オレガノの香りを追って(2)
クリスロアが貸してくれた細い木の釣竿は、よくしなるが丈夫そうな一品だった。
両手で抱えるような魚も釣り上げる事ができるだろうが、これからこの竿に食いつくのはドラゴンの子供である。どうなるかは予想できない。
「これで大丈夫かな」
トバリは糸を短く調整した釣竿を持って感触を確かめる。
釣り糸の先には針で肉を吊るしてある。食いついたエルーが針に掛からないために、細長い棒肉で試してみることにした。
軽く竿を振ってみるが、針は肉に食い込みすぐには落ちなさそうだ。
「……なんだか凶悪な武器にも見える」
シオンが即席の給餌器を見て呟いた。
確かに長い棒の先に振り回せる塊が付いている様は、
「まぁ、試してみてダメだったら別の方法を考えよう」
トバリは「食べられる
できれば早いところ別の快適な竜舎に移したいのだが、急に住む環境を変えてしまうのはドラゴンにとって
『きゅう、きゅう』
檻の中のエルーが2人を迎えるように鳴いた。
昨日の騒動で壁の一部が壊れてしまったために、エルーは別の檻に移っている。壁の穴から日が差し込み、監獄のような竜舎の雰囲気を少し和らげていた。
「ほぅら、おいしいお肉だぞ」
早速、トバリは檻の外から釣竿を中に差し込む。釣り糸の先の棒肉がエルーの視線より少し上に来るように持ち上げた。
釣竿を振って、棒肉を揺らす。
エルーはフラフラ揺れる棒肉をじっと見ていた。
やがて本能が刺激されたのか、あるいは親竜との食事の記憶が脳裏によぎったのか、獲物に食らいつくように首を伸ばして肉に噛み付いた。
エルーの牙が肉に食い込むのを確認してから、トバリは釣竿をさっと引く。針が肉から外れて、糸が宙を舞った。
それからエルーは空腹を突然思い出したかのように、咥えた肉を前足で抑えながら猛烈な勢いで食べ始める。
試みは成功したのだ。
「やった!」
トバリは片手で釣竿を持ちながら、もう片方の手で拳を握る。
シオンは手を合わせて息を呑んだ。
あっという間に一つ目の肉を食べてしまったエルーは『きゅい、きゅい』と鳴いてお代わりを要求する。ドラゴンの言葉がわからないトバリでも、それくらいは理解できた。
シオンから追加の棒肉を受け取ると、それを針に刺してエルーの眼前で揺らす。
今度は間髪入れずに食いついてきたものだから、トバリは慌てて釣竿を引いてしまった。
乾いた音がして、釣竿は真っ二つに折れる。
「あぁあああ! クリスロアさんの釣竿がぁ!」
シオンがさっと折れた竿を掴んで引っ張り針を回収した。エルーが肉の全てを平らげたのは、次の瞬間だった。
彼女の機転がなければ、仔竜は針ごと肉を飲み込んでしまっていただろう。
「あ、ありがとうシオンさん……!」
「いえ。うまくいってよかった」
猛烈な食欲を見せたエルーだったが、まだ体が小さいためか腹が満ちたようだった。
今度は眠そうに目を瞬かせる。
「食べたらすぐにおねむか……健康そうで何よりだ」
「ねぇ、トバリ。今日はいい天気だし、その……この子を外で寝させたいの。手伝ってもらえないかな。契約を交わしたあなたがいれば、初めての環境でも落ち着くと思うの」
シオンが口ごもりながら言った。
「もちろん手伝うが……なんで言いにくそうなんだ?」
「……この子と呼ぶのが、なんだか恥ずかしい」
トバリが尋ねると、シオンは顔を背けて答えるのだった。
エルーを伴い、隔離竜舎から屋外へ出る。
昨日の嵐はどこへやら、雲ひとつない空が明るく輝いている。春先のやや冷たさを帯びた風が心地よい。
エルーは太陽の光を浴びて煌めく草原を、不安そうな足取りながら一歩ずつ歩いていく。
日差しの良さそうな場所を見つけると、そこで4本足を曲げてしゃがみ込んだ。
「エルーが、空の下にいる……」
シオンが声を震わせた。
確か、エルーとは古代語で「空」を意味する言葉だった。その名の通り、仔竜はまた自由な空の下に戻ってくることができたのだ。
あの暗い檻の中で牙を剥いて威嚇をしていたエルーが、今は太陽の光を浴びている。
初春の柔らかなお日様を浴びて心地好さそうに眠るエルーを見ると、トバリの心にも温かな気持ちが込み上げてくる。
(ラキにも早く見せてあげたいな。あいつは、人一倍エルーのことを心配していたから)
どうやらブルートドラゴンに乗って大雨の中を走り回ったのが原因らしい。
「エルー、よかったね」
シオンが目を閉じるエルーのそばに近寄り、起こさないように小さく呟きそっと頭を撫でた。
彼女は、エルーがこの牧場に運ばれて来た時からすっと寄り添い続けていた。闇の中にうずくまり、近づく者を威嚇するばかりだったエルーになんとか言葉を届けようと粘り強く向かい合い続けていた。トバリはそう聞いている。
あの嵐の日の出来事は、あくまでもきっかけに過ぎなかったのだろう。この右手に光る〈
エルーを空の下へと導いた本当の要因は、シオンが氷を溶かすように仔竜の心を開いたことだと今なら理解できる。
(この光景を見ることができただけで、自分がこの場所に来た意味が少しはあったのかもしれない。そう、ほんの少しだけ……)
眠る竜の仔を愛おしそうな目で見守るシオンの姿は、控えめに言って聖女のようであった。
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