ファイアドラゴンが、憎しみの感情を植えつけられた黒の瞳を爛々と光らせながら、二足で地を踏みしめ進行してくる。


 その姿を見ていると、苦痛の悲鳴が聞こえたような気がした。

 いや、聞き間違いではない。確かに聞こえる、ドラゴンの低いうなり声の中に隠された苦しそうな呻きが。


 あのドラゴンは苦しんでいる。

 悠久とも言える長い時を封印された状態で過ごし、復讐の黒い意思を植えつけられて我を失い暴れているのだ。苦しんでいないはずがない。


 ふと、巨大なドラゴンと小さなエルーの姿が重なって見えた。

 人の欲望で親から引き離され、暗い檻の中で威嚇していたエルー。あの子も今自分が聞いているような苦痛の呻きを発していたのかもしれない。


「……声なき声を聞き、思いを届けようとする気持ちを忘れない」


 トバリはクリスロアが残した最期の言葉を口にした。

 自分の目には何が映っている?

 破壊の呪いを押し付けられ、我を忘れて暴れる独りぼっちのドラゴンだ。


(あんな苦しそうな声を聞いて、ほっとけるわけがないだろう……!)


 トバリは階段を上りかけていた足を止め、再びドラゴンに向き直った。

 あの巨竜にも声はあるのだろうか。そして自分の思いは届けられるのだろうか。

 分からない。だが、信じてみよう。この先に自分の道が開けることを。


「目を背けるな。異なるものから、異質なものから、目を背けるな!」


 そしてトバリは——2度言った。

 いつの間にか溢れていた涙を拭い、狂ったように前進を続けるドラゴンへ目を向ける。


 さぁ、気張れ。


 ここが最後の踏ん張りどころだ。

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