灼熱回廊(8)


 手応えがあった。体を切り裂いた、確かな手応えが。

 倒れたガルザリクは動かない。真っ赤な血が花のように広がっていく。

 戦いの終わりを確認したトバリは、〈身体強化ヴァルハイド〉と〈感覚強化エトランジュ〉の重ねがけを解除する。


(なん、だこりゃ……!)


 瞬間、とてつもない疲労感が襲いかかってきた。全身に鉛を流されたかのように、どっと疲れが体内から吹き出てきた。

 重ねがけは、少しでも気を緩めると二つの魔術がこんがらがってしまう複雑で繊細な作業だった。疲労感はどちらか片方の魔術を使った時の2倍か、あるいは3倍はあるように思う。


 疲れた。

 本当に疲れた。

 ガルザリクに勝てたのは奇跡としか言いようがない。強大な力に慢心している隙を一点突破で突き抜けた結果のギリギリの勝利だ。


 これで、ようやくシオンに手が届く。

 封印された〈古代炎竜〉エンシェント・ファイアドラゴンの巨体と共に、赤い光の球体の中で浮かぶシオンを見上げた。早く彼女をあの場所から助け出さなければ。


「勝利の雄叫びは上げないのか、トバリ=テジャ」


 背後から、ガルザリクの掠れ声が聞こえた。


「自分達は戦いに来た訳ではない。ただ、奪われた仲間を取り戻しに来ただけだ。無事を喜ぶことはあっても、勝利を喜ぶことはない」


 この後味の悪さはなぜだろう。

 単純に降りかかった火の粉を払っただけの戦いではない。自分が知らなかった世界の歪みを見て、終始何の答えも見出せないままだった。


 自分は何も言葉を見つけられないまま、ただ溢れる怒りのままに敵を倒した。やっていることはガルザリクと変わらない。もっと信念のようなものがあれば、しっかり自分の意見や思いを口にすることができたかもしれない。

 自分は、この世界のあり方に対してあまりにも無関心だった。

 そう痛感する。


「はははっ、そうか。勝利の余韻に浸っているようなら教えてやろうとしていたのだがな。、とな」


 背後で殺気が増幅した。

 トバリは瞬時に振り返って片刃剣ファルシオンを構える。ガルザリクは倒れたままだ。立ち上がれもしなければ、魔術を発動できる状態でもない。それでも何かをしようとしている。


 光を失ったはずのガルザリクの《竜印ドラグニカ》が、再度輝きを放ち始める。

 先ほど見た赤い光ではない。禍々しい黒の光だ。


「ガルザリク! 一体何を……!」


「知っているか? 〈竜印ドラグニカ〉は力だけではなく、意思や思いを伝播させることもできるのだ」


 ガルザリクが今にも消えそうな、しかし聞く者をぞっとさせる声で言った。

 知っているも何も、それが〈竜印ドラグニカ〉の本来の機能だ。力の伝播はあくまでも古代種の竜との間で起きた変則的な出来事に過ぎない。


 だが、ガルザリクはなぜ今になってそのことをわざわざ告げたのだろうか。

 〈竜印ドラグニカ〉から発せられた黒い光は、靄のように漂った後に結集し一本の道を描いて、ある場所を目指していく。

 〈古代炎竜〉エンシェント・ファイアドラゴンのもとに。


(意思や思いの伝播……まさか!)


 トバリはある考えに至った。


「ガルザリク! 今すぐやめるんだ! そんなことをすれば、この場所はあんたの部下共々消えて無くなってしまうかもしれないんだぞ!」


「はははっ、構うものか! 全て、全て壊れてしまえばいい! 復讐の意思は止まらない。復讐の炎は止められない! そうだ、世界を変えたいのならば、最初からこうすればよかったのだ。全てを壊せば、世界は変わる!!」


 黒い光がエンシェント・ファイアドラゴンに取り付いた時、その巨体がドクンと大きく鼓動した。

 金色の瞳がみるみるうちに漆黒の色に染まっていく。赤い鱗に覆われた体が動き出し、球体の結界がひび割れていく。


 目覚めようとしている。動き出そうとしている。


 古代世界のドラゴンが。


「そうだ、いい子だ。世界を呪え! お前を閉じ込めたこの世界を呪え! 全てを壊し、全てを燃やせ! 破滅の炎で憎き世界を覆い尽くせ!!」


 ガルザリクが狂ったように叫ぶ。

 〈竜印ドラグニカ〉による思いと意思の伝播。ドラゴンから力を受け取ったのとは逆に、ガルザリクは己の中の復讐心や破壊衝動といった黒い感情をドラゴンへ流し込んだ。


 この世界の破壊を願った男は、最後の力で破滅の呪いをかけたのだ。


 結界が音を立てて崩壊し、ついに巨竜が解き放たれた。台座に着地すると、地下空間に地震のような地響きが広がった。


『ギィィイイイイイィィィィィイアァアアアアアアアアアアア!!!!!!』


 解放の喜びと、そして植え付けられた世界への復讐心からか、エンシェント・ファイアドラゴンが大顎を全開に開き耳をつんざく大音量で咆哮する。


 戦いは終わらない。


 いくつもの曲がり角を進んだ灼熱回廊は炎の勢いを加速させ、最終局面に突入していく——!





