オレガノの香りを追って(6)
トバリは一気に距離を詰めると、自分の動きに反応できていない男の脇腹に拳で強烈な一撃を加える。
崩れ落ちかけたところを、すかさず顎に頭突きをかます。流れるように意識を失った男は、仰向けに地面に転がった。
「この野郎!」
後ろに回り込んできたまとめ役の男が怒声を上げ、トバリの後頭部目がけて拳を振るう。
トバリは身を沈めてそれをかわすと、伸びっぱなしになった腕を両手で掴み、背負い上げてから地に思い切り叩きつける。
背中をしたたかに打った男は呼吸が困難になったようで、魚のように口をパクパクと開けていた。
「奇襲をする時は大声を出しちゃいけないだろ」
トバリは倒れたまとめ役の男に呆れたように言う。
視界の端で、残る2人の内1人がナイフを抜いたのが見えた。
護身用に持っていたのだろうが、使い慣れていないようで持つ手が震えている。
遠慮なくトバリが近づいていくと、男は覚悟を決めたのか刃物を振り回し始めた。
2歩、3歩後ろに下がって回避。すると距離を取られた男がナイフを突き出してきた。
「突きは見切られやすい上に姿勢が崩れるんだ。どうしようもない時までとっておきな」
相手の手を上から掴むと、瞬時に腕を捻ってナイフを奪う。
自分の手から武器が消えたことに驚く男に、ナイフの柄をかち上げて下から顎を叩く。続いて、頭蓋骨にヒビが入らない程度に加減してこめかみに一撃。男は前のめりになって倒れる。
「が、ガキだ……! ガキを抑えちまえ!」
2番目に倒したまとめ役の男が、苦しげに息を吐きながら残る1人に指示を出した。
最後まで遠巻きに見ていた臆病そうな男が頷き、
だが、その手は空を切る。
少年の姿は、まるで煙のように消えてしまった。
「なっ……!」
臆病そうな男は何が起きたかわからず驚きの声をあげる。
その男から少し離れた場所で、フード姿の人影がそっと着地する。
「〈
人影——シオンの両手には
風に乗り、風の速さで移動する魔術〈
彼女が移動の魔術を使えることは知っていた。後から聞いたことだが、脱走したエルーを追い掛けるのにこの術を連続使用していたらしい。
「さて、どうするよ」
トバリは最後の1人の前に腕を組んで立ち、問いかける。
男は倒れた仲間達を見渡した後、震えながら両手を挙げた。
「こ、降参するよ……見逃してくれぇ。もうデ……亜人には手を出さない。ち、誓うよ……」
「じゃあとっとと仲間連れて村に帰れ」
臆病な男とまとめ役の男が、白目を向いて気を失っている2人をそれぞれ背負ってこの場を去っていった。
シオンは抱えたままだったティビをそっと地面に立たせると、顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 怪我はない?」
ティビは小さくこくんと頷く。
「うん。あちこち蹴られて痛いけど、大丈夫。あの……お姉ちゃん、ありがとう」
お礼を言った後、ティビはためらいながらシオンを見る。
「あのさ、お姉ちゃん……オレ、犬の耳が生えているけど、変じゃないかな。こんなものいらないって、思わないかな……!」
「変じゃないよ。あなたの立派な耳は、お父さんとお母さんからもらった大切な贈り物。遠くで困っている人の声を聞いて、助けに行ってあげられるような優しい力。だからあなたは自分の個性を大切に、ね」
シオンの手が触れるごとに、ティビの顔が真っ赤になっていく。最後には泣き出して、シオンに抱きつくのだった。
その光景を微笑ましく見つめながら、トバリはふと気が付いた。
(おいしいところを取られてしまっている——!?)
* * *
病床のラキへのお見舞い品やクリスロアへのお詫びの釣竿、その他細々とした買い物を終えると、
父親と一緒についてきた少年ティビはすっかりシオンに懐いてしまい、別れる時も名残惜しそうに何度も何度も振り返って手を振っていた。
今回の出来事は、淡い恋として彼の記憶に甘酸っぱく刻まれることになるのだろう。そして残念ながら、その記憶の中に
(まぁ、差別を受けた嫌な記憶が残るよりはずっといいか)
トバリはそう考え、納得することにした。
御者席に乗り込むと、シオンが当たり前のように隣の席に座ってきた。
「え、なんで隣に座るんだ……」
「荷台が荷物でいっぱいだからだけど。どうしたの」
シオンが木材やその他の買い物で埋まっている荷台を指差し首を傾げた。
つまり、これから牧場に帰るまでの間、この少女と肩が触れるくらいの距離で過ごさなくてはならないわけだ。果たして自分の心臓はもってくれるのだろうか。
(これが、最後の試練か……!)
