覚醒ドラグニカ(5)
その竜舎はかつて蛇のような長い胴体と蝙蝠のような羽を持つ〈蛇竜〉リンドブルムが飼育されていたという。しかし、凶暴な気性から人に飼われるドラゴンに向かず、最後の1匹が老衰してからは空き家となっていた。
物置として活用していたその場所を、シオンが街の材木屋で購入してきた資材で補強。内部も細かい敷居を取り払うなどして居住空間を拡張した。さらにこの日、寝藁や水桶などを運び込み、エルーの新居として完成したのだった。
「改めて見ると結構大きいんだな」
トバリは改築された竜舎を見上げながら呟いた。
新しい木材で補強した部分と元の木材が残ったままの部分で色がまだらになっていたが、ラキが描いた絵がちょうどよく配置されているためか違和感が少ない。
トバリがエルーを引き連れ戻ってくると、竜舎の前にはシオンやクリスロアだけでなく、イグルカやラキ、そして牧場の他の職員達が揃っていた。
ロンロン牧場の職員は全員で十数人で、自分とシオンを除けば全員亜人種だ。竜舎前に集まった面々には、トバリが最近よく仕事の相談に乗ってもらっている老
(思えば、これまでの人生で全く関わることがなかった人達と一緒に自分は働いているんだな)
トバリはエルーを連れ、職員達が作る道の真ん中を通っていく。
多くの視線が向けられて恥ずかしさを感じる。同じことをエルーも感じているのか、あたりをきょろきょろと落ち着きなく見渡している。
「大丈夫だよ、みんないい人だ」
トバリは小さな声でエルーに言い、安心させるように首を撫でた。
きっとここに集まった人の中には、自分をよく思っていない者もいるだろう。当たり前だ。王都から来た鼻持ちならない人間が、ただの偶然でエンシェントドラゴンの飼育係に抜擢され、周りに助けられてばかりのくせに、こうして保護者ヅラして歩くのだ。
だが、今こうして歩きながら体が受け止める感情は祝福ばかりだ。
「よかったね」「おめでとう」と祝いの言葉が飛び交い、ラキが手を叩き出したのをきっかけに拍手が始まる。自分とエルーは喜びの輪の中を歩いていく。
戸惑いと恥ずかしさと、そして嬉しさが一緒になった不思議な感情だ。
嫌みたらしい人事官に左遷を宣告され、同僚達に後ろ指刺されながらこの場所に来た時は、自分がこんな気持ちになるなんて想像もしていなかった。
追放された日に見上げて苦しくなった青い空が、今はとても心地よい。
(自分は、ここに来て良かった。それだけは……それだけは間違いない)
トバリは胸の前でぎゅっと拳を握りしめた。
竜舎の入り口に着くと、先日ラキが描いた楽しそうに遊ぶエルーの絵が出迎えてくれた。飛び跳ねるエルーは幸せそうで、見ていると心が穏やかになる。
トバリが先に竜舎に入ると、エルーは後に続こうとして入り口付近で立ち止まった。自分の匂いと新しい木の匂いが入り混じった空間を前に、少し困惑しているようだった。
寝藁は隔離竜舎でエルーが使っていたものを運び込んだ。慣れた匂いがあると、新居でも落ち着くらしい。
「ここがお前の新しいおうちだよ、エルー。安心して入ってきていいんだ」
〈
『きゅう、きゅう』
首を動かし、小さく鳴きながら高い天井の竜舎の内部をあちこち眺める。戸惑いよりも、興味が勝っているようだ。
自分の匂いが染み付いた寝藁の山を見つけ、近づいていった。一歩一歩藁の上を踏んでいくと、そのてっぺんでゴロンと横になった。どうやら新しい住居を気に入ってくれたようだ。
「エルー」
トバリは思わず仔竜の名前を呟いていた。
初めての出会いは、暗く冷たい監獄のような隔離竜舎の中だった。それが今は、十分に外からの光が入る居心地の良い家にいる。この場所が奪われた故郷の代わりになるものではないとわかっているが、それでも告げずにはいられなかった。
「おかえり。おかえり、エルー。よかったねえ」
トバリは年相応の少年のような笑顔を浮かべて、エルーの空のように青い体を抱きしめる。仔竜は嬉しそうに『きゅきゅう』と鳴き、主人の頬を舌で舐めるのだった。
「無事に眠ったみたいね」