(どうして、どうしてこうなったんだ。こんな怪物をどうしろって言うんだ……!)


 今度こそ、トバリの胸中には絶望が広がった。

 体はすでに満身創痍だ。エルーに2回〈治癒ティオ〉の魔術をかけてもらったが、表面上の傷は治っても失った体力までは戻らない。そこへさらに魔術の重ねがけという無茶もして、今すぐ倒れてもおかしくはない。


 眼前にはこれまで目にしたこともないような巨大ドラゴン。しかも、ガルザリクが見せた圧倒的な炎の魔術ですら、このドラゴンが秘める力の片鱗でしかないという事実。

 勝てるはずがない。

 諦めが心によぎった時、トバリの目に巨竜の足下で瓦礫に背を預けて倒れる銀髪の少女の姿が映った。

 シオンだ。

 球体の光の中に囚われていたシオンが、ドラゴンと共に解き放たれていた。


(そうだ、自分がやるべきことは……!)


 トバリは恐怖を振り払うように自分の頬を叩く。


(勝てなくてもいい。今はシオンを助けてこの場を脱出することが最優先だ!)


 考え方を変える。

 天災そのものとも言える圧倒的な存在を前にして、1人の人間ができることは限られている。ならばその範囲で最大限に可能な選択肢を選ぶべきだ。

 エルーも一緒に来てもらおうと考えたが、仔竜を見ると自分より遥か巨大な存在を前にして完全に震え上がっていた。この様子では一歩も動けないだろう。仕方がない。この子はまだ生まれて間もない年頃なのだ。多くを求めるのは間違いだ。

 トバリは歯を食いしばり、1人で駆け出す。


(あと少し。あと少しなんだ)


 エンシェント・ファイアドラゴンが咆哮をやめ、獰猛な漆黒の瞳をトバリに向けた。

 一瞬、恐怖で体が硬直する。倒れかけたが、片手を突いてなんとか速度を維持したまま走り続けた。


 恐い。


 生物としての本能が、逃げろと叫び続けている。


 心臓の鼓動がうるさい。今にもはち切れてしまいそうだ。膝は震えっぱなしで、まっすぐ走れていることが奇跡のようだ。


(あと少しで、君に届く)


