第5章「解放の風、来たる」
解放の風、来たる(1)
その日の空は、朝から不穏な黒い雲が立ち込めていた。
トバリの本日の業務は〈毛長竜〉ファードラゴンの竜舎の掃除だった。モフモフと柔らかそうな巨体がのそのそと竜舎から出て行くのを確認してから、トバリは長い柄の先に爪が付いた農器具を使い、地面に散らばった寝藁や体毛などをかき集める作業を始める。
「なんだか床に落ちるファードラゴンの毛が前より増えているように思うんだが、気のせいかなあ」
熊手の先に引っかかる大量のファードラゴンの毛を見て、トバリは不思議そうに呟いた。
「そりゃそうだよ、トバリちゃん。今は季節の変わり目なンだ。暖かくなってきたら、冬の毛は抜けて落ちていくもんなンだよ。毛が長い奴はみ〜んなそうさ」
新しい寝藁を両手で抱えて運んでいる
この
「そうか? そうなのか。じゃあおっちゃんも今は抜け毛で大変なんじゃないか」
トバリは近くで作業している初老の
「最近は季節関係なく抜けてきているさ。櫛で梳かして一緒にごっそり抜けた時の悲壮感なんて相当なもんだ」
「はぁ、それは大変だ」
空返事をしたトバリに、初老の
「人ごとではないぞ、ハリ坊。早い奴は20代で訪れる。まさに神のみぞ知るという奴だ。数年後が楽しみだな」
「こ、恐いことを言うな……! と言うか、ハリ坊って自分のことか?」
そう言えば、自分の父親は前髪で隠してはいたが、かなり額が後退していたようだった。親子は顔や体つきのみならず、髪の状態も似てしまうものなのだろうか。
トバリはこっそりと自分の額に手を当て、生え際を確認するのだった。
午前中の業務を終えると、エルーが住む新居に様子を見に行った。
朝一番に行った時には、ぐっすり眠れたようで起きたそばから元気な声を出し、しきりにご飯をねだっていた。
「待てー、待つのだー、エルーちゃん!」
竜舎の前では、
「捕まえたのだー!」
ラキがエルーに飛びつき、1人と1匹はもつれるようにして倒れた。そして笑顔でじゃれ合う。
「なんだか、ずいぶん仲良くなったみたいだな」
トバリが近づき声を掛けると、ラキとエルーはほぼ同時に顔を上げた。
「あ、トバリ君なのだ!」
『きゅうきゅう!』
恐らく両者は同じことを言っているのだろう。あまりにも仲が良すぎるその姿から、なんとなく察することができる。
「ラキ、もう仕事は終わったのか?」
「午前の仕事は終わったのだ。午後からは、エルーちゃんが新しいおうちで寝ている姿をお絵かきするのだ。ぐっすり眠ってもらうように、こうしてお昼のお休みの時間に一緒に遊んでいるのだ!」
ラキは新居にエルーの姿を描く仕事を受け持っている。先日は楽しげに遊ぶエルーを描き、そしてこれからは就寝中の姿を描く。
「そうかそうか。それならしっかり遊んでもらえよ、エルー」
トバリがエルーの首回りを撫でると、仔竜は『きゅい〜』と甘えるような声を出してその手に頭を擦りつけた。
(自分は、この子を戦いの場に引きずり出してしまっていいのだろうか)
昨日からずっと自問自答している問題が心の中をよぎった。
親と故郷から引き離され、ようやく平穏を取り戻したエルーを戦火へ投じる選択をすれば、きっとラキは自分を軽蔑するだろう。
この太陽のような少女の笑顔を曇らせる選択はできればしたくはない。辛い過去を背負っているからこそ、これからは笑って生きてほしいと心から願っている。
そしてその願いは当然、エルーにも向けている。
(誰かの幸せを願う心と、自分の夢を追いかける心。二つの思いを天秤に掛けることがこれほど難しいとは)
この牧場で平穏に生きるラキとエルーの姿を見ていると、葛藤が自分の胸をより強く縛りつけてくるように感じた。
「あ、シオン姉ちゃんなのだ!」
ラキの声で、トバリははっと我に返った。
慌てて周囲を見渡すと、エルーの竜舎に向かって歩いてきていたシオンと目が合った。
彼女は立ち止まると、気まずそうに視線を逸らした。トバリもほぼ同時に顔を背ける。
互いに明後日の方向を見ながら何も喋らない時間が少し続いた後、シオンは軽く頭を下げて駆け足でその場を去って行ってしまった。
「な、なんかこの光景見たことあるのだ!」
ラキが衝撃を受けた声で言った。
牧場に来た日、ラキが自分のことを紹介しようとして、シオンはそれを聞かずにエルーがいた隔離竜舎に走り去ってしまうことがあった。ラキはそれを思い出したのだろう。
「トバリ君……シオン姉ちゃんとケンカしてしまったのだ?」
ラキが心配そうに尋ねてきた。
「……ケンカじゃないよ。ただ少し、顔を合わせた時に何を話せばいいかわからなくなっただけだ」
昨日の夜、エルーの竜舎の中でシオンに言われた言葉が蘇る。
一体、彼女はどのような意味を込めて言ったのだろうか。深く考えれば考えるほど、頭の中がこんがらがって訳がわからなくなるのだ。
〈コーンフェル〉での買い出しやエルーの件を経て、自分は彼女のことを少しは知ったつもりだった。それなのに、真正面から向き合うことができないのはなぜなのだろう。
わからない。
「それでもトバリ君とシオン姉ちゃんが仲良くしていないのは、ラキは嫌なのだ。今日の夕方のエルーちゃんの新しいおうちの完成祝いまでにはまた仲良くなっているように、ラキと約束してほしいのだ」
ラキが涙をにじませた目で自分を見上げてきた。それに吊られてエルーも一緒に顔を覗き込んでくる。
1人と1匹に純粋な目で見つめられて、トバリは頷くしかなかった。
「わかった、わかったよ。ただ、この後は仕事もあるから……お祝いの食事会の間に話し合っておくことにするよ。それでいいか?」
「もちろんなのだ! 一緒に楽しく、エルーちゃんを祝福するのだ!」
トバリとラキは互いに人差し指と中指を絡めた指の形を作り、それを2人の間でそっとくっ付ける。「約束を守る」という風習だ。
しかし、トバリは内心で困ったようにため息をついた。自分の乏しい対話能力では、数日かかってもまた元のような関係に戻るのは難しそうだ。
(一体、自分はいくつの問題を同時に考えなければならないんだ? それとも、世間の同年代の者は皆、これぐらい悩みを抱えているものなのか?)
午後の業務の開始を知らせる鐘が牧場に鳴り響いた。トバリは重い足取りで、次の仕事に向かうのだった。
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