覚醒ドラグニカ(6)
そのまま宿舎に直帰する気にはなれず、トバリは夜の牧草地を歩いていた。
冷たい夜の春風が
多少の雲はあるが、一面に散りばめられた星の光と、満月に近い月の光のおかげで灯りがなくとも十分に周囲が見える。
「綺麗だなぁ」
夜空を見上げて歩きながらトバリは独りごちる。
星空がこれほど綺麗に感じるのは初めてだ。高地は空気が澄んでいて星がよく見えると聞いていたが、夜は早くに寝てしまうのでゆっくり夜空を見上げる機会はなかった。
自分の心なんて関係ないよと言わんばかりに輝く星々。手を伸ばしても届かない光たち。
彼らは答えを与えてくれるようで、しかしただ静かに微笑むだけだ。
どうすればいい?
どうすればいい?
問いかけに意味がないのはわかっている。答えを出すのは自分だ。
ふと空から地上に視線を戻すと、なだらかな丘の上に人影が立っているのが見えた。多少警戒しながら歩いて近づいてみると、それは自分がよく知る人物だった。
「クリスロアさん」
トバリが声を掛けると、
「あぁ、トバリさんでしたか」
「そっちに行っても?」
「もちろん、どうぞ。せっかくなので座って話しませんか。今日はいい夜だ」
2人で草地に腰を下ろす。柔らかい感触が伝わってくる。
「今日はお疲れ様でした。エルーさんの竜舎からの帰りですか?」
クリスロアが星空を見上げながら問いかけてきた。
「ああ。少し、考え事をしたくて夜の散歩をしていた。クリスロアさんは?」
トバリも同じ方向を眺めながら、質問を返す。
「僕は……少し故郷に思いを馳せていました」
「故郷か。どんな場所だったか聞いてみてもいいか」
クリスロアは頷く。
「ええ。と言ってもあまり面白い話ではありませんよ。なんの変哲もない山奥の村です。特徴と言えば、
「思いを馳せていた、と言うのは家族にか」
「そうとも言えますね。兄が1人います。気立てが良く、誰とでも分け隔てなく接することができる自慢の兄です。僕達は兄弟でその村に預けられたので、僕にとっては親代わりでもありました。釣りを教えてくれたのも兄です」
クリスロアは釣りが趣味で、竿も多く持っていた。エルーに初めて餌を与えた時はお世話になったものだった。あの趣味は兄譲りのものだったのか。
「僕は兵士団に入り、兄は村に残りました。しばらく会わなかったので、今は何をしているのかなと気になりましてね。こうして夜空を見上げていたんですよ」
自分の知るクリスロアはいつでも冷静で、しかも他人に目配りができる全く隙がない人だ。しかしそんな強い心を持つ彼も故郷や肉親が恋しくなることがあるのか。
当たり前のことながら、トバリには意外に感じられた。
「……ここの生活はすっかり慣れたみたいですね、トバリさん」
しばらく星空を見上げていると、クリスロアが尋ね返してきた。
「ああ。まだまだ知らないことも多いけど、どうにかこうにかやっていけてる。そう言えば、最初に自分をこの牧場に案内してくれたのはクリスロアさんだったな。あの時に比べたら、多少は新しい環境に慣れてきたのかな」
クリスロアに連れられ、自分はこの牧場にやって来た。恐ろしい脅し文句が書かれた看板を目にして震え上がっていたのが、今では懐かしく感じる。
「職員達からも評判ですよ。手を抜かずに仕事をこなして、熱心に質問もしてくれる。これまで王都の兵士団から出向で来た人間とはまるで逆だとね。実際、僕がこれまで会った中でも、君のように柔軟に考え方を変えられる人間は少ない」
クリスロアの言葉にトバリは星空から目を離して俯き、ゆっくりと首を横に振る。
「……買いかぶりすぎだよ。自分は偏見の塊だ。正直、亜人の人が多いこの環境の中でどのように振る舞えばいいか未だに自信を持てないでいる。もしも職員さん達が自分を評価してくれているならば、それは仕事の面を見た話だ。手を抜いたつもりはないからな」
だが、とトバリは続ける。
「だが、もっと根本的なところで何も分かり合えていない。上辺だけのやり取りで済ませてしまっている。結局のところ、自分はまだ本質的な意味で
この牧場に来るまで——いや、今でもなお、亜人種と上手に付き合うコツは、一定の距離を置いて当たり障りのない話に徹することだと考えている。
亜人問題のようにいろいろな立場の感情が入り乱れている話は、相手を否定せずかと言って過剰に肩入れしないのが賢いやり過ごし方だ。
だが、あの少女は——シオンは違う。
〈コーンフェル〉の街で亜人差別を受けた
自分がいつまでも境界線を指でなぞっている一方で、彼女はその向こう側の声を聞き、言葉を届けようと必死になっている。
彼女の姿を見ていると、無関心であろうとする自分が恥ずかしくなってくる。
だが、自分が何をしてもそれはただの偽善なのではないかと考えが頭をよぎり、同じような振る舞いはできないでいる。
それが、とても歯がゆい。
「……あのですね、トバリさん。そういう姿勢を柔軟に考え方を変えると呼ぶのですよ」
クリスロアが呆れたようにため息をつきながら言った。直後に笑みを浮かべていることから、悪い意味ではなさそうだ。
「世界中のヒュ……いえ、人間が皆君のように頭が柔らかければ、僕達も息がしやすかったのかな」
クリスロアが小さく呟いたが、風に巻かれてトバリの耳には届かなかった。
「何か言ったのか、クリスロアさん」
「いえいえっ、なんでもありませんよ。それより冷えてきましたね。そろそろ引き上げましょうか」
クリスロアがさっと立ち上がった。一瞬見えた表情はどこか悲しげだったが、気のせいだろうか。
草地を数歩歩き出したところで、クリスロアが何かを思い出したように振り返った。
「そうだ! これは君とシオンさんがいない時に決まったことなのですが、明日はエルーさんの新居完成を祝って夕方から豪華な食事会をするんですよ。僕も腕によりを掛けて調理をするので、楽しみにしてくださいね」
「本当か! それは楽しみだ!」
「ええ、僕も腕によりをかけて、王宮の晩餐会にも負けない豪華な料理をお出ししますよ。それはちょっと言い過ぎかな」
クリスロアが笑顔で腕をまくった。
食事会ということは、職員全員で集まって一緒に食べるのだろう。終業の時間がバラバラで一堂に集まって夕食を取ることは少ないから貴重な機会だ。
何より、エルーを祝ってくれることが自分のことのように嬉しい。
トバリは少しだけ上機嫌になり、クリスロアの後に続いて宿舎への道を歩いて行った。
自室に戻ってすぐに、トバリはベッドの中に潜り込んだ。
たちまち眠気が襲ってきて、意識が闇の向こうへ遠ざかっていく。
その間、あまりにも色々なことがあり過ぎた今日1日の出来事が、ロウソクの火のように揺らめきながら記憶に立ち上ってきた。
驚きのことがあり、嬉しいことがあり、そして困惑することがあった。
しかし、あらゆる記憶が意識の上での体のすぐ近くを通り過ぎて行く中で、どうしても一つの記憶がしこりのように引っかかっていることに気が付いた。
それは強いて表現するなら、嫌な予感という感覚に近い。
(自分は、何かを見過ごしている……?)
ふとそんな考えが頭をよぎったが、すぐに眠気が思考を消し飛ばしてしまう。
明日は良い1日になってほしいな。そう願いながら、トバリは意識を手放した。
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