 ドラゴンの口がぱかっと開き、そこからガルザリクが出して見せたような〈火炎の審判ラ・イグニ・ディミオ〉と同程度の大きさの火球が放たれた。

 トバリは〈身体強化ヴァルハイド〉を唱え、ほんのわずかな間だけ自分の身体能力を上げた。数歩全力疾走をするとそのままの勢いで前方に転がり、大火球の直撃を回避する。


 そこはもう、封印の球体が浮かんでいた台座に続く階段だった。

 ボロボロに崩れた石造りの階段を、トバリは足を引きずりながら駆け上がっていく。


「シオン」


 トバリは小さく彼女の名前を呼んだ。

 美しい銀髪の〈竜の巫女〉は、眠るように目を閉じて瓦礫にもたれかかっていた。

 その体を抱き上げると、軽さに驚いた。華奢な体だとは思っていたが、これほど痩せていたとは。この体で一体どれだけの無茶をさせられたのだろうか。


「優しい君を、これ以上誰にも傷つけさせはしない。牧場へ帰ろう。皆が待っている」


 彼女に会えたことが本当に嬉しい。

 愛おしさがこみ上げて、その場で抱きしめたくなった。だが、差し迫った状況がそれを許さないし、彼女がそんなことを望んでいるはずがない。

 今はただ、ドラゴンの爪が届く範囲から彼女を安全な場所へ送り届けることが先決だ。


 見上げれば、エンシェント・ファイアドラゴンは頭を上にして大きく息を吸い込んでいた。竜に詳しくない自分でも、それが大規模攻撃の前触れだと言うことくらいはわかる。


 シオンを背負うと、トバリは来た道を引き返す。

 体は壊れた人形のようだ。うまく動かせなければ、痛みも酷い。しかし、気力は不思議と満ち溢れていた。

 シオンがこの手の中にいると言うだけで。


「貴様は、守るべきものがあるのだな」


 仰向けに倒れたまま動かないガルザリクの横を通り過ぎようとした時、隻眼の鬼人族オーガが虚ろな目を天井に向けたまま呟いた。


「私も……何かを守りたかったのかもしれない。だが、気がつけば守るべきものなんて何一つ残ってはいなかった。故郷も、家族も、何もかも」


 ガルザリクの声は荒々しい響きが失せ、落ち着きが生まれていた。

 全ての悪意を呪いとして吐き尽くし、心の奥底にしまっていた本心が溢れているかのように思える。


「トバリ=テジャ。軟弱で、軽薄で、生真面目なつまらない人間ヒューマよ。貴様がどこまで足掻くことができるのか、地の獄から見ているぞ」


 トバリは何も答えなかった。ただ弔うように目を伏せ、そのまま過ぎ去っていく。

 咆哮が轟き、エンシェント・ファイアドラゴンが広げた顎から炎を吐き出した。

 それは炎と言うより、熱線だった。

 圧倒的な破壊力を伴う熱線は地下空間の天井を崩し、それでも尚勢いは止まらなかった。


 崩壊が始まる。


 地響きが空間全体を激しく揺らし、崩れた天井から瓦礫が落ちてくる。

 一際大きな音が響き、上の神殿に祀られていた神像が落下してきた。かつて亜人達が崇めた像はガルザリクが倒れていた位置に落ちて、その衝撃で壊れていった。

 神像の残骸にも、容赦なく熱線が降り注ぐ。すぐさま地下空間は火の海と化した。


「あと少しだ。踏ん張れ、シオン。あと少しで、君は助かる」


 トバリは背中のシオンを励ますように言った。地上に続く階段までもうすぐだ。

 その時だ。

 頭上の風切り音に気づいて顔を上げると、平たい瓦礫がまさに自分の真上から降ってくるのが見えた。

 ——避けられない。

 トバリは背負っていたシオンを地面に下ろし、身を呈して覆いかぶさった。

 直後、背中に大きな衝撃が加わった。息と共に口から血が噴き出る。だが、最低限シオンの顔に血をかけるようなことはしなかった。


(くそっ、あと少しだってのに……!)


 瓦礫がそれほどの重量ではなく潰されなかったことは幸いだった。しかし今のトバリに瓦礫を払いのける力はない。

 こうしている間にも、ドラゴンの吐く破壊の炎は容赦なく迫ってくる。


『きゅう! きゅきゅう!』


 仔竜の鳴き声が聞こえた。

 瓦礫の隙間に首を突っ込んだエルーと目が合う。エルーはそのまま四肢の力も使って瓦礫を自分の体の上から払いのけてくれた。


「エルー、来てくれたのか」


 トバリはしゃがれた声で微笑んだ。

 体の状態を見たエルーが〈治癒ティオ〉の魔術を使おうとしたのを、トバリは首を横に振ってやめさせた。


「エルー、時間がないんだ。自分を治癒している暇はない。それよりも、シオンを頼む」


 〈治癒ティオ〉は1日に二度も三度もかけるような術ではない。回数を重ねればそれだけ効果は薄れる。今日はもう2回も使ってもらっているので、ほとんど効くことはないだろう。

 炎の海はもはやすぐ後ろにまで押し寄せてきている。回復をしている間に自分たちは飲み込まれてしまう。


 トバリは腕の中のシオンを抱え上げると、エルーの背中の上にそっと乗せた。小さなエルーの背中は、少女1人でいっぱいになった。


「早く行くんだ、エルー! 2人も乗せられないのは、お前がよくわかっているだろう」


『きゅうう!』


 それでもエルーはなかなかその場を離れようとしない。自分の顔を不安げに見上げたままだ。


「大丈夫だ、自分もすぐに行く。だから行ってくれ! シオンを助けるんだ!」


 声を荒げると、エルーが身を震わせて走り出した。少し走って、様子を伺うように振り返る。


「行けったら! こっちを振り返るな!!」


 トバリはわざと突き放すような声を出した。

 エルーは翼を器用に内側に畳んでシオンを覆い、階段を駆け上がっていく。仔竜は振り返らなかった。

 その背中を見送ったトバリは、力を失ったようにその場で伏した。


(ようやく、終わった)


 シオンを救い、エルーを逃すことができた。

 これでやるべきことは全て終えたのだ。

 もう指先すらも動かせない。迫る炎から逃げる力など、どこにもない。確実な死が破壊の音を立てて近づいて来ている。


 しかし、不思議と心は充足感に満たされていた。

 自分がここで死ねば、ドラゴンの力を扱える特別な〈竜印ドラグニカ〉を持った人間はいなくなる。偶発的に発見されない限りは、この力は完全に闇に葬られるのだ。

 もしも自分に罪があるとするならば、それを清算することができる。


(ガルザリク。どうだ、ここまでは足掻いてやったぞ)


 おそらく先に逝ったであろう隻眼の鬼人族オーガに向けて、心の中で告げた。少しだけ得意がりながら。

 なんでもない凡人の自分にしては上出来な結末だ。

 やってみたかったことは色々思いつくが、思い残すことは何もない。シオンの命を繋ぐことができた、そう思えるだけで満足だ。



 そう思えるから、自分はここまででいい。




 イグルカやラキ、牧場の仲間達。そしてシオンとエルーの顔を思い浮かべる。




「みんな、元気で。短い間だったが、自分はとても楽しかった」




 裁きの炎が、満足そうに微笑むトバリの体を飲み込んだ——

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