解放の風、来たる(2)

 その日の業務を終えた者から、次から次に宿舎に向かっていく。彼らの足を急がせるように、煙突から立ち上る煙に乗って、ごちそうの匂いが牧場中に漂ってきていた。


「急げ、急げ。もうみんな集まってころだぞ」


 トバリは駆け足で宿舎を目指す。最後にもう一度だけエルーの様子を見に竜舎に寄ったため、少しだけ遅れてしまった。幸い、エルーの現在の住居は以前住んでいた隔離竜舎と違ってそう離れていない。走ればすぐに着くだろう。


 宿舎の中の食堂はすでにほぼ全員の職員が揃っていて、食器を並べたり完成した料理を盛り付けたりしている。皆、数年に一度かというような豪華な料理を前に、高揚感を隠せない様子だった。

 厨房を覗くと、頭巾と前掛けを着たクリスロアが手が何本もあるように見える速さで調理をしていた。何やら鬼気迫る表情だったので、手伝いは諦めて食堂に戻る。


「あ、トバリ。ちょうどよかった。こっちの皿を全員の分並べておくれよ」


 両手に皿の塔を乗せたイグルカがこっちに歩いてきた。トバリは恐る恐る片手分の皿を受け取ると、長テーブルの椅子が置かれた場所に丁寧に並べていく。


「きょ〜うはた〜のし〜いおいわ〜いな〜のだ〜!」


 すぐそばではラキが楽しげに歌を歌いながら、ナイフやフォークを揃えて置いていった。

 トバリもこの状況にわくわくしていた。豪勢な食事はもちろんだが、牧場の皆と一緒に同じことを祝えるのが嬉しいのだ。


「さぁ、皆さん。おいしいスープが出来上がりましたよ!」


 厨房からクリスロアが現れ、鉄鍋を台の上に置いた。蓋を開けると、中から湯気が広がりミルクの甘い匂いが食堂中に漂う。

 クリスロアがおたまでスープを掬い、木の椀によそっていく。重い鉄鍋を持っていたからか、腕が震えている。


「クリスロアさん、自分が代わりによそおうか?」


 近づいて手伝いを申し出ると、クリスロアが慌てたように首を振った。


「いえいえ。これが最後の料理なので、任せてください。トバリさんはスープが入った椀を配膳していただけると助かります」


「そうか? わかった」


 言われた通りに、トバリは片手に一つずつ熱いスープが入った椀を持ち配り歩いていく。


 やがて、ご機嫌な食卓が完成した。

 白アスパラのソース掛けやベーコンを散らした蒸しキャベツなど春先の季節野菜を使った前菜に、メインはシカ肉のプラム掛け。パンはいつもの硬い黒パンではなく、ふわっと雲のように柔らかそうな白パンだった。

 そしてクリスロア特製のスープは魚介と野菜をふんだんに使ったミルク煮だ。一番力を入れたのだろう、椀から立ち上る香りを嗅いだだけで食欲が刺激される。


「さぁ、みんな! 食事は全員に行き届いているか? つまみ食いはしていないね? シカ肉をテーブルの下に隠して2皿食べようとしている人はいないかな? まぁ、つまらない詮索はここまでにして、楽しい食事会を始めようじゃないか!」


 牧場長イグルカが立ち上がり、着席した十数人の職員を見渡しながら声を張り上げる。


「みんなも知っての通り、今日はエルーの新しい住居の完成祝いだ! もちろん、エルーやドラゴン達にもいつもより少し豪華なご飯を食べてもらったよ。予算は食事を用意しただけで尽きてしまったけど、アタシが私費で酒も買ってきた。飲める人はどんどん飲んでくれ!」


 イグルカの言葉に、一部の職員から歓声が上がる。

 トバリの手元の陶磁のグラスにも、赤い葡萄酒が注がれている。


「トバリ君もお酒飲めるのだ?」


 隣に座るラキが、蜂蜜入りのお茶のコップを手にしてトバリに尋ねてきた。


「兵士団の駐屯地にいた頃に鍛えられた。あそこは、酒宴が仕事の一部みたいなもんだったからなぁ」


 トバリは目を細めて3年過ごした駐屯地時代を思い出す。

 本部に比べて監視の目が緩いため、駐屯地は大体どこも独自の習慣と文化が生み出されていく。トバリがいた駐屯地は部隊長が酒好きな男だったため、「備蓄食料購入」と称して地下に酒を溜め込み、毎日のように酒宴が開かれていた。