トバリは緊張で唾を飲み込むと、手綱を打ってブルートドラゴン達を走らせるのだった。
山の向こうに沈みかけた太陽が、刻々と黄昏の色を濃くしていく。
荷車はごとごと音を立て、燃えるような朱色に染まった土の道を走っていた。
「あなたが戦う姿を見るのは2度目だった」
トバリが話の話題を頭を捻らせて考えていると、唐突にシオンが話しかけてきた。
「あなたの動きは普通の兵士じゃない。恐らく、とても優秀な部類だったはず。もしよければだけど、牧場へ来た経緯を教えてほしい」
トバリは想定外の問いかけに、しばし目をパチクリと動かした。まさかこの少女から自分の過去について聞かれるとは思ってもいなかった。
さて、何から話せばいいだろうか。少し考えた後、ポツリポツリと話し始める。
「親父を侮辱されたんだ」
それからトバリは、自分の父がかつて兵士だったこと。剣術に長け、武人の最高峰たる〈剣聖〉に近いとされていたこと。とある魔物との戦いで部下を庇って片目と片手を失い、自暴自棄になって酒に溺れたこと。酔って川に落ちてそのままあっけなく死んでいったことを話した。
「……ところが、自分が王都に戻った時の部隊の上官が親父に恨みがある人でな。事あるごとに自分に突っかかってきたんだ。しまいには親父を馬鹿にしてきて……気がついたら自分はそいつをぶん殴っていた。規律を乱す奴は本部には不要だと言うので、牧場に来たってわけさ」
話をしている間にあの上官の嫌味ったらしい顔と声が蘇ってきて腹が立ってきた。人が集団の中で生きていくためには何より人間関係が大切なのだと思い知らされた。
「……お父様のことを尊敬していたのね」
トバリの話を聞いたシオンが呟いた。
「尊敬とは少し違うかな。自分の記憶に新しいのは、酔って暴れるどうしようもない駄目親父だ。だが、父が目指した〈剣聖〉を自分も目指しているし、そのために強くなろうと鍛錬をした。シオンさんが
トバリは苦笑してそれを否定する。
ふと顔を上げると、夕暮れの赤紅色の空が目に入った。じっと見ていると、なんとも言えない切ない気持ちがこみ上げてくる。
「……実は、あなたの事情を知らないまま〈
シオンがうつむき、謝罪の言葉を呟いた。
自分の過去について尋ねたのは、この話題を切り出すためだったのだろう。
さて、なんと返せば良いだろうか。きっと「気にするな」と伝えてもこの少女は気にし続けてしまう。付き合いは短いが、それぐらいはわかる。
トバリは少し考えた後、
「……自分は牧場に来た時、ドラゴンに対して嫌悪感を抱いていた。それは魔物全般に対して等しく感じている感情だったが、特にドラゴンは親父の目と腕を奪った相手だからな」
父は火を操る凶暴な〈火炎竜〉ファイアドラゴンとの戦いの中で、恐怖で立ち竦む部下を庇ってその炎が宿る爪を体に受けたと聞いている。
シオンが何か言い出そうとしたが、手で制した。こちらの本題はこれからだ。
「だが、牧場のドラゴンと生活を共にしていく中で、彼らにも個性があり、集団の
親と引き剥がされて世界の全てに恐怖し、威嚇ばかりしていた仔竜が、自分が与えた食事を食べ、目の前で眠ってくれた。その経験は、自分の中で例えようのない幸福感を感じる出来事だった。
「お日様の中で眠るエルーの姿を見た時に、とても熱い感情が湧き上がってくるのを感じた。多分、自分は嬉しかったのだと思う。あの子に声を届けようとしたシオンさんの頑張りに、この〈
自分の右手の甲に刻まれた契約の印を見る。
円形の内部に竜の爪跡のような模様が入った印は、まるで自分が生まれた時からそこにあったように馴染んでいる。
この印がどれだけの力を持ち、何ができるのかはまだ知らないが、少なくとも印を刻んだ日からエルーを取り巻く状況は好転してきている。
「だから——」
トバリは〈
「君は、もっと君の力を誇ってほしい。異なるものに言葉を伝えようとする、その力を」
少女の透明な水色の瞳が大きく開かれた。その目に茜色の光が反射し、二つの色が水の中に落とされた絵の具のように溶け合っていくように見えた。
春風が優しく吹き、少年の鳶色の髪と少女の銀色の髪を揺らす。
車輪が石を踏んだのか荷車が大きく振動した。シオンは息を吐くと、ぷいっと顔を背ける。
「……都の人は、そうやって女性をたぶらかすのね」
「たぶらっ!? いや、いや! そんなつもりは全くなく、そもそも自分は辺境暮らしの方が長く、女性と話した機会も少なく、ええとそれから……!」
トバリは誤解を解こうと混乱したようにあれこれ言葉を連ねる。
「でも、ありがとう。少しだけ……救われた」
再び前方に視線を戻したシオンが、かすかに笑いながら言った。
そんな笑顔を見てしまうと、なぜだか全ての労が報われたように感じてしまうから不思議だ。
「あ、あの、シオンさん——」
「シオン、でいいよ」
トバリの言葉を遮り、シオンが言った。
「歳は私が一つ上だけど、牧場では関係ないから」
年齢については初耳だった。自分が17歳なので、この少女は18歳なのだろう。
「で、では……シオン」
「うん」
シオンがこちらをじっと見つめ、次の言葉を待っていた。トバリは緊張した声で続ける。
「牧場に、帰ろうか」
「そうだね」
トバリは手綱を一つ打った。ブルートドラゴン達は少し速度を上げてなだらかな坂道を駆け上がっていく。
今が夕暮れでよかった、とトバリは思った。
多分、自分の顔は恥ずかしさと嬉しさで真っ赤になっていただろうから。
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