新しい住処の寝床の上で『くぅくぅ』と可愛らしい寝息を立てるエルーを見て、シオンが小さく呟いた。
すっかり夜は更けていた。竜舎の屋根近くに設けられた格子の隙間から月の光が差し込み、竜の仔が眠る家を優しく包んでいる。
改築した竜舎での生活が始まった初日ということもあり、トバリとシオンは2人でエルーが眠るのを見届けていた。ドラゴンは住処が変わると初めのうちは落ち着かずなかなか眠ってくれないようだが、この分なら心配なさそうだ。
「不思議と、隔離竜舎にいたころより穏やかな寝顔になった気がするな」
「そうね。ふふっ」
しゃがんでエルーの顔を見ながら言ったトバリの言葉に、シオンも微笑を浮かべて同意する。
幸せな時間だ、とトバリは感じていた。体も心も疲れていたが、仔竜の安らかな寝顔を見ていると力が溢れてくる。
「トバリ、ありがとう」
シオンが唐突に告げた。
「あなたがいてくれたおかげで、こうしてエルーに安らかな時をあげることができた。あなたを巻き込んだことを謝っていたけれど、感謝の言葉を述べるべきだと、さっき気がついた」
「い、いいよ、礼なんてっ」
トバリは狼狽して手を振る。
「ただ、自分は、たまたまその場にいただけだ。その場にいて、できることをしただけだ。自分から動き、努力をしてきた者の頑張りに比べたら何でもない」
「それでもいい。感謝したい」
「シオンが、そう言うなら……」
礼を言われて悪い気はしない。申し訳なさはあるが、ありがたく受け取ろう。
「さて、では自分達も引き上げるか。明日も早くから仕事だ」
トバリは立ち上がり大きく伸びをした。
そういえば今日は非番のはずだったのだが、全く休めた気も羽を伸ばせた気もしない。本当に、色々なことが一度にあった日だった。
エルーが魔術を使った。
〈
エルーの新しい住処が完成した。
そして——自分はこの場所を去るか、残るか、決断を下さねばならない。
やはり幼い頃から見てきた夢への未練が大きいのだろう。エルーの居場所ができたことに喜びつつも、再び燃えるような戦いの日々に戻りたいという思いは消えない。
(今日は、ひとまず寝よう。こんがらがった頭を、整理したい)
トバリが竜舎の入り口を跨ごうとした時だ。
「ま、待ってっ」
シオンがトバリの右手を握り、引き止めた。
彼女はなぜこのような行動をしたのか、自分でも理解していないようだった。何かを言おうとして声に出せず、しかし正面からトバリの目を見据えた。
格子から差し込む青白い月の光に照らされ、シオンの美しい銀色の髪と水色の瞳が淡く輝く。
トバリはその輝きに目を奪われた。
「あ、あの、こんなことを言うのは、おかしいかもしれないけれど」
シオンは少しずつ言葉を紡ぐ。
「もし……もし、私が……私が、あなたと、一緒にいることを……の、望んでいるとしたら、あなたは……」
それはトバリが初めて見る、シオンの泣きそうな表情だった。
「あなたは……」
時が止まったように感じられた。
自分の右手を掴むシオンの手が震えていることに気づき、どうしようもない愛おしさがこみ上げてくる。
何も考えず、この少女を抱きしめたいと思った。
だが、強い思いに反して体はぴくりとも動いてくれない。まるで自分のものではないみたいだ。
どれだけの時間が経っただろうか。雲が月光を遮り、竜舎は闇に包まれた。
シオンは手を離し、トバリから視線を外して俯いた。
「ごめん、なんでもない。今のは、忘れてほしい」
そして動けないでいるトバリの横を通り、先に竜舎から出て行く。
「……時間はあまりないけれど、ゆっくりと考えて答えを出してほしい。あなたがそうしたいと思える、本当の答えを」
少女の気配が去っていくのを、トバリは背中で感じていた。
自分は動くことができなかった。何も言葉を返すことができなかった。
今からでも彼女を追うべきなのだろうか。
だが、追いついたところで何と告げれば良いのだろうか。
わからない。
訪れた闇の静寂が、ぎゅっと心を締め付けた。
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