 今振り返れば酷い環境の職場だったが、騒がしいなりの楽しさもあった。戻るのは二度とごめんだが。


「皆、飲み物は手に持ったかな。それでは、エルーの新居を完成を祝って……乾杯!」


 イグルカの掛け声に合わせて、全員が杯を高く掲げて「乾杯!」と唱和する。その後に、近くにいる者たちと杯を軽くぶつけ合った。木や陶磁の器が鳴る軽快な音が食堂に響いた。


「ほら、トバリ君! シオン姉ちゃんのところに行って乾杯してくるのだ!」


 トバリと杯を合わせたラキが急かすように言った。


「わ、わかったよ」


 周囲では職員達が立ち上がり、遠くの席の者と乾杯している。この流れに乗れば、多少気まずくても一言二言交わすぐらいはできるだろう。トバリは渋々立ち上がり、しかし自信なさげにラキの方を向いた。


「……すまん、ラキも一緒に付いてきてくれないか?」


「……今回は特別なのだぞ」


 ラキが仕方ないと言わんばかりにため息をつき、すぐに笑顔になった。


「ラキは、トバリ君のお姉ちゃんだからな。弟が一人前になるまでしっかり面倒を見るのだ!」


「なんだそれは!?」


 自分の方が年上だぞと続けたくなったが、この牧場では年齢差はあまり重要ではない。事実、対人関係の構築という点ではこの炎蜥蜴族サラマンダーの少女は自分の遥か上を行く。

 ラキの温かい手を取って立ち上がらせると、まずは牧場長イグルカのもとへ向かった。年齢差は重要ではないとは言え、やはり盃を持って巡る順番は大切だ。


「やぁ、トバリにラキちゃん。今日も2人は仲がいいなあ!」


 イグルカが手を繋いだままのトバリとラキを見て、豪快に笑った。結構な勢いで酒を飲んでいるのか、すでに顔が赤い。


「ラキはトバリ君のお姉ちゃんになったのだ。だからいつも一緒なのだ」


「ははは、そうかい。新しい家族ができてよかったねえ、ラキちゃん」


「イグルカさん! 自分はこれほど小さな姉を持った記憶はないぞ!」


 イグルカの軽口に、トバリは言い返す。もちろん本気ではない。3人で楽しそうに笑う。


「それじゃあ2人共、会食を楽しんでね。トバリはいける口なら、後で酒を酌み交わそうじゃないか」


 かつん、と杯を合わせてトバリは中の葡萄酒を一息に飲み干した。

 牧場長の次は料理長への礼だろう。2人はクリスロアのもとへ向かう。途中、すれ違った人達とも挨拶を交わしながら。


「クリスロアさん、今日も調理お疲れ様。大変だったんじゃないか」


 そう声を掛けると、クリスロアは疲れた表情を和らげて言った。


「ええ、この量を作るのはかなり骨が折れました。でも美味しく食べていただけるなら、料理人としては満足です。特に魚介のスープは自信がありますので、ぜひ味わってください」


「そうだな、ありがとう。冷めないうちに食べるとするよ」


「クリスロア君、ありがとうなのだ!」


 他の人と同じように乾杯をして、その場を去ろうとした時、クリスロアが呼び止めてきた。


「あの、トバリさん……」


 トバリは振り返り、クリスロアへ向き直る。


「? どうしたんだ、クリスロアさん」


 精霊族エルフの青年は何か言いたげに口を何度か開閉し、しかし何かを諦めたのか困ったような笑顔を浮かべた。


「いえ、なんでもありません。どうぞ、楽しんでください」


「ああ」


 一体彼は何を伝えたかったのだろうか。昨晩、牧場で星空を見上げながら語ったことについてだろうか。疑問に思ったが、頭はすぐに切り替わる。次はいよいよシオンに会わなければならないのだ。

