幕間「ラキ画伯とエルーのおうち」
ラキ画伯とエルーのおうち(1)
その日、トバリは午前中の業務を終えると牧場長の執務室の扉を叩いた。
「イグルカさん、少しいいか?」
執務室では、
イグルカはトバリに気がつくと、羽ペンを置いて顔を上げる。
「やぁ、いらっしゃいトバリ。いいよ、入ってきな」
「……何やら忙しそうだったが、大丈夫なのか?」
「大丈夫大丈夫。牧場の状況とか、支出とか、色々報告しなきゃいけないことが多いんだ。一応ここは国の施設だからね。はぁー、力仕事だけなら楽なのにねえ」
そう言うと、イグルカはため息をつく。見るからに力がある彼女なら肉体労働が適任なのだろうが、牧場を管理する立場としての仕事も多いようだ。
「それで、一体何の用だい」
執務室に入ったトバリは、促されるまま椅子に座る。
「大した用事ではないんだが、牧場の皆の過去はどこまで聞いてもよいのか相談したいんだ」
相手の人となりを理解する上で、幼少期の思い出や出来事を尋ねるのは効果的だ。自分も先日、シオンに過去を話したのをきっかけに少しは仲良くなることができた。
だが、中には「訳あり」でこの牧場に来ている者もいるだろう。何も知らずに過去について尋ね、触れてはいけない話題に触れてしまっては相互理解どころの話ではない。
「へぇ! トバリもついに牧場で仲良く働こうと思ってくれるようになったんだね! いやぁ、アタシは嬉しいよ。ここに来たばかりの時は、わざと拗ねているようだったから心配だったんだ」
(うっ、やはりバレていたのか……)
牧場に来てすぐは「たとえ蛇のように嫌われようとも最速で王都に帰還する」との思いで、わざと突っぱねたような態度をとっていた。まだあれから半月ほどしか経っていないのに懐かしく感じる。
「まぁ、アンタが心配しているような特別な事情を持っている奴は少ないよ。アタシやクリスロアは問題を起こしたわけじゃなくて、単に亜人だからって適当な理由でこの牧場に来たし、現地採用した亜人の職員も前の仕事場を追い出されてここに流れ着いた奴らばかりだ」
イグルカがさらっと話している内容がすでにトバリが危惧する「特別な事情」なのだが、亜人種にとっては当たり前のようにあることなのだろうか。
「シオンはどうなのだろう。どうして〈竜の巫女〉である彼女がここで働いているんだ」
自分以外の唯一の人間の職員にして、〈竜の巫女〉のシオンについて尋ねる。
「シオンはここに来る前は軍用ドラゴンを育てるリーヨン牧場に〈癒し手〉として勤務していたんだ。だけど、戦闘訓練で傷は絶えず、弱い個体は間引いてしまう向こうの環境が嫌だったみたいでこっちに移ってきたんだよ。給料は半分以下になったみたいだけどね」
ロンロン牧場の給料は決して高くない。むしろ低いと言える。住居と食事が付いているので飢えることはないが、趣味や息抜きに使える金額は少ない。
リーヨン牧場はその点で言えば資金は潤沢だが、戦闘用のドラゴンを育てるという役割からかなり苛烈な状況になっているようだ。自分の身よりもドラゴンを案じるシオンからすれば、嫌になる環境だろう。
「その……ご家族は無事なのだろうか」
「ご両親は健在みたいだよ。民間のドラゴン向け獣医をご夫婦でやっているって話していたね。〈竜の巫女〉と言っても、基本的には普通の人間と変わらないさ」
これで過去の話を会話の話題にできる、とトバリは胸をなでおろした。
「でも両親の話を聞くってことは、挨拶にでも行くのかい?」
「ち、違う! なぜ皆すぐにそういう話に結びつけるんだ!」
トバリは慌てて否定する。イグルカは笑う。
「あはは、ごめんごめん。そうムキにならなくたっていいじゃないか」
「急に変なことを言い出すからだ、全く……! そうだ、ラキのことも知りたいな」
あのお喋りな
「ラキちゃんは……特別な事情を抱えた子だね」
イグルカの表情が真面目なものに変わった。
「あの子にとってロンロン牧場は避難所みたいなものだ。もとはどこかの孤児院に預けられていたらしいんだが、珍しい種族だからと好事家か、あるいは見世物小屋に売られる予定だったんだ。あの子は自力で逃げ出してきて、ロンロン牧場の竜舎に忍び込んで身を隠していたのさ」
イグルカから告げられた事実に、トバリは息を呑んだ。
まさかあの明るく元気なラキに、暗い過去があるとは想像もつかなかった。
「……だからエルーのことであんな必死になっていたのか」
エルーが脱走した嵐の日に、〈怪鳥の谷〉まで探そうと強く主張していたラキを思い出した。
「そうだね。ラキちゃんも初めはなかなか暗闇から出てこようとしなかったから。怯えて、恐怖して、威嚇して……だから自分とエルーを重ね合わせて見ていたのかもね」
「そうか、知らなかったな」
それでも彼女はちょっとずつ前を向こうと努力したのだろう。そして今の太陽のように元気なラキがいる。
自分も新しい環境に放り込まれて困惑していた頃に、何度彼女の明るさに救われたかわからない。
イグルカにお礼を告げて執務室を出ると、改築中の竜舎に向かった。
その竜舎はかつて使用されていたが、老朽化に伴い物置となっていた建物だった。エルーを監獄のような隔離竜舎から移すための新たな寝床として使う予定だ。
新しく板が打たれた壁の前で、少女が1人腕を組んで立っている。お尻から生えている尻尾が悩ましそうに揺れていた。
「ラキ」
トバリが名前を呼ぶと、
「もう体は大丈夫なのか?」
彼女はあの嵐の日の事件で体調を崩して以降、しばらく業務に出ずに安静にしていた。こうして外出しているということは、無事に治ったのだろうか。
「ラキはもう大丈夫。今日からお仕事に復帰したようだ。トバリ君が買ってきてくれたリンゴとオレンジのおかげなので治ったのだ。ご心配をお掛けしましたなのだ!」
ラキは花が咲いたような笑顔を浮かべ、両手を挙げた。
「そっか、よかった! ところでここで何をしているんだ?」
「よくぞ聞いてくれたのだ! ラキはイグルカさんから、エルーちゃんの新しいお家に絵を描いてほしいとお願いされたのだ」
彼女の周りには絵の具やパレットや筆など絵を描く道具が一式揃えてあった。高所で描くための踏み台もある。
おそらく、病み上がりで無理をさせないようにイグルカが頼んだのだろう。あの牧場長は豪快そうに見えて細かな気遣いができる人だ。
「だけど、エルーちゃんの絵を描こうとしているのだが、なかなか構図が決まらないのだ」
ラキが頭を捻りながら言った。
「そういうことなら、本人をここに連れてこよう」
トバリは提案する。
「本人?」
「エルーのことだよ。あいつ、隔離竜舎が嫌なのか最近はしょっちゅう外で過ごしているんだ。だから連れてくるよ」
「本当なのだ? 嬉しいのだ!」
ラキがぴょんぴょん飛び跳ねて喜びを表現する。ここまで喜んでもらえるなら、被写体となるエルーも嬉しいだろう。
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