 無意識に歩く速度が遅くなっているトバリを、ラキがぐいぐい引っ張っていく。

 シオンは食卓の端の席で、喧騒の輪から外れたように1人座っていた。


「ほら、行くのだトバリ君」


 ラキが小声で言いながら、トバリの背中を押す。全く、小さな姉はお節介焼きだ。


「シ、シオン」


 トバリが名前を呼ぶと、〈竜の巫女〉の少女がゆっくり顔を上げた。

 近づくと、彼女からふわりと柑橘系の爽やかな香りが漂ってきた。どうやら犬人族コボルトの少年ティビからもらった香木を焚いたらしい。


「乾杯を、しに来た。エルーの、お祝いだから」


 がちがちに緊張して、自分でも何を言っているのかわからない。だがどうにか意図は伝わったようで、シオンは水が入った杯を自分に向けた。

 陶器同士がぶつかる乾いた音がした。

 トバリは目を逸らしながら葡萄酒を口にする。やがて、意を決して話しかけることにした。


「「あの」」


 トバリとシオンが声を発したのは、ほぼ同時だった。はっと顔を見合わせると、恥ずかしそうに互いに視線をそらす。


「さ、先に言ってくれ、シオン」


「いえ、あなたからでいいわ」


 そう促され、トバリは呼吸を整えてからシオンに告げた。


「……昨日、シオンが自分に伝えてくれたことについて、自分なりに考えてみた。だから、この祝宴が終わった後に話す時間が少しほしい」


「そう」


 シオンは顔を逸らしたまま、無表情で答えた。


「私も、ちょうどあなたに伝えたいことがあった。その時に話すわ」


 この言い方なら、後で話をしてもいいということだろう。トバリは安心して息をついた。

 しかし一方で別の問題が立ち上がってくる。話したいことがあるとはとっさに言ってみたが、実はまだ答えが出せていないのだ。この祝宴の最中に考えなければならない。


(うぅ……なぜ自分は自分の首を絞めるようなことばかりしてしまうのだ)


 より憂鬱な気分になりながら、トバリは自分の席に戻った。空気を読んで先に戻っていたらしいラキが、食事を頬張りながら迎えてくれた。


「仲直りはできたのだ?」


「あぁ。一応、後でまた話す約束をした」


 ラキは口の中の食事を飲み込むと、飾りっ気のない笑みを浮かべた。


「そっか、よかったのだ! それじゃあトバリ君も一緒にご飯を食べるのだ」


 席に座ると、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり空腹を思い出した。少しの間は、悩みを忘れて酒と食事に取り掛かってもいいかもしれない。

 まずスープを一口。

 ミルクの甘さが舌を優しく包む。思っていたよりあっさりとした味だが、その中にしっかり川魚と野菜の旨味が溶けている。ひと匙飲み干すと、次の一口を求めて心が焦る。


(だが、慌ててはいけない。ここで飲み干してしまっては、次の楽しみがなくなってしまうからな)


 トバリは次に白パンに手を伸ばした。久しぶりに手に取る柔らかいパンは、雲のように優しくちぎれる。その一欠片をスープにひたして食べると、口の中でふわっと溶けて旨味が一気に広がった。


「おいしいのだ! 幸せなのだ!」


 同じ食べ方をしているラキが、涙を流さんばかりの喜びようでパンを頬張っている。トバリも口にこそ出さないが同じ気持ちだ。

 旬の春野菜はどれも歯ごたえがよく、味も濃い。何よりシカ肉はナイフがすっと通るほどに柔らかく、上に乗ったプラムの酸味と溶け合って口内で優雅な舞踏会が開かれているようだ。

 食事が落ち着くと、イグルカ秘蔵の葡萄酒を一口。甘みの中に、かすかにピリッとした香辛料のような辛さが混じっている。


 幸せな時間だ。


 全ての時がゆっくりと流れている。


 みんなが共通のことを喜び祝っている。その祝福には立場や種族はなく、ただ真面目に働く人々がいるだけだ。

 その輪の中に自分もいる。

 そのことがとても不思議で、とても温かく、そしてとても幸せだった。


 だが、トバリは同時に知ることとなる。

 幸せな時間は、



「〈酩酊スートヴェル〉」



 食堂に低い声が響いた刹那、トバリは自分の体に異変を感じた。

 全身が痺れたように動かなくなり、痙攣を始める。声を出そうとしても喉が震えて思い通りにならない。やがて座ったままの姿勢も保てなくなり、長椅子から床に転げ落ちた。


(なんだ、一体……何が起こった……!?)


 異変が起きたのは自分だけではなかった。

 ほかの職員達も同じように体を震わせ、床に崩れ落ちていく。食器が次々と落下し、料理がひっくり返った。


 その中でただ1人、立っている者がいた。

 その者は目の前で起きた出来事にも驚きを見せず、ただ観察するように上から見下ろしていた。

 トバリは震える手で体を起こし、顔を上げる。


「なん、で……あんたが……!」


 その目に映ったのは——

























「クリスロアさん……!」


 精霊族エルフの青年はトバリの問いかけに答えず、切れ長の目で冷たい視線をただ送るのだった。

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